約束のキス
『Fの足りない遁走曲』シリーズ その1となります。
『キス、接吻、Kiss』という作品にかつて掲載したものを改編してシリーズ構成します。
空なんていう名前は、昔から変で嫌いだったが、僕は生まれて初めて得をした。
今、図書館の裏庭の木陰のベンチで、とてもきれいなお姉さんが僕にキスをしてくれたんだ。
最初は普通に薔薇の苗の話になり、僕の母のために、うちにない株を分けてあげるって話になっていたというのに。
「へえぇ、君はそら君っていうの?いい名前ね」
いきなりのキスは、仄かにワイン?の味がした。未成年(高校生)のくせにワインを飲んだことがあるのか?とお考えのそこのあなた、ワインを飲む習慣のある国ではノンアルコールの子供用のワインもあるんで安心してください。
と、とにかく。ただいまお姉さんは、僕の唇をついばむようにキスをしていたかと思うと首に抱きついてきた。そして、耳元で
「たす、けて…ぼく…は…」
とそう言ったまま、僕の腕の中に崩れ落ちていく。
お姉さんの身体の重み、も厄介だが、両腕が力を失ってそのまま弧を描いて垂れ下がる様がまるで天使の翼が折れていくように見えて、僕はドキッとする。
折れたんじゃないな、折り畳まれただけだって思い直した。
安心したかのように、すーっと眠り始めたお姉さんを見て。
なんか普通に大丈夫そうだ、ただ酔っているだけで。
昼間からワインを飲んで酔っ払った、普通のお姉さんなんだよね。
まぁ、いきなり僕の本質のどこか良いところを誰かが見つけてくれて愛おしんでくれる人が現れてくれる日なんて永遠に来ないような気がしていたけど。春からは受験生の一人っていうデータにカウントされるだけの、ちょっと珍しい名前のガキってだけ。
平日の図書館なんてあまり人もいなくて。ましてや、裏庭なんてほとんど誰も来ない。裏庭を作る時に最初に張った芝生なんて剥げてしまい、あまり手入れの行き届いていない裏庭には、勝手にはえた苔やマーガレット、そしてクローバーがあちこちで勢力を広げている。植物なんて静かで平和みたいに思われているかもしれないけど、意外とえげつない弱肉強食のところもあるんだ。
ううん、と言う小さな声に僕は驚く。
お姉さんが起きないんで、仕方ないから僕は今、英単語の本の暗記に励んでいたのに。
あ、この人寒くないかな?今になって気がつく。薄手のシルクブラウスにカーディガンを羽織っただけなのだ。
そのシルクの薄い、ほとんど白に近いグリーンの色に僕は、反応してしまったんだ。
「『碧光』という薔薇の花の色に似てますね」
ってつい。
そう、先日僕の犬がダメにした、薔薇の花の品種だ。母は、とても悲しんだ。
『弱っていたから、少し短めにして生き返ってくれるのを楽しみにしていたのに』
のぶお(犬)は、雑草はむしらないくせに、母と僕が頑張って植えた苗と球根は、やっつけるのをミッションと思っているらしい。チューリップとクロッカスは、今年はうちでは咲かない。
『結構、時間がかかっちまいましたがね、坊ちゃん。
俺は、全部掘り当てましたぜ。良かったら、また難問を頼んますわ』
と得意げに咥えて見せにくる奴と僕たちは暮らしていて…。
あ、それはともかく、僕のひざ掛けをずらして、お姉さんをくるんであげた。
さっき、このお姉さんは、その『碧光』なら知っている。自分のところの株を分けてあげようかって、言ってくれたんだ。
のぶおも野良犬だったけど、このお姉さんも野生か野良だったら家に連れて帰りたいくらい。だめだよね。お姉さんの身なりを見ても安そうには見えないし、家に温室があるみたいに言ってたから。細く長い指に少しクラシカルに黒ずんだ銀の指輪を嵌めていた。
「何をしているんだ、君は」
威厳のありそうな声でおっさんを想像して振り返ると、きちんとしたスーツ姿のおじさん、もといお兄さんが立っていた。
スーツも、あくせく働くサラリーマンって感じではなくて、銀座の英國屋さんで誂えて普通に着慣れてますっぽい三つ揃い。とりあえず、田舎の図書館に、平日の昼間に出現するなんて、レアキャラ過ぎる。まぁ、ヤ◯ザさんではなさそうだ。かと言って、図書館にお勤めの人でもなさそうだ。
僕は、とりあえず素直に答える。
「あの、このお姉さんは、今眠いのか急に倒れたので、ひざ掛けをかけてあげて僕は英単語の勉強をしているところです」
お姉さんが腕の中にいる理由は、それだ。
僕は何もしていないし、勝手に取ろうとしないでよ。このお姉さんは、先に僕が見つけたんだぞ!
「お姉さん、…ねぇ…」
紳士は、そう、たぶんこの人は身なり的には紳士なんだと思う。慇懃無礼って感じの人だが、ちょっと困った顔をして、お姉さんを見下ろしたのだ。
それしか思いつかない。だけど、どこかで紳士、だけじゃない気がした。なんだろう?
「申し訳ない、君には迷惑をかけてしまって」
と、紳士は僕に頭を下げて謝った。
お姉さんが目を覚ました。ふわっといきなりだった。
そして、僕のひざ掛けをまとったまま、紳士に飛びついた。
お姉さんを抱きとめた時、紳士の指にも、同じような指輪が見えた。お揃いの指輪、だ。
「シド、ああ、シド、ごめん…僕、どうかしてた…あ、」
紳士の困った顔を見て、慌てて僕を振り返った。
「ごめん、そら君。…あ、これ、ありがとう」
僕にひざ掛けをきちんと畳んで返してくれた。
「あ、いえ」
僕は、そのきれいなお姉さんを見過ぎないように、うつむき加減でもそもそ答えた。僕と異世界の、全く縁の無さそうな2人は、そのまま僕の前から姿を消した。
それだけだと思った。
自分も、そろそろ家に帰ろうと思ってベンチから立ち上がって荷物をまとめていると、ひざ掛けの間から、小さなカードが滑って落ちた。
ん。…名刺…?英語で書かれている。
あー、日本語で話していたけど、瞳の色が少し日本人と違うような気がしたもんな。お姉さん、ハーフの人なのか。
なんで名刺を…?
ああ、そうか、薔薇の苗を僕にくれようと思って…?
酔っ払いなのに律儀なお姉さんだな、ちょっとチッパイ気味だけど。
僕、今日からチッパイ派になろう!
『Remiel』…レミエル?
れみさんって言うのかな?
仲良くなったら、そう呼んでくださいとか言われたりして。
あはは。
あの、紳士の旦那さんに怒られてしまうか。でも、お互いに持っていない薔薇の苗とか交換したり、もしかしたらうちの母とも仲良くなれたりして。
って脳天気に歩き出し、自転車に乗り、思い出した。
「助けて、僕…」と僕に呼びかけてきた、れみさん。シドさんと呼んだ旦那さんに抱きついていたけど、夫婦げんかをしてたのかな…?
そうだ、あのシドと呼ばれた人、紳士というより、なんかサディスティックな感じだったのだ。
その夜、僕は夢の中でうなされた。
ひどい夢だった。
その温室の壁には、鎖が横に渡してある。薔薇を数本、束にして吊り下げる用の鎖なのだ。だが、真ん中には、れみさんが括られている。
ドライフラワーになりかけている、死にかけたようで死んでいない花として選ばれた物の隣で。
両手首に手錠を嵌められて、そのまま身動きの出来ないように、頭より高い位置の、その壁の鎖に吊るされるように立たされているのだ。足はガクガクしかけているが、その括られ方では、腰を下ろすことも出来やしない。
鞭で打たれでもしたのか、シルクのブラウスは、ズタボロになり、肩甲骨周りに、羽のちぎれた後の付け根のようなものが見え、ああ、なんか天使みたいな人だと思ったけど、やはりなーと、夢の中で僕は変な感心をした。
れみさんは、呻きながら何か言っていた。
シドさんだ。やはり、そばにはシドさんがいる。
シドさんがれみさんに近づく。
れみさんの唇は、「助けて」と紡いだのだろうか?
夢の中ではわからない。
シドさんが、れみさんを抱きしめる。れみさんは逃げているようではない。愛してるんだ。
もし、両腕が自由ならば、あの、昼間に見た時みたいに抱きつくのではないかと思ったほどに。
身長はシドさんの方が高いから、一生懸命に首を伸ばして唇をシドさんの顎付近まで近づけて、れみさんはキスをねだっているようだ。
キス。シドさんのキス。それは、支配者からのキスだ。
シドさんが唇を離すと、れみさんは少し甘えたように身悶えをする。が、シドさんの唇がれみさんの首筋を滑り始めると、そのまま大人しく腕の中に抱かれた。
ん?…夢の中なのに、いきなりシドさんが振り返って僕の方を見ている…?
れみさんもだ。
逃げなくては…僕はこの夢から逃げなくては!
朝、僕はシーツと寝間着を洗濯した。汗とかでぐちゃぐちゃになったからだ。朝ご飯もそこそこに自転車で出かけた。
名刺には、電話番号が書かれておらず、住所だけだったけど、すぐにわかった。
家の外観に見覚えがある。
表札は、獅堂と書かれた古い木の札だった。チャイムを鳴らしたが、誰も出てこない。大きな家のどこかで微かに鳴っているのに。
一瞬ためらったが、門を押すと開いたので、玄関まで進み、またチャイムを鳴らした。やはり、れみさんも獅堂さん?シドさんもいない。
脇の小道を進むと、温室に出られるのだろう、何故かそれもすぐにわかった。
温室もすぐに見つけた。小さな竹林に阻まれたような、奥まった位置にあるのに。
夢の中のように僕はさくさく進む。それが間違いだったことには、その時は気がつかないもんなのだと思う。
温室のドアも、音もなく開いた。
念のため、開けたままにして僕は進んだ。
正面の壁は、まさに昨夜、夢で見た通りだった。ドライフラワーが数束括られて吊り下げられていて、中央には…何も吊り下げられていない。
奥から声がする。
「いらっしゃい。…意外と早かったな」
シドさんの落ち着いた機嫌の良さそうな声だ。れみさんが帰ってきたと勘違いしてる…?違う、今『いらっしゃい』と言っていた…。
「こんにちは。待っていたお客様じゃなくてすみません、勝手に…」
僕はそのまま奥に進む。
紅茶の香り。温室の奥にサンルームのようにスペースを作ってあったんだ。ここも何故か見覚えがある。
シドさんがにっこりと笑う。葉陰を抜けてくる光の中で見るこの人の笑顔は、まさに紳士的だ。
「ああ。大しておもてなしも出来ないが、せっかくだから、まずはお茶を」
「あ、ありがとうございます。…すみません、薔薇の苗をくださるという約束だったので、押しかけてしまって…」
「なるほど、レミエルのヤツめ、…さすがだな」
「?…」
「私は元々は日本人でね、先祖は奈良の方の出身だが、色々あったらしく、イギリスに渡っていったんだ。あちらには良い薔薇があるからだと思うのだが。それで私は、イギリスの血も少し混ざっているんだよ」
シドさんが今、つまみ上げた美しいガラス瓶の中の紅いエキス…僕は、これを知っている。
「あ、そうなんですか。確か、僕の父方の方も、もとは奈良の近くだったと思います。ナントカ山の近くだったかな…そう聞いてます」
シドさんが紅茶の中に、紅玉色のエキスを一滴、大事そうに落とす。紅茶と相まって芳しい香りが立ち上る。
無言で「どうだい、君も?」という風に笑顔で勧めてくれたので、僕はそのまま自分の紅茶に入れてもらう。
「うむ…確かにな、本当に良く…耐えて日本に残ってくれたと思っている」
「?…これは、本当に良い香りですね」
僕は、紅茶を一口飲んだ。
背中がぞくっとする。…毒…?、違う、これは…。
父たちは大切にしていたが、たぶん飲んではいなかったにちがいない。…これは。
一度飲んだらやめられないもの…身体の中の古い血が呼び覚まされる…。
僕は、震え始める…。
喉が乾く…。飲みたい、もう一口。もっと…。欲しい、けど…。
僕は、紅茶のカップに手を伸ばそうとする自分の腕を抑えるのに必死になる。
シドさんが、優しく促す。
「もう一口、お飲み」
「はい…いえ…」
「まぁ、…無理はしないことだ。レミエルっていうのは天使の名前でもあるんだが、君はそういうことに詳しいかい?」
「あ、いえ、全然。…すみません」
「ああ、いいんだよ。今度、レミに聞くといいよ。きっと面白い話が聞ける。苛烈な強い天使でね、『破壊の天使』と呼ばれたり、『神の慈悲』と呼ばれたり、一説によると、天使と堕天使の二重スパイみたいなんだよ」
「は、…はい」
僕は、何も出来ずに相づちをうつ。
シドさんが気持ち良さそうに、そしてまるで僕に愛情を感じ始めているかのように目を細めて僕を眺めている。
僕はシドさんの方を見ないようにして、うつむいた。失礼だけど別のことを考えてみよう。
そうだ、あのイギリスの子供向けの話の教訓、『DRINK ME』を飲んだらハプニングが起きてしまうのだ。…僕は馬鹿だった。仕組まれていたんだ。
「ソラっていうのは、良い名前だね」
シドさんは、また自分のカップにエキスを一滴、垂らした。その微かな香りが僕を刺激する。それを見ながら、彼は微笑んでいる。僕はもう…立てないかもしれない。
そこへ、れみさんが戻ってきた。
「ただいま、ごめん、そら君、シド。僕は遅かった、のかな?」
「いや、レミ、ちょうど良いタイミングかもしれない。なかなか、この子は見所があるよ。こんなに濃い血脈を持っているのに…痩せ我慢しているんだ」
「え?…本当だ」
れみさん、いや、レミエルか、彼までが僕を見てふふふと笑った。
「ソラ…、飲みなよ。苦しいだろう?もう、君は覚醒し始めているから、そこで痩せ我慢しても、もう遅いよ?ねえ、僕にも飲ませてよ…?」
「お行儀の悪いヤツだな、熱いお湯でちゃんと自分のを入れなさい」
「早く楽にしてあげないと…ソラはまだお子様だから、紅茶は甘い方がいいかもしれないね。僕の蜜で良ければ?」
レミエルは、僕のそばに座り、僕のカップの中をかき混ぜる。
「ね、君がソラで、僕がレミで、シドのしもべ。なかなか面白いでしょう?」
シドさんが笑った。
「一音、足りないな、残念」
ああ、そうか。つい僕も…考える。
「ファ、でしょう?
いいんだ、ファは、《Far Away》だよ、ふふ、遠過ぎて届かないものは、たくさんあるんだからね」
彼は紅茶を口に含むと、昨日のように僕にキスをした。口移しの紅茶を僕はゴクリと飲んだ。我慢はできなかった。
だめだ…。やはり、もうだめだ、昨日の、最初のキスの時からそれは罠だったんだ…。
僕は、僕の身体は化け物になる…。そして、誰に支配されるべきなのか、身体の奥でちゃんとわかっているんだ。僕は、支配者に信頼された配下の末裔。僕は、喚ばれたんだ。
レミエルがにこりと笑ってシドを振り返る。
「良かった、ね、僕は本当に見つけたでしょう?…大和の地できちんと純血な種族が生き残っていると思っていたから」
「お手柄だよ」
シドさんが、レミエルにキスをする。僕は、またふるふると身体が震えるのを感じる。もう、我慢が出来ない。全身が脈を打っているみたいに。
「おいで」
支配者は、僕を手招きする。
僕はシドに縋る。僕の震える唇は、たぶん願いを口にしたのだろう。
シドの唇が僕の首筋に押しつけられて、彼は味わいながら、僕の血を吸う。
「さすがに濃いな。日本に戻って来て良かったよ」
満足そうにシドが呟く。…良かった。喜んでくださって…。
シドが僕に口づける。僕は甘えてそれに応える。
約束された、悪魔のキスに…。