10章:崩れる境界線
タクシーの中。
夜の雨が窓を叩き、車内に静かな密室をつくっていた。
「今日は……助かったな。お前がデータの穴に気づいてなかったら、プレゼン飛んでた」
「当然ですよ。あなたが無駄に頭を下げるのは、見たくないので」
弓弦は隣のシートで、変わらない冷静な口調を保ったまま、傘を手元で整えている。
その指先を、視線の端で追っている自分に、ふと気づいてしまう。
今までは、こんな状況になっても“何か言わなきゃ”と思っていた。
けれど、今は違う。ただ黙っていても、この沈黙を彼が壊してくれるという、妙な安心感がある。
――それが怖い。
「……なんでお前、そこまで俺に関わるんだ」
「あなたは、放っておくとすぐ、全部一人で背負おうとする。合理的じゃない」
皮肉っぽく言っているはずなのに、どこか優しい響きが混じる。
それがまた、過去の誰かを思い出させた。
――あのときも、そうだった。
真琴が社会人になって最初に付き合った男は、部署の隣席にいた先輩だった。
優しくて、でも自己犠牲の多い人。無理を重ねて体を壊し、ある日突然、音信不通になった。
そのことがあってから、真琴は“誰かに頼る”ということが、うまくできなくなっていた。
「……放っておいてくれよ。俺が勝手にやるって言ってんだ」
「そうやって、全部シャットアウトするから、誰もあなたに踏み込めないんですよ」
弓弦の声に、苛立ちも怒りもない。ただ、どこか哀しげだった。
「じゃあ、お前は……踏み込むつもりかよ」
問いかけると、弓弦はこちらを見た。
いつものように冷静な笑み。でも、その奥に、確かに熱が宿っていた。
「ええ。戦略として最適解ですから」
――逃げられない。
タクシーは彼のマンションの前に停まった。
「雨、強いので。少しだけ、上がっていきませんか」
自然な口調だった。でも、それは罠だと本能が警告している。
この扉の先に、確実に何かが変わる「夜」があると。
それでも、真琴は傘を受け取りながら、彼の後を追ってしまった。




