23章:境界線の外へ
「……これ、先輩の分もコピーしておきました」
いつものように、弓弦は淡々と資料を差し出す。
だがその指先が、わずかに真琴の手に触れた。
一瞬のことだった。けれど、その“さりげなさ”が、真琴の思考をかき乱す。
「……お前さ、無駄に距離、近くねぇ?」
「合理的に考えてください。わざわざ遠回りするほうが不自然ですよ」
軽く笑うくせに、その目は笑っていない。
真琴が一歩引けば、弓弦は一歩詰めてくる。
仕事の流れも、会話のペースも、まるで“操作”されているような心地がしてならなかった。
その日の夜。
プロジェクト進行の打ち合わせ名目で、二人はまた個室のあるレストランにいた。
「先輩、最近やけに警戒してますよね」
「そりゃそうだろ。俺、何度お前にペース崩されたと思ってんだ」
「……それ、俺のことばかり見てるって証拠ですよね?」
「……は?」
「目、逸らさないでください。俺のほうがずっと先輩を見てますよ」
ワイングラスの向こうで、弓弦の瞳が真琴を射抜く。
「先輩の癖、口調、思考パターン――全部、もうインプット済みですから」
真琴は、思わず言葉を失った。
まるで恋人でもないのに、
まるで彼の目には、“俺しか映っていない”ような感覚。
「だから、そろそろ本音で話しませんか?」
「……なにを、だよ」
「俺が、先輩をどう思ってるか」
空気が静かに張り詰めた。
キスはしない。触れもしない。
ただ、言葉だけが異様に熱を帯びていく。
なのに、真琴はそれを拒めなかった。
――この夜を境に、もう“ただの上司と部下”ではいられなくなるとわかっていても。