12章:ギリギリの境界線
ジャケットを脱いで、椅子にかける。
空調の効いた会議室に、わずかな湿気が残っていた。昨夜の雨が、どこか体に張りついているような感覚だった。
「……寝不足ですか?」
声をかけてきたのは弓弦。手に持った資料を軽く振って、さりげなく真琴の視線を誘導する。
「……昨夜、遅くまで資料の修正してただろ。お前こそ平気か?」
「ええ。“後処理”は、いつも僕の仕事ですから」
含みのある口ぶりに、わずかに背筋が強張る。
本人は淡々としているのに、妙な温度が含まれている気がしてならない。
それだけじゃない。
今朝、出社してから周囲の視線がほんの少し――鋭くなった気がした。
(……まさか、誰かに見られてた?)
昨夜、彼の部屋を出たのは深夜2時過ぎ。
誰にも会ってないはずなのに、なぜか空気が変わっている気がして落ち着かない。
「主任」
弓弦が少しだけ距離を詰めて、書類を机に置く。
指先が、わざとらしく真琴の手の甲を掠めた。
「……っ」
「すみません。触れてしまいましたね。でも、主任が退かなかったから」
耳元で囁くような低い声。
その一瞬、真琴の心拍数が跳ねた。
“触れただけ”の行為が、あまりに意味を持ちすぎている。
「……ふざけんな。ここ社内だぞ」
小声で制するが、弓弦は少しも動じない。
むしろその微笑みには、ほんのわずかに“自信”が滲んでいた。
「社内だからこそ、スリルがありますよね」
――こいつ、絶対わざとやってる。
だがそのくせ、外に漏れるような決定的な言動は一切ない。
触れたか触れないかの距離で、巧妙に“自分だけ”に分かる熱を与えてくる。
そんな中、部長の声が背後から飛んだ。
「長谷川、最近あの新人とよく組んでるな。……なんか、いい空気じゃないか?」
――心臓が止まりそうになった。
「い、いや、まあ……優秀だからな。期待されてるってだけで」
「あいつ、若いくせにキレ者だしな。……お前と、なんとなく波長合うよな」
その何気ない一言に、なぜか弓弦が軽く笑った。
真琴は思わず、机の下で彼の足を小突いた。
彼は咎めるようにこちらを見ながら、口元を隠して一言――
「“波長が合う”……嬉しいですね、主任」
心臓が、また跳ねた。
だが、もうその感覚を「嫌悪」と断言することはできなかった。