28章:逃げられない夜
部屋の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
真琴はソファに座るでもなく、立ち尽くしていた。弓弦はキッチンでグラスに水を注ぎ、それを差し出す。
「飲んで。……喉、乾いてますよね」
その何気ない気遣いに、鼓動が速まるのを自覚する。
そして同時に、目の前の男がどれだけ自分を“読んでいる”のかがわかってしまう。
「……ずるいな、お前。そういうとこ」
「何がです?」
「全部見透かしたように言って……俺を、囲い込もうとしてる」
弓弦は微笑んだ。それは、勝者の笑みではなく――ただ、優しく、確信に満ちたものだった。
「だって、先輩。あなた、自分じゃ気づいてないでしょう? もう、俺なしでは仕事も思考も“物足りない”って」
「……それは、お前の思い上がりだ」
「じゃあ、証明してみてください。俺がいない明日を」
言葉が詰まった。
それができない自分を、もうとうに知ってしまっている。
「ねえ、先輩。……今夜くらい、無理に突っぱねなくていいんですよ」
弓弦は歩み寄り、そっと指先で真琴の前髪を払った。
その手つきは慎重で、けれど逃がす気などないことを、肌が覚えている。
「俺に甘えてみませんか。論理なんていらない。ただ、感情のままに――」
距離はもう、数センチもなかった。
唇が触れる、その手前で。
真琴は、かすかに息を飲んだ。
「……ふざけんな、柊木」
「ふざけてませんよ。本気で、“あなたを手に入れたい”んです」
その目に、嘘はなかった。
夜は静かに、二人の影を包み込む。
境界線は、もう曖昧だった。