37章:掌の上、しかし逃げられない
午後の会議を終えた後、真琴はようやくひと息つけた……はずだった。
だが、ロッカールームでネクタイを緩めた瞬間、不意に背後から聞き慣れた声が届く。
「お疲れ様です、主任。ネクタイ、今日もゆるめすぎですね。だらしない印象になりますよ」
「……お前、なんでここに」
振り返ると、弓弦が壁に寄りかかり、涼しげな目でこちらを見ていた。
どこか笑っているようで、けれど眼差しは一分の隙もない。
「先に上がるって言ってなかったか?」
「ええ、でも……気になって」
その言い方に、妙な引っかかりを覚える。
「俺が?」
「いえ。あなたがこのあと“誰と帰るのか”が、です」
あくまで軽く、さりげなく。
しかし、その一言には確かに含みがあった。
そう、あの新人営業・成瀬と真琴がエレベーターで親しげに話していた——それを弓弦は見ていたのだ。
「……監視でもしてんのか、お前」
「観察、です。管理するためには当然の範囲ですよ?」
「……お前なぁ……」
言い返せず、ネクタイを外す手が止まる。
そんな真琴に、弓弦は数歩近づいてきた。至近距離。
その視線が、すぐ目の前で絡まる。
「……主任。あまり“無防備”な顔は、他人に見せない方がいい」
「……それ、お前が言う?」
「俺だから言うんです。誰にも渡す気はないので」
声が、低く響いた。
その宣言は、すでに独占の域を越え、「所有」の意志に満ちていた。
言葉にできないまま、真琴はただ、視線をそらした。
逃げたはずの一歩が、逆に、深く踏み込まれていく。




