16章:侵食される日常
翌朝、真琴はぎりぎりまで布団の中で目を閉じていた。
昨日の会議室でのやり取りが、ずっと頭から離れない。距離も、言葉も、視線すらも、危険な温度を帯びていた。
「……あいつ、ほんと、なんなんだよ」
独り言のつもりだったのに、玄関のインターホンが鳴ったのは、その直後だった。
『長谷川主任。おはようございます』
インターホン越しの声に、身体がびくりと跳ねた。まさか――
恐る恐るドアを開けると、案の定そこにいたのは、完璧なスーツ姿の柊木弓弦だった。
「なんで……部屋番号まで知ってんだよ」
「以前の企画資料、送り先に主任の自宅が記載されてましたよ。正確に言えば、“知ってた”んじゃなくて、“気づいただけ”です」
言葉は冷静だが、微笑は余裕に満ちている。
彼は片手に缶コーヒーと、資料の入った封筒を持っていた。
「通勤ついでにお迎えを。今朝、電車が止まってるみたいですし」
「……調べたのか?」
「ええ。主任が今朝、遅刻ギリギリまで動けないタイプだっていうのも含めて、ですね」
まるで、すべてが“予定通り”だと言わんばかりの流れ。
どんな言葉を返しても、彼の支配の中にあるような気がして、真琴は舌打ちするしかなかった。
「……乗せてもらうのは一回だけだ。誤解されたら面倒だしな」
「大丈夫ですよ。俺が主任を“誤解”するようなことは、ありませんから」
弓弦は助手席のドアを丁寧に開けて待っている。
その一連の所作は、どこまでも優雅で紳士的――なのに、どこか“檻”のようにも感じられた。
その車に乗ることは、きっと何かを失うことだ。けれど。
背を押されたわけでもなく、引きずられたわけでもなく。
自分の足で、真琴はその空間に足を踏み入れてしまった。




