30章:越境の距離
午後、社内のカフェテリア。
プロジェクトの報告書を提出し終えた真琴は、資料を抱えたまま足を止めた。
近くの窓辺に、弓弦が座っていた。斜めに光が差し込む席。彼は気づいていたのか、視線だけをこちらに向け、目を細める。
「……お疲れさまです、主任」
「少し、時間あるか?」
言葉に戸惑いがあった。だが、それを悟られないように声を整える。
弓弦は小さく頷いて立ち上がった。
二人並んで歩き出す。誰もいない会議室に入ると、真琴は扉を閉め、何も言わずに弓弦の腕をつかんだ。
――一線を、越えるわけじゃない。
それでも、たしかに「触れた」のは、真琴の方だった。
「……お前の言う通りだよ。もう、いない方が不安になる」
それは告白ではない。でも、明確な“選択”だった。
言葉を重ねずとも、弓弦の目が、どこか緩んだのがわかる。
「今の言葉、何度でも再生したいですね」
「録音はしてないだろうな」
「さすがに……してません。ちゃんと、記憶に保存しました」
肩に軽くかかる手の温度。
真琴はその体温を、拒まなかった。むしろ、深く息をつくようにして――そのまま、静かに目を閉じた。




