花散る春の終わりに、目覚めたのは
死の表現があります。
苦手な方はご注意下さい。
よろしくお願いいたします。
春、麗らかに花が咲きこぼれる。
遠く、鳥の羽音が風のように聞こえた。
母と僕との二人だけの庭での茶会。
頭上では、若い木が枝の先まで花をつけて爛漫と咲いている。木に美しく花開く花姿も、ひとひらふたひら花弁を落として地面を飾り華やかに彩る落花も美しい。
木に残るも、地に落ちるも、どちらも美しい花に僕は目を細めた。
カチャリ、と母が茶器を手にとった。
母が花よりも美しく優雅に微笑む。
病気で余命を宣告されていた母は、そのお茶に何が入っているのかを知っていながら、僕のために微笑んで飲みほした。
だから僕も、笑ってお茶を喉に流しこんだのだった。
私は幼なじみに恋をした。
でも、告白はしなかった。お互いに重い立場や杭を打たれるようなしがらみがあって、自分の心ひとつで恋に溺れることのできる身分ではなかったからだ。
ただ、お互いを見つめるだけの恋だった。
わずかな風にもゆらぐ花のように、儚く。
凪いだ水面に映る月のように、朧で。
踏み出せば、周囲をたちまち巻き込んで貴族間のパワーバランスを崩す恋ゆえに、愛の言葉の欠片すら交わすことなく心の奥底に沈めた恋だった。
やがて王命により、私は王太子殿下の婚約者候補となった。なってしまった。
国王陛下は国益のために、権力と財力を所有する公爵家の娘である私を未来の王妃候補に指名したのである。
貴族家にしろ王家にしろ妻に求められる第一は、継嗣を産むこと。次に、妻の生家とのパイプ的役割。家の象徴的役割もあるから教養は必要だけれども、執務能力はほとんど要求されない。
たとえば王家では、内政も外交もそのための専門家である文官や外交官がいる。そして、判断力や共感力や統率力など特別な立場にふさわしい能力は統治者である国王に必要とされる。もちろん王妃にも賢明さは不可欠ではあるが、前世で読んだ小説の朝から晩までビシバシされて血を吐くような王妃教育なんてなかった。
そもそも貴族は男性社会なのだから、王妃が実務に口出しをすれば叩かれること間違いなしである。
少なくとも我が王国では、万が一王子の能力が足りなくても補佐するのは婚約者ではなく側近たちだし、前世の小説知識と違い王妃教育は緩かった。
マナー、ダンス、乗馬、音楽、外国語、諸々。
典礼における優雅なふるまい、気品ある微笑み方と品位ある挨拶と会話、詩を詠み、美声で歌い、雅やかに踊り。古語と王国の友好国及び敵対国の言語をマスターして。ついでに馬に乗って鷹狩りも。刺繍は苦手だったけど頑張ったわ。
社交の他には使用人たちの差配を熟して、しっかりと手綱を握って。領地運営の手伝いも少々。
あら? 結構あるわね、でも前世の義務教育と高校大学あわせて16年間の授業よりは楽だったわ。
だいたい16年も勉強したのに前世では身についたものは少なかった、大人になっても英語や科学などの理系の理解度はイマイチだったし。敬語やら謙譲語やら色々ややこしかったし。社会人になってから16年間で何を覚えたんだろう、と思ったものだ。
今世では授業は午前中だけだったけれども外国語はペラペラだし、やっぱりヤル気の問題かしら?
それとも、私に悪役令嬢の高スペックがあったから?
とにかく、王妃教育はそんなに辛くはなかったのだが。婚約予定の相手が悪かった。
王妃教育なのだから、相手は未来の国王である王太子殿下なのだが。この王太子殿下はことあるごとに自分の優位性を誇示するために、
「婚約を破棄するぞ。破棄されたくなければ、でしゃばった事を僕に謝れ」
と幼稚な言動をして私にマウントを取ろうとするお子ちゃまだったのである。
自分の地位を振りかざす王太子殿下に、歩み寄ろうと努力する私の気持ちは瞬く間に消滅した。
それに、私は言いたい。
「まだ正式に婚約をしていない」
と。王太子殿下に向かって言えないけれど。
王国の王族ならびに上位貴族の男性は、成人である18歳までは正式な婚約を結ばない。あくまで婚約者候補である。不安定な関係だが、過去に王族の婚約破棄による莫大な慰謝料の発生するヤラカシがあって、少しでも安全な方法を模索した結果、利害を理解して精神的にも成長しているであろうと期待しての、成人からの婚約となったのだ。
女性側に不利な婚約者候補システムであるが、男性が尊ばれ男性側の利益が優先される貴族社会の我が国で、女性として生まれてしまったからには従うしかないのである。
王太子殿下にも婚約者候補は5人いた。
私以外の婚約者候補は、生家の利害を背負ってギラギラ野心に燃えているが。王家としては公爵家のひとり娘である私を王妃に据えて、公爵家を取り込みたいとの下心満載で私を筆頭婚約者候補に指名していた。
しかし私の両親は、私が王妃となり私が産む王子に公爵家を継がせるのではなく、婿をとって私と同居しつつ生まれてくる孫を蝶よ花よと愛でたい、と考えていた。
両親も私も辞退したかったが、王命は拒否できない。
しぶしぶ王太子殿下の婚約者候補になったけれども、きちんと婚約者候補の役目は果たしてきた。上位貴族の令嬢の義務と責任として。それなのに王太子殿下の態度がアレでは。
しかも「婚約を破棄するぞ!」と王太子殿下は私にだけ宣言するので、他の婚約者候補から私は「おかわいそうに」と見下されていた。私が公爵令嬢なので表立って攻撃できない分、私を貶める陰口が山のように流れた。
「まぁ、また王太子殿下は他の婚約者候補をエスコートなさっているわ」
「公爵家の令嬢は筆頭候補とは言え、王太子殿下に見向きもされておらず、ふふふ、おかわいそうに」
「ご自分に王太子殿下のお心がない事を自覚して、いい加減に婚約者候補をお辞めになればよろしいのに」
「しがみついて、惨めですわね」
「ほほほ、本当にねぇ」
聴こえる囁きが鬱陶しかったが、これも小説のストーリー通りだ。ちゃあ~んと顔を覚えてあげましたから淑女の皆様、小説の期間が終わったら公爵家流の挨拶をいたしますから期待していて下さいませね。
などと言っているが、私が前世を思い出したのは最近のことだ。朝、目覚めると何故か前世の記憶があったのである。前世で読んだ小説の世界だ、と。
ありきたりな、王太子殿下と可憐な男爵家の庶子である令嬢との身分差の恋物語。で、私はそれを邪魔して、王太子と男爵令嬢の真実の愛を飾りたてるために断罪される王道の悪役令嬢の役柄。
そこで私は三つの策をすぐさま練った。
イチ、ヒロインを消す。
ニ、私がフェードアウトする。
サン、王太子殿下との婚約を破棄。
もし強制力があって断罪劇へ一直線ならば、ヒロインが登場する前にヒロインを消してしまえばいい。それが一番簡単。
私は公爵令嬢、ヒロインは男爵家に引き取られる前ならば貧民街の小娘。貧民街で人間が行方不明になる事なんて日常茶飯事である、若い女性ならば尚更に。
「あれがヒロイン……?」
小説が始まる前に、馬車の窓から道を歩くヒロインの姿を確認した。すでに調査済みであるので、ヒロインが寸分と違わず小説と同じ環境に居ることも使用人から報告をうけている。
ヒロインは、母親と手をつないで仲良く楽しげに歩いていた。
「人を殺してはダメ」なんて前世での言い分。
身分が絶対であり法である王国では、貴族が貧民を殺害しても罪にはならない。無礼打ちオールオッケーの世界なのだ。
公爵家の表の権力でイチャモンをつけて公明正大に処刑、あるいは裏の権力でこっそり人知れず処分してしまえば単純明快に問題解決。私の未来は安心安全である。
まだヒロインが何も行動を起こしていなくても危険性があるのならば、芽のうちに摘み取るのが上位貴族の令嬢としての正解の行為というものよ。
それに私、悪役令嬢になるのでしょう? ヒロインを先制攻撃で排除することは、正しい悪女の在り方だと思うわ。だいたい、断罪されるとわかっているならばヒロインの登場を野放しにする方が間違っている。もう前世とは生きる世界が異なるのだから倫理観は無視して、脅威となる前に抹殺してスパッと後顧の憂いを絶たなくっちゃ、家のためにもね。
人間として守るべき善悪は大切だけれども、貴族としての是非はもっと大切。家の存続がかかっているのだから。私が悪役令嬢として断罪されると家も没落してしまう設定なのよ、小説では。
そして没収された公爵領は王領となるのだが、公爵領は税金ラインの最低額であったのに対して王領は税金ラインの最高額であるので、領民の生活は一気に逼迫することになるのだ。
代々の公爵が少しずつ発展させて生活を向上させた領地が、領民たちが、苦しむなんて許せない。
少数派の権利と多数決の原理。民主主義イコール多数決ではないけれど、人民多数の意志が政治運営の方式を決定するウンヌンカンヌンって前世で習った気がするし。
ヒロインと大多数の領民。
ヒロインと私の未来。
前世でも今世でも悪役令嬢としても、どちらを優先するべきか明らかよね。
でも、私も公爵家も王妃の地位に未練はない。むしろ私が王妃になることは反対である。故にヒロインを消す必要はあまり無い、今のところは。
だから私は馬車から降りると、勢いよくヒロインたちとぶつかった。と言うか、後ろからヒロインの母親の背中をドン! と押した。
「ごめんなさい、急いでいたもので」
しれっと言って従者に、倒れて手のひらに血を滲ませている母親を指さして、
「私のせいで怪我をさせてしまいましたわ。病院へ連れて行くように」
と命令する。この母親は病気なのだ。ありがちな母親の死によって父親の男爵に引き取られる、という展開になるのだが。
私は高価な薬を使って病院で病気を完治させて、母親に再婚する気はあるか、と尋ねた。頷く母親に人柄のいい商人を公爵家の名前で紹介した。商人は美人の母親に一目惚れをして、母親は貧民街から金持ちの商人の奥方にランクアップし、そこでバイバイした。王都から距離のある地方都市なので、戻ってくることはないだろう。
母親にもヒロインにも凄く感謝されたが、もし小説と同じく私の害となればひっそり処分するつもりである。現実の上位貴族は敵対者に慈悲深くないのだ。
念のため小説開始時に王都に姿を表すことのないように、ヒロインは勉学の厳しい寄宿舎に入れた。学費は私のおこづかいで払った。ヒロインが希望する高等教育がうけられる学校だったので、「女神様……!」とヒロインから両手をあわせて拝まれてしまった。
うふふ、私は悪役令嬢ですもの。小説の設定なんて土台からぶっ壊してこそ、悪女にふさわしいというものでしてよ。
次に二番案のフェードアウトをするとして、その方法の打つ手というか解く手というか――私は第一王子殿下を婿にすることを国王に願い出た。
王国のメリットを重視する国王陛下は、公爵家を取り込むのが最善、最悪は繋がるだけでも良しと柔軟に対応する可能性が高い。ましてや深く寵愛していた亡き側室の忘れ形見である第一王子殿下が、公爵家の当主となることは国王陛下にとって有利な得策である。
第一王子ラムヴィリスは、母親の身分が低いが故に王太子にはなれなかったが、聡明で智に優れた王子殿下であった。その上、母親ゆずりの美貌で眩いばかりに美しく、国王陛下はラムヴィリスをそれはそれは可愛がっていた。
そして半年前の隣国との戦争において、王国を勝利に導いた武に優れた将軍閣下でもあった。
そのことが第二王子である王太子殿下の母親、つまり正妃様の怒りをかった。王太子殿下は暗愚ではないが優秀でもなく、王妃様にとって傑出した才能のラムヴィリスは目障りな存在であった。そこにきてラムヴィリスの戦勝における称賛の嵐である。
王妃様は密かに、側室とラムヴィリスのお茶に毒を混入させたのだ。側室は死亡、ラムヴィリスは王族として毒の耐性があったため生きのびたが重い後遺症が残った。
それが現状を、運命そのものを変えた。
国王陛下が王国の利のために公爵家へ王太子殿下の婚約者候補になるようにと王命を下した過去と、王妃様の手によって毒を盛られて、かろうじて一命をとりとめたラムヴィリスの現在。状勢は大きく変化し、何より国王陛下の意向が大きく変化した。
ついでに100回目の、
「婚約を破棄するぞ」
と宣った王太子殿下に対して、
「喜んで承諾いたしますわ」
と返事をした第三案の婚約破棄のイマココの状態であった。まさに飛んで火に入るナントヤラである。
大丈夫。
ちゃんと事前の準備も根回しも対策済み。国王陛下は、私を王妃にして国益を優先しようとした過去よりも、愛してやまない大事なラムヴィリスを公爵家の当主としてラムヴィリスの守りをかためる現在を選んだ。強大な王妃様の権勢が、毒殺事件の発覚により崩壊寸前まで揺らいでいることも大きい。
常ならば謝罪して従順に頭を下げる私が了承したことに、王太子殿下が目を見開く。
「婚約破棄だぞっ!?」
「ですから喜んで承ります、と」
にこやかに微笑む私の後ろには、同じくにこやかに微笑む両親がいた。だが、誰も目が笑っていない。短慮な王太子殿下の言動にうんざりしているのだ。
私の言葉に呆気にとられた表情をしていた王太子殿下は、息を吹き返すと勢いよく迫ってきた。
「おい! 本気で言っているのか!?」
伸ばされた手を、私は身をよじって避けた。王太子殿下の手がむなしく空を切る。
「婚約破棄宣言をなさったのは殿下ご自身でございます」
傷ついたように王太子殿下の顔が歪むが、その何十倍も踏みつけにされてきたのだ今まで、王太子殿下に私は。息を潜めて、感情を抑えて、我慢をして。
もともと王太子殿下の婚約破棄宣言がなくとも、今日は有無を言わせぬ権威の頂点である国王陛下の強権によって、婚約者候補を解消してラムヴィリスの婚約者に変更する予定であった。その手続きのための王宮への登城の途中で王太子殿下と出会っての、婚約破棄宣言である。
すでに王妃様が貴人牢である塔に幽閉されている現状で、時勢を読むこともせず思慮の浅い振る舞いをする王太子殿下に、王国の将来が心配すぎて溜め息しか出ない。名君と名高い国王は壮健であるし、強力な王妃様の庇護を失った王太子殿下の王位への道は公爵家が離去ることもあってほぼ閉ざされた。5人いる側室方のどなたかの王子殿下が新たな王太子殿下に立たれるのかも。
ヒロインが小説の舞台にあがる事なく消えたのは悪役令嬢らしく策謀した私のせいだが、王太子殿下に関しては助言を正しくしてきたのだ、私は。口うるさい女、と殿下は聴いて下さった事はなかったが。
「殿下、政略ゆえに恋はなくても、寄り添い支え合う関係を私は筆頭婚約者として、あるいは臣下として築きとうございました。私は王国のために努力をいたしましたが、殿下は私を詰るだけでございましたね」
王国のために。
王国のための婚約者候補であり、王国のために努力する私が王太子殿下は気に入らなかったのだろう。殿下自身に目を向けろ、と。私とて政略とはいえ歩み寄ろうとしたのだ、最初は。だが、誠実さもなく優しさもない王太子殿下に心の全てを捧げるなんて私には無理だった。
私も両親も形式的な貴族の立礼をして、頬を引きつらせる王太子殿下を置き去りに、その場を離れたのだった。
もうすぐ公爵家には、ラムヴィリスが婿入りする。それによって孫の代まで王国法によって守られる王族となるのだ。国王ですら口出し手出し不可となるのである。王国法万歳。王族だから王命に従う必要もなく、税金も兵役も宮廷出仕も免除。三代前の国王が盲目的に愛した王子のためにつくった超優遇される王族の法律が、公爵家にも適用されることになりウハウハな公爵家なのである。
意図的に、ラムヴィリスには婚約者候補がいなかった。王位争いを無用とするために、王太子殿下の嗣子が誕生するまでは結婚から遠ざけられていたのだが。毒殺事件から国王は、自身の寵愛だけでは守ることができなかったラムヴィリスに対して、公爵家の権勢も後ろ楯に加える方向に方針をかえたのだ。
ラムヴィリスは18歳なので、私は正式な婚約者となれる。そして半年後には結婚。薔薇色の未来が待っているというのに。
国王陛下に拝謁後、手続きを終えてから侍従に案内されて顔合わせのために訪れたラムヴィリスの部屋に入った私が見たものは、ベッドに横たわる痩せ衰えたラムヴィリスの姿であった。
朽木のように固くこわばった手足。
濡れた鳥のように細い身体。
部屋には花が腐蝕するみたいな香りが漂い、ラムヴィリスはガラス細工のように、触れると壊れてしまいそうな儚さだった。
まさか、毒による後遺症が意識不明の状態であるとは考えてもいなかった。こんなにも酷いことになっていたのなんて。
ラムヴィリスとの婚約が結ばれて喜んでいた自分を叱咤したい気持ちでいっぱいになった。
私は目に映るラムヴィリスの姿に、ありったけの想いを込めて呼びかけた。
「ラム……! ラムヴィリス……ッ!」
ラムヴィリスは私の幼なじみで、私の初恋の人で。
ラムヴィリスの事情はわかっていたから、私は告白をしなかった。ラムヴィリスも、自分が将来の公爵になろうものならば王妃様の嫉妬と憎悪が噴火することがわかっていたので、常に気持ちを自制して、お互いひっそりと誰にも気付かれぬように見つあうだけの関係だった。
私は、ボロボロと涙をこぼしながらラムヴィリスの手をぎゅっと握った。
「ラム、ラム! 死なないでっ! ようやく私たち結婚できるのっ! 子どもの頃に約束していたお婿さんとお嫁さんになれるのよ……っ」
「ラムヴィリスの片恋ではなかったのか……」
私の後ろにいた国王陛下が青ざめる。
「すまぬ。医師から目覚めなければラムヴィリスはこのまま、と宣告されて……、せめてラムヴィリスの片恋を叶えてやりたいと我は思ってしまったのだ。折よく公爵家から王太子との婚約を辞退してラムヴィリスを婿にと願いでられて。意識のないラムヴィリスであるが形だけでも初恋の相手と結婚をさせてやりたい、と」
私の両親が国王陛下に言葉を添える。
「ラムヴィリス殿下の状態は承知の上で、それでも王太子殿下にあのまま蔑ろにされて不幸な結婚するよりは、とわたしたちは思ったのだ」
「ごめんなさい。貴女が我慢して耐えているのは、王太子殿下の傲慢さに対してだと思っていたの。でも最近になって貴女の視線に気がついて。王太子殿下の婚約者候補になった当時ならば困難だったけれども、今ならば」
王国の国益、貴族のパワーバランス、何よりも王妃様の強大な権力、色々なものに縛られて私とラムヴィリスの恋は許されなかった。恋を叶えるために努力することも難しく、お互いに全てを捨てて逃げ出せるような無責任な地位でもなかった。
諦めるしかなかったのに毒により、運命が逆転して。
毒により、ラムヴィリスは死神に魅いられている。
私は握ったラムヴィリスの手にすがりついた。
「ラムヴィリス、やっと貴方に言えるようになったの。愛している、と。だから、だから目を覚まして、お願い、お願いラムヴィリス」
ひょおぉぉ、と強く吹いた風に落花の花びらが巻き上げられる。
宙を舞う仄白い花びらを纏った、母の美しい瞳が見開かれた。
僕までが毒入りのお茶を飲むことは、母の予想外だったのだ。
「ラ、ラムヴィリス、何故あなたまで……」
母の声が弦楽器のように震える。
「心配なさることはありません。母上、僕には毒の耐性がありますから」
「でも、でも……」
僕は、美しくて可哀想な母を見た。
母にとって、美しさこそが生まれた時から我が身を蝕む毒であった。
神の御手でつくられた如き美貌の母を、母の両親は細心の注意を払い所有する財産を欠片も残さず使って守り育てた。だが母の両親は、男爵という下位貴族ゆえに自分たちの限界も知っていた。
守りきれない、と。
だから母に『カルミア』と名付けたのだ。カルミア、有毒の花と。毒の花が毒でその身を守るように、毒の花の名前を持つことで母も自身を守れるように、と。
やがて成長した母は僕の父に見初められて、その側室となった。
それが母にとって幸福な道であったとは言いきれない。
母は父に寵愛されているので直接に危害を加えられることはなかったが、イヤガラセは無数にあった。母を悪女とする誹謗中傷が流布されて、母の両親も暗殺された。
生まれた僕も父から深く愛されていたが、恋すら許されないという状況が母を長く悩ませ苦しめた。
そんな時に母は死病を患い、王妃の毒殺計画を知り、僕の恋の障害となる王妃を引きずりおろす好機と考えた。
母は、王妃の策略通りに毒を飲むことにしたのである。
しかし、王妃を失脚させるためには母の死だけでは弱い。いかに父から溺愛されていようとも母はたかが男爵家出身の側室にすぎない。
王妃を地獄に落とすには、王家の血を継ぐ王子に毒を盛ったという事実が必要なのだ。
だから、これは賭だ。
僕は死ぬかもしれない。
だが生き残れば、王妃の排除と。
愛する彼女を手に入れられる可能性が高くなる。
太陽が昇り、沈む。
遠くに蜃気楼が陸上で見られる逃げ水の夏が来て。
露しげく草花に結び始める冷たい寒露の秋が来て。
降りたての雪の上を歩くときゅっきゅっと鳴く雪哭くの冬が来て。
めぐる自然の摂理により、樹木に新芽が萌え出る春が来て。
一輪の花を皮切りに、枝に息づく膨らんだ花芽が次々に満開となり。
若く生命力のある木は、空を覆い隠すほどにみっしりと枝々に花を咲き匂わせて。風が蝶のように鳥のように梢に留まり、花々を散らした。
散り舞う花々が、僕を案じて涙をこぼす母に絡みつく。
妖精がささやくように、か細げに。
淡雪が掌で消えるように、あえかに。
春に祝福を受けて父母に愛されて生まれた母に、花々が。
春に、毒を飲み血を吐く母に涙するように花びらを降り散らした。
もう母に季節はめぐらない。
今日で母の春は終わる。終わってしまうのだ。
「……お父様、お母様、カルミアは仇を討ちました……」
母の最期の言葉とともに、ひとひらの花びらがカップに残っていたお茶に落ちた。
僕は、カップのなかで揺蕩う花びらとお茶を喉へと流し入れた。一本の細い清流のごとく体内に通り落ちる。
飲み干したカップが手から滑り落ちた。
王妃は逃げられないだろう。
反駁の余地がないほどに証拠は揃えられているのだから。証人、証拠物、証拠書類、全て完璧である。しかも母は、事前に毒殺を察知していたことの隠蔽も万全の処置をして、母が関与してないところから証拠が出るように手配をしていた。
僕は、倒れている母の華奢な手をとった。
まだ、あたたかい。子どもの時から知っている、優しいあたたかさだ。
その体温が消えないように、両手で覆って力の続くかぎり僕は握りしめたのだった。
「ラムヴィリス」
誰かが僕を呼んでいる。
誰かが、僕の手を握っている。
知っている手だ。しかし母の優しい手ではない。
せつなくて、ときめいて、苦しくて、愛しくて、忘れることのできなかった手だ。
この手は、花びらを貼り付けたみたいな淡い色彩の爪で。
この手は、白くて細く白魚みたいな指先をしていて。
僕の、恋しい愛しいセシーアの手だ。
「ラムヴィリス……ッ! ラムヴィリスが目を覚ましたっ!!」
読んで下さりありがとうございました。