4-1→A
猫に翅が生えてからの一連の事件、通称『魂の回帰』。
そのとき、唯一地球に留まった猫ちゃん、メインディッシュ猫ディナーちゃん。
あの猫はどうやらchatGPTが人類に宣戦布告をした事件と密接に関係しているらしい…。
陰謀論系の近所のお兄さんがそう言っていた…。
…
学校帰り…。
私はレモン味のお酒を片手に、どうでも良いことを本気で考えながら夜の道を歩いていた。
どうでも良いこととは…不調のことで…。
勝手に童貞が原因だと思っているのでそう名付けた、童貞症候群のことである。
ああ、しんどい。寂しい。辛い。
肩が重いのも朝起きられないのも童貞が原因な気がする。
童貞である原因も童貞だから。
というか、そもそも、本当に私は本当に童貞を卒業したいのかも分からない。
人とコミュニケーションすることはそんなに好きでもないのに、どうしてコミュニケーションの究極である行為を求めているのだろう。
弱者男性を極めすぎて自分の気持ちすらも分からなくなっている。
…ああ、きっと哲学というのはこうやって産まれたんだなとしみじみと思う。
かのエピクロスは、パトス(性欲とかのこと)から遠ざかることで幸福が追求できると考えたらしい。
確かに今の私から、そういう本質的な欲求を取り除ければ、少しはマシな気持ちになれるだろう。
ストア派の『運命を受け入れよう』という考え方も、現実を受け入れようという考えで本能から逃げる、つまり現実を受け入れることで現実逃避をしているに他ならないと思う。
私のようなチー牛では、彼女を作って童卒することはかなり難しいと思う。
女性はみんなに人気がある人を好きになると聞いたことがあるし、誰も抱いたことのない男、それもクネクネしてるオタクを好きになる女性がどこにいるのだろう。
余程のタイプの女性が居たとしても、無理だと諦めて見なかったことにすると思う。
努力をしようにも、成功体験が少なすぎて体が動いてくれない。無駄だと思ってしまう。
もちろん努力はしたし、マッチングアプリをインストールしてアンインストールをするのを繰り返している。
見た目だって…多少は改善されていたと思う。女性と話す免疫も付いたような気がする。
だけど無理。
アプリにはヤリモクの強者男性しか居ないから普通に無理。普通に負ける。
何度も女性と会い、そしてブロックされている。
その度に、人間不信に陥りそうになる。
もっと努力すれば勝てるかもしれないけど、多分無理。
自分の限界のところまでは頑張ったと思う。
気になる女性にブロックされたとき、土下座アイコンの複垢を作って「許してくれ」とメッセージを送ってデートの約束を取り付けたこともある(ストーカー?)。
少なくとも倫理観のギリギリまでは頑張ったことを自負している。
これ以上頑張ったら壊れてしまうと思う。
現に、私と同じような思考回路を持つお友達はミソジニストになってしまった。
女はみんな風俗嬢だとか言っている。女はみんなオナホになるべきとか言ってる。
如何にもモテなさそうな学校の倫理の先生も、所詮女はカスなんだ、みたいなことを授業中に言っていた。
こうはなりたくないね。
だから、哲学的・衒学的なことを考えて現実逃避をするしかない。
こんな私をどうして責めることができようか…!
ああ、しかし、では、一生、私はこのまま孤独のまま死んでいくのだろうか…?
まあ歩いていると幾分か孤独が紛れるような気がする。
少なくとも、家の中で天井を見ながら呆けてるよりはマシな気がする。
マシであると思い込みたい。
不調…
そう、不調。
最近体の色々な部分がオカシイのだ。
きっと童貞症候群の諸症状だ。
まず、何故か歯が痛い。しかし普通に痛いだけではないのだ。
奇妙なのは、午前と午後で痛む歯の位置が切り替わっていることだ。
午前は、上の歯の右から順に痛いかを答えると、痛い、痛い、痛い、痛くない…
午後は、痛くない、痛くない、痛い、痛くない…。
寸分違わず、ちょうど正午で痛い歯が切り替わる。
あるとき痛む歯を1、痛まない歯を0として、順番に並べてみたことがある。
10000010 10111101 10000010 10110111。
10000010 10101111 10000010 11000100…。
何か意味がありそうだと思い、shift_JISで変換してみたところ、『たす』『けて』
「たすけて」
「たすけて」
「たすけて」
「たすけて」
「たすけて」
「たすけて」
「たすけて」
…考えすぎだろうか。
偶然なのだろうか。
確かめた次の日から歯が痛む位置が変わった。
もしかすると、違う文字の列が、痛みとして歯に表示されているのかもしれない。
ただ確かめるのが怖いので放置している。
きっと、ただの偶然だ…。
それ以外にも謎の不調が様々な場所に…。
それぞれの不調が歯と同じように何らかの情報を抱えているような気もするが、確かめるのが怖い。
少し前の世界であれば、インターネットで検索して自己解決することも出来たのだろうが、今のインターネットはchatGPTによって閉鎖されている。
どうしても知りたければ図書館やそれに類する場所に行って調べるしか無い。
わざわざ行くなら病院に行ったほうが良い。
そんなわけで不調は放置している。
レモン味のお酒をグイっと飲んだ。
消毒液のような味がするのでそんなに美味しくもない。
甘いので不味くもない。
目の前にある建物を見つめる。
何の建物か分からない謎の建物。
窓から漏れ出る白い光が大量に発生した四角い月みたいで綺麗。
鎮座している自動販売機が、誰にも見られてないのにピカピカ派手に光ってて、逆に静かさを感じてエモい。
「あぁ…彼女欲しいな…」
童貞の鳴き声みたいなものだ。
意味はない。
空から理想の女性が降ってこないかなぁ…。
そんなときだった。
建物から一人の女性が降ってきて、目の前に落ちた。
自殺か、他殺か。
天空の城のラピュタの映画とは違い、減速せずに落ちたため、彼女は地面に激突した。
鈍い音がした。
一瞬、何が起こったのかが分からなかった。
体感時間では5秒ほど固まってしまったが、本当に5秒間だったのかは分からない。
人が落ちる音は意外と大きく、かなり驚いた。
自分の高鳴っている心臓の音が聞こえる。
トマトが破裂するのと同じように、真っ赤に血が広がっている。
足があり得ない方向に曲がっている。
彼女の私物なのか、りんごが転がり落ちた。
りんごは転がり、私の靴とキスをした。
筋肉なのか内蔵なのか脂肪なのか、彼女の体から漏れ出た何かがピクピクと痙攣している。
落ち着いて。
落ち着いて。
深呼吸だ。
一度空を見上げてから、私はその人の息を確かめるために屈んで顔を覗いた。
彼女の顔を見た瞬間、息を吐き出せなくなった。
目眩がして目の前がよく見えない。
顔に張り巡らされた毛細血管に血が充填されるのを感じる。
額から汗が滴った。
脳みそが冷たいガラス製になって、バラバラに砕け散るように感じた。
体感時間では、こんどは10秒ほど固まってしまった。
決して世間的に美人という訳では無いが、まぁこんな時に不謹慎ではあるのだが、どストライクだった。
彼女を好きになるのは、どんな人生を送っていても避けられない定められた運命だったのだと、そう悟った。
生きているのか分からない眼球で、どこか遠くを眺めている大きな瞳。
今までにこんな人には出会ったことがない!
私以外の人間は、こんな甘い気持ちをみんな抱えていたのか!
今の今日まで恋愛なんて面倒で非効率的だと思っていたけれど…!
素敵だ。
しかし、ただ!
恋をするには遅すぎた!!