教皇様、私の事は諦めてください
「リーズちゃん、これ新作なんだけどどう?美しいでしょ?」
教皇ジャン・バティスト・ランベールII世猊下が治める神聖国エスペランス。
その聖都から遠く離れてはいても、それなりの賑わいがある街エマーブルにあるパティスリー・シャルムの厨房で、パティシエのエミリアンは満面の笑みで私の方へとエクレールを差し出してきた。
エクレールとは細長く焼いたシュー生地の中に、クリームやガナッシュを絞り、表面にショコラでコーティングした菓子の事だ。
一般的にはそれで完成なのだが、流石は美に人一倍拘りがあるエミリアンの作る物だけあって、これは表面にアラザンや薔薇を模した砂糖菓子が付いていて見た目にも華やかで美しい仕上がりになっている。
「うわぁ!凄いわ、エミリアン!とっても綺麗ね!」
「リーズちゃん、この格好の時はエミリアンじゃなくてエミリーって呼んでっていつも言ってるでしょ。ほら、呼び直しよ」
美しいエクレールに目を輝かせて歓声をあげたものの、エミリアン……いや、エミリーは呼び方が気に障ったのか美しく整えられた柳眉を釣り上げてしまった。
エミリーはさらさらとした美しいブロンドの髪に加えて、アクアマリンの様に綺麗な瞳という見た目は誰もが振り向く様な長身の美女なのだが、実際は正真正銘の男性だ。恋愛対象は女性らしいのだが、とにかく美しいものを追求していて、自分の美しさを最大限に活かす姿が今のエミリーという訳らしい。
寝る時なんかは普通に男の人の格好をしていると本人は言っていたけれど、私は一度も見た事がないので本当の所はどうなのかは解らない。
私はこほんと一つ咳払いをすると、彼をキラキラとした瞳でじっと見上げた。
「エミリー、これ絶対流行ると思うわ!だってこんなに可愛いんだもの。でもいくらで売るの?採算はとれそう?」
「あら、採算なんて難しい言葉よく知ってるわね。リーズちゃんってばこんなに小ちゃいのに本当に物知りよね」
彼は愛しそうに目を細めると、よしよしと私の頭を優しく撫でる。最初はいろいろと驚かされたけれど、こんな素性を隠したままの怪しい子供を店に住まわせてくれているのだから本当に善良な人だ。
エミリーの手はやっぱり男の人の手だから骨張っているけれど、温かくてとても優しい。いつも冷んやりとしていたあの人の手とは全然違う。
ふと頭に浮かんでしまった面影を振り払うように首を横に振ると、私はエクレールをぱくりと口に頬張る。一口噛めば中からとろりとして程よい甘さのカスタードクリームが口いっぱいに広がった。
「どう、美味しい?」
「とっても!エミリーは本当に天才だわ!これならいくらでも食べられそうよ」
「ふふっ、たくさん食べて大っきくならないとね。それにしてもリーズちゃんってば、ここにきてもう2年も経つのに少しも背が伸びてないんじゃない?今10歳くらいでしょ?成長期の筈なのに……やっぱり神官様に一度診てもらいましょうよ」
神官という言葉につい体が強張ってしまい、ハッとしたエミリーが途端に悲しそうな表情に変わる。
「ごめんなさいね……リーズちゃんは神殿から逃げてきたんだったわね。でも権威ある神殿があなたみたいな可愛い女の子を閉じ込めておくなんて……一体どこの不届きな神殿か解れば、この私が懲らしめてあげるのに!」
憤慨しながらも先程よりも優しく頭を撫でてくれる彼に良心が痛むものの、本当の事を言ってしまえば私の自由はまたしても奪われてしまうのだからぐっと堪えるしかなかった。
神殿から逃げてきたのは事実だし、そこから殆ど出してもらえなかった事も事実ではある。ただエミリーが考えている様な酷い環境ではなく、寧ろその反対ではあったのだが。
「……真綿に包まれるみたいに護られるのも、本当に息が詰まるのよね……」
「ん?何か言った?」
溜息と共に漏らした言葉は小さくてよく聞こえなかったのだろう。小首を傾げるエミリーに私はふるふると首を横に振ると、にっこりと笑みを返した。
「ううん、何でもない。それより、今日は一緒にビスキュイを作りたいわ」
「それは勿論いいわよ。また貧民街の人達に持っていくんでしょ?でもこんな事くらいしか出来ないのは歯痒いわよね……」
「うん……」
この国は信仰と慈悲の精神によって成り立っている国だ。ある程度の怪我や病気の治療も各街にある国の息がかかった神殿が無償で請け負っているし、貴族が治める他国に比べれば貧富の差はそこまでないのだが、やはり首都から遠くなるにつれて貧しい者は多いのが現実なのだ。
教皇様はたった一人しかいないし、彼がどれだけ民の安寧を願ってはいても全ての者を等しく救う事なんて出来よう筈もない。
私だって、ここに来るまで貧しい人々がどの様な暮らしをしているのか知らなかったのだから。そしてそれを知ったからには、自分の保身と引き換えにしても何もせずにいる事なんて出来なかった。
きっとそろそろ――
「リーズちゃん、生地が出来たから成形はお願いするわね」
「解ったわ、任せて!」
思考の海に沈みかけていた所で、エミリーの声に一気に現実へと引き戻される。今は目の前の事に集中しなくてはいけない。
私はぐっと袖をまくると、小麦粉と卵白、砂糖で出来た生地を細長く形作っていく。この形はスプーンを模しているといわれ、正確にはビスキュイ・ア・ラ・キュイエールというそうだ。
サクサクとした食感の甘くて美味しいお菓子で、お店ではシャルロットケーキの周囲をこのビスキュイで囲ったりしているのだが、これは配給用なのでケーキに使う物よりも砂糖を少しだけ多めにしていたりする。
そうしてビスキュイを形作りながら、私はほんの少しだけ生地に力を送り込む。食べた人達が幸せを感じるように。怪我や病が癒えるように。
黙々と作っていれば、横で見守っていたエミリーが嬉しそうに笑みを零した。
「最初の頃に比べて本当に上手くなったわねぇ。リーズちゃんが作ったお菓子は、なんだかとってもあったかい気持ちになるから不思議だわ」
「エミリーの作った物には負けるけどね」
「あら、それはそうよ。素人のあなたのよりプロの私が作った物の方が美味しいのは当然でしょ。そうでなきゃプロ失格だわ」
自信たっぷりに微笑むエミリーはそれはもう美しく、思わず見惚れてしまう程だ。エミリーの考えは本当にいつだって格好良くて、その揺るぎない自信が更に美しさを際立たせているに違いない。
「……エミリーは本当に凄いわ。私はまだまだ至らない所だらけよ」
「リーズちゃんはまだ子供なんだからいいのよ。これからいろんな事を学んで、素敵なレディになったらいいの。全てはこれからよ!」
そう言って笑顔を浮かべる彼に、私はちゃんと笑えていただろうか。
本当の事をいつか言わなければと思ってはいても、ただのリーズでいられるこの2年間は初めて知る事ばかりで、楽しくて幸せで……ずっとこうしていられたらと何度思った事だろう。
けれど、今の見た目が成長しない子供の姿で同じ場所に留まる事はそろそろ限界も近い。
それに自分で決めた事ではあるものの、私の力が込められたこの菓子を配った事で、足がついた可能性は高い。
この街の神殿だって貧民街の人々への配給は行なっているのだ。私の力に気付く程の神官がここに配属されていない事を願うしかないのだが、あの人に限って地方とはいえ力のない人を配置している事はまずないだろう。
(そもそも、2年も見つからなかった事が奇跡なのよね……あの人が私を諦める筈なんてないし、すぐに見つかるとばかり思っていたのに)
ちらりとエミリーの方を見やれば、彼は成形できたビスキュイが並んだ鉄板を焼き窯に入れているところだった。
世間知らずの私が無事に生活ができたのは、彼の存在があってこそだ。まるで本当の家族の様に優しくしてくれたのに、もうすぐお別れしなくてはいけないのかと思うとあまりに寂しい。
(でも、もう誤魔化しきれないし、これ以上エミリーに嘘をつくのはつらいわ……)
最初からずっと居られない事は解っていたし、ここが潮時なのだろう。
この配給を終えたら別の街に移ろう。この時の私は本当に愚かにもそれができると本気で思っていたのだ。
これが仮初の自由だったなんて知りもせず。
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「荷造りはこんな所かしらね……」
最初は着の身着のままだったけれど、この2年で少しだけ増えた荷物を旅行鞄へと詰め込み終えた所で、正午を知らせる神殿の鐘が響いた。
この鐘は祈りの時間を知らせるものだ。神殿から逃げてはきたものの、これがどれ程重要であるかは知っているから、この祈りだけは欠かした事は一度もない。
窓から見える神殿の方を向き、この国の全ての民への祈りを捧げる。神殿での生活は息が詰まる事が多かったけれど、この時間は嫌いではなかったから。
祈りを終えて一息ついた所で、階下から私を呼ぶエミリーの声が聞こえた。名残惜しくて旅立つのを先回しにしてきたけれど、荷造りも終えてしまったし、そろそろエミリーにも話をしなくてはいけないだろう。
「きっと物凄く心配するんだろうなぁ……」
その様子がありありと想像できて、私は少しだけ苦笑を漏らすと階下へと歩を進める。
厨房ではエミリーが笑顔で昼食のクレープを皿に移している所だった。ハムとチーズ、トマトに加えて半熟の卵が乗った出来立てのクレープの香ばしい香りが鼻腔を擽る。自然とお腹は我慢出来ないとばかりに大きな音を立ててしまった。
「あらあら、いい音ね。空腹は最高のスパイスよ」
「エミリーのクレープがとっても美味しそうなのが悪いのよ……」
くすくすと可笑しそうに笑う彼に、私は恥ずかしくて俯きながらも椅子に腰掛ける。目の前に差し出されたクレープは、やっぱり最高にいい香りだ。
半熟の卵にナイフを入れれば、とろりとした黄身が流れ出して余計に食欲が増してくるようだ。デザートに使うクレープ生地とは粉が違うらしく、もちもちとしながらも甘さはない生地との相性も最高すぎる。
「ん〜〜!美味しいっ!黄身がとろっとろなのが最高だわ!」
「そうでしょ?リーズちゃん好みの半熟具合にしたんだもの、喜んでくれて良かったわ」
向かいに座ったエミリーは私が食べるのを嬉しそうに眺めながら、自分も同じ物を口に運んでいく。どんな物を食べていても、彼の食べ方は本当に綺麗でいつも見惚れてしまう。
「……私が綺麗なのは解るけど、温かいうちに食べてちょうだい。その方が美味しいんだから」
じっと見ていた事に気付いた彼に促され、私も慌ててクレープを頬張る。卵とチーズが絡んだハムもトマトもどうしてこんなに美味しいのだろうか。
そうして口いっぱいに広がる幸せを噛み締めていた時だった。
「そういえば、リーズちゃんは聞いた?なんでもあの美貌の教皇、ランベールII世猊下がこの街に視察にいらっしゃるそうよ」
何気なく放たれたその言葉に、私はおもいっきり咽せて咳き込んでしまった。慌ててエミリーが持って来てくれた冷たい水を流し込むものの、心臓はばくばくと煩いくらいに鳴っているし、思考はもうめちゃくちゃだ。
「な、んで……いつ!?いつ来るの!?」
「噂になってたのは結構前だから、もう来られるんじゃないかしら。物凄い美形って話だけど、どんな方なのかお目にかかってみたいわよねぇ」
好奇心に満ちた表情を浮かべる彼とは裏腹に、私の顔色は恐らく真っ青になっている事だろう。
まずい、まずい、まずい……!
やっぱりあのビスキュイから足がついてしまったに違いない。あの人が私の力の残滓を見逃すなんて事は絶対にないのだから……!
一刻も早くこの街から出なくてはと、勢いよく椅子から立ち上がった所で街の広場の方から大きな歓声が聞こえてきてハッとする。どうやら一足遅かったらしい。
「あら、もしかして教皇様が来られたんじゃない?ちょっと行ってみましょうよ」
「えっ!?いや、私は……」
「噂の美貌が本当なのか、この私よりも美しいのかどうかリーズちゃんに判断してほしいわぁ。それにたまには一緒にお出掛けしたいのよ。ね、いいでしょ?」
本心では今すぐに逃げ出したかったけれど、今までお世話になったエミリーと出掛けるのはこれが最後になってしまうだろう。力を使う訳でもなし、あの大歓声ならきっと大勢の人が集まっているだろうし、フードを被って遠目に少し見るだけなら解らないかもしれない。それに、あの人は今の私の姿を知らない筈だから。
「っ……解ったわ。でも、遠くから見るだけよ。それに絶対エミリーの方が美人だわ!」
「まぁ、ありがとう。それじゃあ早速行きましょうか」
にっこりと美しく微笑む彼の手を取り外に出てみれば、周辺の家や店からも何事だろうかと人々が広場に向かっている所だった。これだけの人がいるのなら、確かに解らないかもしれない。
(そうよ、少しだけ……少しだけ見たら荷物を持って逃げたらいいんだわ。それに……)
あの人を見るのは2年ぶりだ。ほんの少しだけ、彼が元気にしているのかは気掛かりだったから。最後に見た彼の表情は、まるでこの世の終わりの様に悲痛な顔だったから。
そう自分に言い聞かせてはいたが、緊張していたのだろう。ぎゅっと手に力が入ってしまった事に気付いたエミリーが気遣わし気に私を見下ろす。
「リーズちゃん、大丈夫?思ったより人が多いから、はぐれないように気をつけましょう」
「うん……」
ぎゅっと握り返してくれる手は温かくて、やっぱり優しい人だなと改めて思う。もしあの人に見つかったとしても、彼にだけは迷惑をかけないようにしなくてはと気を引き締めた所で、人の流れがぴたりと止まった。
今の私の背では、壁の様に聳える大人達でこの先の光景は全く見えない。ぴょんぴょんと跳ねていれば見兼ねたエミリーが私を片手で抱き上げてくれた。流石に男性だけあって見た目に反して力は強い。それに抱えられて解ったけれど、普段は着痩せしているのか思った以上に筋肉質だ。
「エミリーって結構鍛えてたのね」
「そりゃあ毎日焼き窯に重たい鉄板押し込んでるんだもの。筋肉はついちゃうわよ。それよりもどう、見える?」
「うん、ありがとう」
フードは目深に被り直しつつも、見やすくなった視界には広場に集まった群衆と、いつの間に設置したのか人々から見えるように舞台が出来上がっているのが見える。そしてその舞台の上には――
「っ……!?」
あまりの事に両手でフードをがっちりと掴みながら慌てて顔を俯ける。こんなに騒がしい場所にいるというのに、自分の心臓の音がいやに大きく響いた。
一瞬、あの全てを見透かしている様なアメジストの瞳が私を捉えた様に見えたのだ。
私と彼の距離はあまりに遠い。この距離で私を目視できる筈もないと頭では解っていても、心は乱れて平静ではいられない。
(落ち着いて……大丈夫、大丈夫……私だって気付く筈もないわ……)
何度も深呼吸を繰り返し、恐る恐る顔をあげれば、彼はもうこちらを見てはおらず、その人並み外れた美しい横顔が目に入るばかりだ。
新雪の様に美しいさらさらとして長い白銀の髪も、彫刻の様に整った顔立ちも記憶の中にある姿と変わりなく、見た目だけは本当に美しいのは間違いない。エミリーが天に輝く太陽の様な美しさだとすれば、彼は宵闇を照らす月の様な美しさなのだろう。
(相変わらず顔だけはいいし、あの微笑みも胡散臭いけれど、ちょっと痩せたみたいね……でも、私がいなくても元気にやってるみたいで安心したわ)
ふーっと一つ大きく息を吐き出すと、先程よりも心は落ち着いてきたようだ。自分でも気付いていなかったけれど、少しだけ、ほんの少しだけ彼の事は気掛かりだったらしい。
「こんなに距離があっても、やっぱり美しいわねぇ……悔しいけど、噂通りの美形だわ」
「そうね。でもエミリーだってあの人とは全然違う美人なんだから比べる必要なんてないわよ。エミリーはエミリーだけの美しさがあるわ」
「本当にリーズちゃんは嬉しい事言ってくれるわぁ。やっぱり私あなたの事――」
嬉しそうに笑う彼の声をかき消す様に、拡声魔法を使用しているのか、舞台上にいる男性の声が広場に響き渡った。
「皆の者、静粛に。この度、我がエマーブルの街に恐れ多くも教皇ランベールII世猊下をお迎えする事となった。猊下が視察された目的は……我が街に、猊下の伴侶となられる聖女様がおられるからである!」
ざわりとした騒めきが人々に広がる中、私はやっぱりかという確信と共に、なんだか物凄く頭が痛くなってきた。この流れは本当にまずい。
「へぇぇ……聖女様なんてそんな御大層な御方がこの街にいたのねぇ」
「そ、そう、ね……」
暑くもないのにだらだらと汗が噴き出してくるのだけれど、エミリーの視線は舞台に注がれていてどうやら私の様子には気がついていないようだ。
本当に今すぐ逃げ出したいけれど、エミリーは私が見えやすい様にがっちりと掴んで持ち上げたままだから抜け出す事も叶わない。どうかこのまま見つからずに済む事をただただ祈る中、教皇様の後ろに控えていた高位神官が前に進み出る。彼が両手で持っている箱を恭しく開けると、中には予想通りあのビスキュイがまるで国宝であるかの様に納められていた。
「この大変貴重なビスキュイは、この街の貧民街の者達へと配られていた物です。これには彼等の安寧を願う聖女様の尊い御心が込められており、まさにこの世の至宝と言えるでしょう!」
傍目にはただの美味しそうなビスキュイにしか見えないそれを、うっとりとした表情で掲げる高位神官の図というのはあまりにもシュールだ。後ろで椅子に腰掛けている教皇様も、何故か満足そうに頷いているのだから本当に始末に負えない。
どうしてあの人達はいつもいつも恥ずかしげもなく、大袈裟に振る舞うのだろうかと、私の方が恥ずかしくて消え入りたい気持ちになってしまうのだ。私がいくら嫌だと言っても一向に改めないのだから、逆に嫌がらせなのではないだろうか。
羞恥で顔が赤くなるものの、少しだけ冷静になった所でハッとする。貧民街に配られたビスキュイだなんて、十中八九私が作ったものに間違いはなく、エミリーには私が聖女である事がバレてしまっただろう。こんな形で正体を明かすつもりなんてなかったというのに、エミリーの反応が怖くて彼の方を見られない。
「え、エミリー……あのね……」
「聖騎士エミリアン!これまでご苦労だった。私の伴侶となる聖女様を速やかに壇上へお連れしてくれ」
壇上から響く教皇様の言葉に、私は頭を殴られた様な衝撃を受ける。そんなまさか、聞き間違いだと思いたいのに、私を抱える腕にぐっと力が込められた事からも聞き間違いではない事を物語っていた。
「う、そでしょ……エミリー……いえ、エミリアン。あなた、聖騎士だったの?最初から私が聖女だって知っていたって事!?ねぇ……!?」
抜け出そうともがいても、彼の腕はびくともしない。それどころか俯いた彼の表情は見えず、さっきから返答も全くない。
「この2年間、全部嘘だったって事……!?私に親切にしてくれたのも、聖女だからだったの!?全部、命令だったの!?ねぇ、答えてよ……!」
ぽろぽろと涙が溢れ、自分でも止められない。
行くあてもなかった私を助けてくれて、美味しいお菓子を食べさせてくれて、いつだって親身に話を聞いて温かい手で撫でてくれた。楽しくて幸せだったあの全てが偽りの自由だったなんて信じたくなかった。
何よりも優しい人だと信じていた彼が、教皇様に忠誠を誓った聖騎士だった事が酷い裏切りの様に思えたのだ。信じた私が愚かだっただけで、彼はただ命令を遂行したにすぎず、この行き場のない思いも全て八つ当たりだと解っているのに。
私がいくら彼を叩いた所で、小さな今の姿では彼を傷付ける事なんて出来もしない。だというのに漸く顔を上げた彼の表情は、私よりも余程傷付いたような顔をしていた。
一瞬怯んだ私の耳元に、彼がそっと口を寄せる。
「……ごめん、リーズちゃん。後で気が済むまで幾らでも俺を殴っていいから、今は何も言わずに俺を信じて」
いつもとは違う口調や低い声に戸惑うものの、私の頬に触れる彼の手はやっぱり温かくて優しい。こくんと小さく頷けば、彼は私を片手でぎゅっと抱えたまま人混みをものともせずにあっという間に舞台手前まで駆けると、そのまま壇上へと飛び上がる。鍛えているとは思ったけれど、流石聖騎士だけあってとんでもない身体能力だ。
彼は壇上にそっと私を下ろすと、そのまま少しだけ後ろに控え、教皇様に向かって軽く頭を下げる。聖女とされる私が幼い少女の姿だからなのか、はたまたエミリアンの美しい容姿からなのか人々の騒めきは広がるばかりだ。
こんな大勢の人の前に立つ事も初めてだし、エミリアンの真意もよく解らずに思考はもうぐちゃぐちゃで息苦しい。人々の視線を避けようとフードの端をぎゅっと握りしめるのだが、その手は音もなく近付いてきた教皇様の手に捉われてしまった。
「っ……!」
「落ち着いて、エリザベト」
私にだけ聞こえる様に潜められた声は、私を落ち着かせるかのようにゆっくりと紡がれる。
「驚かせてしまって悪かったね。最後には君が望む通りになるから。もう少しだけ私に付き合ってくれ」
どことなく沈んだ声音に聞こえてハッと顔をあげるものの、彼の表情は笑顔の仮面に覆われていて心情が全く読めない。私が口を開く前に、彼の手が押さえていた私のフードを取り払ってしまった。
隠していた髪がふわりと広がるのと比例するように、人々の騒めきが大きくなる。
「綺麗……夜に星が輝いているみたい……」
誰かの漏らした感嘆の声は、私の珍しい髪色からだろう。ミッドナイトブルーの深い青はグラデーションが掛けられたように毛先にいくにつれて、銀糸と金糸を混ぜた様な明るい色に変わっているのだ。
「今更説明するまでもなく、この類稀な美しい髪を見れば皆一目瞭然だろう。彼女こそ教皇の唯一の伴侶となる今代の聖女、エリザベトである」
治癒や結界といった護りに特化した神聖力を持つ女性の中でも、一際強い力を持つ『聖女』と呼ばれるべき者は、親の髪色に関係なく必ずこの色を持って生まれてくるのだという。
それはこの国では広く知られた話であり、代々の聖女は必ず教皇の伴侶として迎えられてきた。それというのも強い神聖力を引き継いでいる教皇の血筋と聖女は、運命の様に互いに惹き合いお互いの力を高め合える存在なのだという。
(そう、私も神殿でそう聞いて育てられた。でも私は――)
人々に語りかける教皇様をちらりと見上げる。確かに彼は見た目はこの上なく美しいし、私に接する時も私を尊重し、いつだって笑顔で丁寧に接してくれていた。
ただ、その笑顔は仮面の様に感じられて、どうしても心を開く事が出来なかったのだ。
嫌われてはいないし、好いてくれてはいるのだろうとは思っている。けれどどれだけ大切に護られていても、私は彼のいる大神殿ではどこか心が安まらなかった。
必ず惹かれ合うという話だったのに、そう感じられないのは、私が本当は聖女ではないのではないか。そういった考えがいつだって頭を掠め、私を敬い慕ってくれる神官達の気持ちが重荷に変わっていったのだ。
「彼女の見た目が幼い事を気にする者も多いだろう。だが、彼女は本当は18歳なのだ。こうなってしまったのも2年前、私の身代わりに呪いを受けたからに他ならない。一時は生死の境を彷徨う程の強力な呪いは、未だ彼女を苦しめ、この様な姿に留めてしまっているのだ」
痛ましげに顔を歪める彼に、2年前に見た彼の表情が重なる。私が望んでした事なのだから、彼が気に病む必要なんて何もないというのに。
呪いを受けた直後は確かに苦しかったが、気を失っている間に体は子供の頃に戻っていたし、そのお陰で誰にも見つからずに大神殿を抜け出せた事は良かったとさえ思っていたのだから。
ただ、体の成長が止まってしまった事だけは誤算だったけれど。
「呪いを受け、療養していた彼女を密かに護っていたのがここにいる聖騎士エミリアンという訳だ。その間に私は彼女の呪いを解く方法を必死に探していたのだが――」
彼の視線はそのまま、エミリアンへと注がれる。
「私は様々な文献や大神殿に伝わる過去の記録を読み漁った。そうして辿り着いた事は、真の絆で結ばれた教皇と聖女ならば呪いは自ずと解けるという事だったのだ」
「それは……私と教皇様が真に結ばれていないから、呪いは解けないという事でしょうか」
そう問いかければ、彼は一瞬悲しげに眉を下げた後、少しだけ微笑みを浮かべた。
「私と君が結ばれれば解けるというのなら、私は喜んでそうしただろう。だが……最初から間違っていたのではないかという事に気付いたのだ。本来、私は教皇となる筈ではなかったのだから」
「えっ!?」
驚いて目を見開く私と同じ様に、人々にも困惑する声が広がっていく。聖女とは違い、教皇は血統が重んじられる。確かに彼は先代教皇の息子である事は明らかなのに。
そんな私の考えを読んだかの様に、彼は可笑しそうに笑みを漏らす。
「あぁ、私が父上の実の子でないとかそういう事ではないよ。ねぇ、兄上?」
その視線の先に居たのは、難しい顔をしているエミリアンだった。信じられない思いで、私は2人を交互に見やる。
「一体どういう事なの!?エミリアンは前教皇様の息子だったの……?」
「教皇になるまでは人々の前に出ないから、この事は一部の者しか知らぬ事だ。兄上は見ての通り我が強くて父上に反発してね。聖騎士にはなったものの、そのまま大神殿を出奔してしまったのだ」
「……昔の話だ」
渋々といった様子で答えたエミリアンの態度に目を丸くするものの、その様子からも事実だという事は伝わってきた。
「神聖力だって私よりも強かったというのに、兄上が出奔したせいで残された私が教皇にならざるをえなくなってしまったという訳だ。そうして私はエリザベト、君と出会った訳だが……」
彼は眩しそうに目を細め、私とエミリアンを見やると、どこか力が抜けたような優しい笑みを浮かべた。それはいつもの仮面の様な笑顔ではなくて、心からの笑みの様に見えた。
「エリザベト、君がこの街に来たのは偶然ではないだろう。ここに兄上がいたからこそ、呪いで弱っていた君は本能的に安心できる場所を求めていたのだ。本来の教皇である兄上の傍を」
「それなら私に掛けられた呪いは――」
「兄上、覚悟は決められたのでしょう?だからこそ私をここに呼ばれたのですよね?」
「あぁ、勿論だ」
いつもの優しいエミリアンの表情とは違う真剣な表情に、心臓が一つ音を立てる。こんな時でも彼は眩しいくらいに美しかった。
彼は私の前まで歩を進めると、迷う事なく跪く。いつも見上げていた彼の視線が、同じ位の高さで重なり合う。
「リーズちゃん、俺は本当は君が思っているような格好良い男じゃないんだ。自分が負うべき責任から逃げ出して、弟を犠牲にして、自分だけ好きな事をしているようなどうしようもない奴なんだよ」
「そうね、それはちょっと格好悪かったと思うわ。でも私だって神殿を逃げ出してきたんだもの。私はあなたを責められないわよ」
くすりと悪戯っぽく微笑めば、彼はくしゃりと子供みたいな笑みを浮かべる。いつもの自信たっぷりな姿は格好良いけれど、こういう姿も案外悪くないなと思えて自分でも驚く。ちょっとだけ可愛いなとも思ってしまったのだ。
「君は聖女だから、弟の伴侶になるのなら俺には義妹になる。だから最初は可愛い妹が出来たみたいで嬉しかったんだよ。子供の姿の君は本当に可愛かったしね。でも君と過ごす日々は楽しくて、愛おしくて……俺は君を伴侶にできる弟に嫉妬したんだ。その立場を自分から放棄した癖にね」
彼はまるで繊細な菓子を作る時の様に、私の手を恐る恐る手に取る。その手はやっぱり誰よりも温かくて優しかった。
「リーズちゃん、いや聖女エリザベト。聖女と結ばれるのが教皇だけだというなら、俺は今の全てを捨てても教皇になりたい。君と一緒に、この国の全ての民の安寧の為に力を尽くす事を許してくれるだろうか?」
人々が固唾を飲んで見守る中、彼の懇願する様な瞳が私を捉える。こんなに美しいアクアマリンの瞳が私だけを見ている。それだけでこんなにも胸が高鳴るのだから、もうこの想いは間違えようもない。
「許すに決まっているでしょう!私はエミリアン、あなたとずっと一緒にいたいわ!」
私が精一杯の笑顔でそう答えるのと、彼が私の手首に口付けを落とすのはどちらが先だっただろう。
彼が触れた手首から温かい光が溢れて、辺りを覆い尽くす。その眩しさに目を閉じている間に、誰かが私の体に勢いよく何かを巻き付けているのを感じて目を開ければ、目の前に飛び込んできたのはとびきり綺麗なエミリアンの笑顔だった。
「子供の姿は可愛かったけど、その姿はとても綺麗だね。でもこの状態の君をここに晒すのは俺には耐え難いから、少しだけ走るよ」
「えっ!?えぇっ……!?」
訳が解らないうちに体は彼に横抱きにされているのだが、その時になって漸く私は自分が元の18歳の姿に戻っている事に気付く。巻き付けられていたのは彼の羽織っていた外套だったのだ。急に子供から大人になった訳だから、着ていた服は――
「いやぁぁぁぁ!!嘘でしょ!?」
「ちょっ!?だから暴れたら見えちゃうって!ジャン、後は任せた!」
「今までの事も含めて、これは大きな貸しですからね、兄上!」
壇上に上がった時の様に、エミリアンは私を横抱きにしたまま物凄い速さで駆け出してゆく。人々の大きな歓声と教皇様――いや、元教皇様のジャンの声がどんどん遠ざかる中、私は羞恥で赤くなった顔を必死に覆う位しか出来なかった。
こうしてこの日の出来事は、後世にまで教皇と聖女の世紀の公開告白として語り継がれる訳になるのだが、この話をする時の人々は誰しもが幸せそうな笑顔を浮かべていたという。
読んでくださってありがとうございます!
作者のやる気に繋がりますので、面白かったと思って頂けたら下にある☆を押して評価やブクマを宜しくお願いします!