32章:支配の手綱
週末前、真琴は遅くまで残業していた。
クライアントからの修正依頼が入り、全体の提案資料を再構築する必要があったからだ。
気づけば夜九時を回っていたが、フロアにはまだ数人、灯りの下に座る影があった。
帰り支度をしてエレベーターに向かう途中、すでに退勤したはずの名前をふと見つけた。
――柊木弓弦。
「あれ……まだいたのか?」
声をかけると、コピー機の奥からひょいと顔を出す弓弦が、穏やかに微笑んだ。
「主任こそ、随分遅くまで。ほら、付き合わないと怒られそうで」
「俺、そんな圧あったか?」
「ええ、合理的なプレッシャーが」
にやりと笑って、彼は並んで歩き出す。
エレベーターに乗り込んだ時、閉まるドアの奥に誰かの視線を感じたが、口には出さなかった。
ビルを出て夜風を受けた瞬間、真琴は小さく息を吐いた。
けれど――
「駅まで送ります」
「タクシー捕まえりゃいいだろ」
「だったらタクシーを手配しておきました」
言うが早いか、弓弦はスマホを掲げる。
通話の履歴が、すでに予約済みの文字を映していた。
「……お前、いつから決めてた」
「主任が“このまま帰る”と判断した時点で。5分前ですね」
歩調を合わせながら、横目で見上げてくる弓弦の視線が、今夜はどこか静かに熱い。
言葉よりもずっと強く、自分を掴みにきていた。
「……それ、便利な支配だな」
「愛情の裏返し、と捉えていただければ」
タクシーが到着する音がして、二人はそのまま歩みを止めた。
――もう逃げ道なんて、とっくになくなっていたのかもしれない。




