15章:境界線の破り方
「このあと、少しだけ時間いいですか? 先方向けの資料、詰めておきたくて」
定時を過ぎたオフィスで、弓弦がそう口にしたのは、他の社員たちが帰り支度を始めたタイミングだった。
曖昧な時間、誰の目も気にしなくて済む“隙間”を、彼は狙っていた。
「……社内でいいんだな?」
「ええ。会議室でも、主任のデスクでも、どちらでも」
会議室に入ると、弓弦は自然な手つきでノートPCを広げた。
けれど、すぐに資料の話はせず、ひと呼吸おいてこう切り出した。
「主任。最近、少し眠れてないですよね」
「……は?」
「目の下、少し赤い。あと、癖なんでしょうけど、資料を指で3回叩いてから話すのも、焦りのサインだって、前に誰か言ってましたよ」
くすりと笑いながら、弓弦は距離を詰めてくる。
あくまで柔らかな声で、けれど目はまったく笑っていない。
「俺がいると、調子が狂う……とか?」
「……何が言いたい?」
「別に。知りたいだけです。主任の“脆さ”も、“癖”も、ぜんぶ把握しておきたくて」
その言葉に、真琴は咄嗟に椅子を引いた。
けれど、弓弦は強引には詰めてこない。ただ、資料のページをめくりながら自然に言葉を落とす。
「……今の主任は、たぶん誰かに“ほどかれたら”、すぐに崩れますよ」
「誰が……ほどくんだよ」
問い返した声は、かすかに震えていた。
弓弦はその反応を、心底楽しんでいるように見える。
「たとえば俺、かもしれませんね」
沈黙。
熱を含んだ空気が、夜の会議室に満ちていく。
そして不意に、背後の窓に映る自分たちの姿が目に入った。
デスク越しの距離は、まるで恋人のように近い。
だがここは、職場だ。誰かに見られれば――
「……この距離、まずいだろ」
「大丈夫ですよ。ブラインドは、最初から俺が下ろしてますから」
その“用意周到さ”に、真琴は背筋をぞわりとさせた。
弓弦はそれすらも“当然”のように微笑んでみせる。
「主任が逃げないように、計算しておいただけです」