39章:閉じられた夜、開いた扉
真琴のマンションの前。
オートロックの扉が閉まる音と同時に、背後で誰かの足音が止まる。
「……つけてきたのか、お前」
振り返ると、そこには当然のように弓弦がいた。スーツのネクタイを緩め、ポケットに手を突っ込んだまま、涼しい顔をして立っている。
「“先回り”ですよ。主任の帰る時間は、ほぼ一定ですから」
「……ストーカーかよ、お前は」
「違います。“必要な人の行動を把握しておく”のは、マーケターとしての基本です」
平然と、しかし確実に踏み込んでくる。
言い逃れのできない静かな圧。
それが、いつしか“嫌悪”ではなく“期待”に変わりつつある自分に、真琴は気づいていた。
「……コーヒー、淹れるけど。飲んでくだけなら、どうぞ」
扉を開けながらそう言うと、弓弦はわずかに目を細めた。
「“だけ”なら、ですか?」
「勘違いするなって意味だ」
「……はい、主任」
けれど、微笑の奥にあるものは――それ以上だった。
カップを置く音だけが響く部屋。
仕事の資料も、スーツも、肩書きも、今は横に置いたまま。
「なんで、俺なんだ?」
思わずこぼれたその問いに、弓弦は少しだけ笑った。
「それは、“主任がまだ自分の価値に気づいてない”から」
「……は?」
「誰より聡いのに、自分のことだけは冷静に見られない。そんな人を、“俺が”正しい場所に導きたくなるのは、自然なことだと思いませんか?」
甘くはない。
でも、確実に心に入り込む声。
真琴はもう、彼の言葉を「ただの後輩の発言」として処理できなくなっていた。