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見えた世界は、思った以上に残酷だった。
どこまでも続いていきそうな水平線。視認できるドームのような天井。もちろん天井はないが、そう見えるのだ。例えるのならプラネタリウムのような。
「琴音が見たら真っ先に死んじまいそうだな」
「昨日までの私だったら、地上に戻ってこの光景を歌にするかもしれない」
真理亜の声ですら、どこまでも響いていきそうだった。ここにいるのは祥と真理亜の二人だけだというのに、二人だけだと感じさせないこの雰囲気。初めて触れたような気がしない。
「これって」
真理亜が呟く。しゃがんだ指の先に見えたのは、赤のオーパーツだった。
「まるで小説のまんまだね」
「ああ。ここで赤のオーパーツから解放され、二人は再会したんだ」
ほとりから水面を覗く。まったく歪みのない水面に映っていたのは、蒼く光る真理亜と祥の姿だった。
「鏡なんてなきゃいいのにね」
「どうして?」
「鏡がなかったら、もっといろんな人と関わったり、近づけた気がする」
「そしたら、水も無くさなきゃ駄目だね。人類最古の鏡は水鏡だし」
もはや、道のU字溝に流れているような水面とは違った。ここにあるのは、そんな水鏡なんかじゃない。この湖全体が、巨大な丸い水鏡のように思えた。波が一切立たない水面。それはもう鏡の表面と同じように思えた。
「テレビに出るようになってからさ、よくわかりもしない同級生から電話とか来るのよ。ふと街中でビルのガラスに反射した自分を見たときに、昔とそれほど変わってないのになって思った。鏡がなかったらさ、自分の顔なんて見れないんだからそんなこと思ったりしないでしょ? 私って両親いなかったからさ、尚更、恋愛とかわからないんだろうし。でもさ、祥君は違うよ? なんか落ち着くっていうか、祥君見てると自分を見てるみたいで」
「俺が鏡みたいってこと?」
「そう。私の鏡は、祥君だった」
「じゃあ俺が居なかったら、真理亜はもっといろんな人と親しくなれてたかな」
「違うよ」
水面の真理亜は、祥の方を向いた。祥はゆっくりと首を逸らして真理亜の方を向いた。
「祥君しか見られなかったからだよ」
真理亜はそっと祥の肩にもたれかかった。目を瞑ったままもたれかかる姿を、水面でも肩の感触でも確認する。
「結城はさ、こうやって、俺と真理亜みたいにちゃんと幸せになって死んでいったのかな」
「結城君とのこと、思い出したんじゃないの? 前日に何か話したって」
「うん。でも、結城にとって何が幸せだったかは聴けなかったから、あいつにしかわかんないじゃん。それに」
真理亜はまだ目を閉じたままだった。
「俺、未だに不安なんだよ。確かに結城とのことは思い出したし、両親のことも思い出したけど、これから死んでいく人のことを覚えてられるかって保証はない訳じゃん? ちょっと不安になるんだ」
「大丈夫だよ。もし私が死んだとしてもさ、祥君は私のこと覚えててくれるよ。絶対」
「本当かね」
「うん。嘘つかないって決めたし。それに、だってここでまた会えたんだもの」
その表情に嘘はなさそうだった。まったくをもって根拠がないのだが。
「真理亜はさ、今死んでもいいの? なりたかったシンガーソングライターになって、テレビに出るようにもなって、今が絶頂だっていうのに仕事までやめてさ。本当にそれでよかったの?」
「死ぬことだって一つの道じゃない」
水面に映った真理亜の顔は、とても澄んでいた。
瞬間、祥はウっと痛みを感じる。何かを噛み締められた気がした。でもすぐに思い至る。これは、これはそんなに痛いことではない。痛みを感じるようなことではない。噛まれたというよりは、鋭く尖った刃で、抱きしめてくれたような抱擁。
いつからか体のどこかに住み着いていた寄生虫。普通に暮らしていく分には害はない。だから、本人もその害に気がつけないのだ。当然だ。それを害として認識していないのだから。
死ぬことすらも許容した。許容できるような思想になった。だからだ。だから生き辛くなったのだ。別に死ぬことは悪いことではない。死が不正解だなんて誰も決められない。死ぬことだって一つの成長だ。それを本気で望むのであれば、それ以前の過程に物言いしたところで本人の意志は固く、変わることはない。
だったら自分も、今ここで死んだとしても不正解ではないのではないか。そう思うことで、自分の決断力にいちゃもんをつけて昇華を繰り返した。決めたことを最後まで続けようとしなくなった。不安が積もった。難題を押し付けられると、キツネは葡萄を枝につるしたまま逃げていった。見えないところで蝕む寄生虫。痛みを感じない。これほど怖いものがあろうか。
これは絶望だろうか。いや、絶望とは、甘えだったり悩みだったり、そのすべてのあやふやな感情が無くなった状態。琴音が言った通り、やっぱり絶望とは、もっと好印象な言葉なはずだ。だって悩みがないんだから。考える必要もないんだから。テレビから流れてくる痛ましい報道に頭を悩ませる必要もないくらい、胸を張って、「あなたはその道を行ったんだね」って揺るぎ無い境地に立つことなんだ。
俺はずっと、絶望することを望んでいたんだ。
「シアワセなんて人の感じ方次第よ」
真理亜はきっと、絶望したのだ。やりたいことをやり遂げて、満足して、絶望しきったのだ。
真理亜は、何を叶えたのだろう。音楽が好きだった。音楽で何かを伝えたかったのかもしれない。俺自身も音楽が好きなのは変わりないが、抑圧とか、自分らしくとか、そんなこと言われても現実を変えられる勇気は、もらえた気がしない。やっぱりその程度かって。でもそれは自分の捉え方次第で。
俺は絶望できなかったんだ。
「泳いじゃえ!」
真理亜が祥の手を引っ張った。ぐんっと重心が倒れる。
水に足が触れた。
冷たくなかった。
脚に何かが当たっている。皮膚が感じている。これはあれだ。炭酸が口の中で弾けているときのような。いや違う。その程度ではない。食パンに七味唐辛子を乗せるとか炭酸を一気飲みするとか、そんな簡易的で人為的なものではない。
足元には、あの小説で出てくる星の欠片がいくつも零れ、これでもかというくらい光っていた。まるで無数のキラキラと眩く星の欠片が泳いでいるようにすら見える。本当だったのだ。本当にあったのだ、輪廻魚という湖は。そんなことは、ここにたどり着くまでの洞窟内ですでに分かっていたことだ。この先にあるだろう湖。なんとなく、なんとなくそんな気がしただけなのだが、根拠のないその言葉を信じ切れるとかそういう次元の話ではなかった。「この先に湖はある」疑う余地がないくらい、そう確信していた。
「祥」
「なに?」
「ずっと会いたかった」
何かに閉じ込められていたかのように真理亜は言う。あながち駅舎の話も嘘じゃないのではないかと思った。
祥の顔からは、ふふっと笑みが漏れた。
「なに? 私おかしい?」
「いや」
久々に心から笑った気がしたのだ。
きっと、ここの精霊の蜘蛛も、祥と同じように絶望しきれなかったのだ。だから、憧憬を追い求めた。自分が濁っていたから、美しい憧憬の念を追い求めた。
それはとても美しい。美しい。でも、
絶望だって同じくらい美しいじゃないか。
もしも不死鳥がいたら。不老の蜘蛛がいたら。きっと俺は不死鳥になりたいだとか不老になりたいだとか願ってしまう。でもそんなものいないから。自分の空想の中にしか存在しないから。
でももし本当に不死鳥がいるのなら、不老の蜘蛛がいるのだとしたら、俺は迷わず願いたい。俺を不死にして欲しいと。不老にして欲しいと。でも、魂だけは消さないで欲しい。ずっとそのままで、俺の大事な、大好きな人たちと離れさせてほしくない。香澄や、琴音や結城たちが死んでも、転生して姿を変えても、ずっとそのままの関係性でいたい。そばにいてほしい。友達でいたい。
あれ、おかしいなと思った。迷いが残ってる。このままでは琴音の言う死ぬときの理由の悩みが無くなった状態に当てはまらない。でも、気分は確かに晴れている。結城の言った、揺ぎ無い境地に立っているような気がする。
そのとき、脳裏で焼き付いて消えなかった友人たちの顔が、突然浮かび上がった。
フフっと笑みが零れた。
一緒にいてくれるんだな。真理亜もここにいるし。
「会えてよかった。ずっと好きだよ真理亜。これからも」
抱きしめた先に、皮膚の感触はない。でも、これほどまでに温かいものなのだろうか。人と人との接触とやらは。もっと早くにこうしていたかった。もっと早くにこうしていた気がした。
根拠のない頭の中に浮かび上がった虚像を、祥は確信する。それは、真理亜も同じだった。目尻に皺をよせ、透き通る頬にえくぼを浮かべ、見たことのないすべてを包み込むような抱擁力に満ちた顔で、そう微笑みかけるのだ。
今やっとわかった。人は死ぬとき人生のすべてを捨てて、神々しく、美しく、艶麗を纏ってこれでもかと光り誇るのだ。
「もう大丈夫だよ。ずっとさ、泳いでいけるから」
荊棘で溢れた器から、光が消えた。
今日話したあなたの友達は、前世でもあなたの友達かもしれません。
きっと世界は思った以上に単純です。
エピローグはありません。魂に終わりはないと祈っております。




