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「意外と何もないんだね」真理亜は部屋に入るなりそう呟いた。
確かに言われてみれば、と祥は思う。何の変哲も凝りもない、閉じられたままのグレーのカーテン。床は入居した当時と変わらないままのフローリング。絨毯は敷かれておらず、絨毯どころか部屋の雰囲気を操るための家具だったり、電化製品はおろか、物がほとんどなかった。あるのは、生活雑貨店で見慣れたありきたりな敷布団、掛布団、枕の三点セット。
改めて祥は自分の住んでいる部屋を一望した。テレビすらない。物干しはベランダに置かれているので、部屋干しという訳でもない。何もない。
おそらく二回目だ。このアパートの一室を一望したのは二回目。一度目は、この部屋に入居したとき。カーテンも布団もない一室を眺めたあのときが一度目。
そのときの光景を思い出して、今の部屋の状態と重ね合わせて比べてみた。布団や枕だったりと、多少は物が増えているはずの部屋なのに、一度目に見たときの方が、はるかに魅力的なように思えた。
そんな魅力的ではないと思った一室に、一人の女性がいた。
ああ、と納得したのかもしれない。長くこの部屋に住み着いていたが、この部屋に愛着など感じていなかった。だから、今、この部屋がすごく人間味を帯びた、家庭的な一室に思えるのはきっと、彼女がこの部屋にいる、という要因のせいだ。
これか。人々が愛することをやめない理由は。
まるで恋愛やら恋人やらから離れた人間が言うのだから、現実味を帯びる。何の変哲もない部屋なのに、人が一人来るというだけでこんなにも印象が変わる。インテリアの一つや二つ変えたどころでは変わらない雰囲気が、人間が一人来ただけで変わってしまうのだ。それはきっと、祥が真理亜に対して何らかの感情を抱いているからだ。その感情が、この部屋の雰囲気に伝染した。
真理亜は茶色い革生地のボストンバッグを置き、フローリングの上で腰を折った。こういうときどうすればいいのか、部屋に人を招いた経験がない祥は戸惑う。アニメ、ドラマ、小説、その類のものを思い出して、ああ、お茶を出すのか、とひらめく。その思考に従って台所に行こうとするのだが、すんでで思いとどまる。この家のどこにお茶があるのだ。お茶っ葉はあったか。客人に出すような上等なコップはあったか。それを置く机すらないのだ。
「あ、全然構わないでいいよ。すぐここ出る予定だし」
察したような口ぶりの真理亜は、祥に向かって微笑んだ。その微笑みの意味を、祥は感じ取った。多分、これから仕事があるのだ。だからこんなに早く出向いてきてくれたのだ。きっと昨日の夜、自分がべらべらといろいろしゃべったから、心配して来てくれたのだ。真理亜はそういう性格だ。様子を見に来てくれたのだ。
そう考えたときに、今の真理亜の言葉と辻褄が合う。「あなたは元気そうだから、もう用はない」そう言って、数分後にはこの部屋から立ち去り、自分の不安要素から解放された真理亜は元気に仕事へと向かうだろう。
心配させてしまったのか、と思うと、昨日の自分が酷く他人に悪影響を与える醜い人間のように見えた。一升瓶片手に、酒に溺れて電話を掛けた自分が恨めしく思える。
気が抜けた祥は、今の今まで自分が眠っていた布団の上へと腰を下ろした。
しばしの沈黙が流れた。俯いていた祥は顔を上げる。脚を崩して座っている真理亜が目に入った。横髪の間から、顔が覗いていた。化粧は施されていた。朝早くから化粧をして、大変だなあと思う。きっとこれから大事な予定が入っているのだ。仕事ではなくて、恋人との予定かもしれない。
恋人??
ああ、恋人いるよな。それが数時間後に真実になることは当然だと納得できるくらい、美しく見えた。
よく考えれば久々に会った実物だった。路上ライブのときは離れたところで眺めただけだった。あのときは、ぼやけた表情とベンチに座る佇まいに酷く哀愁が漂っているように思えて、「歌を楽しく歌っているというよりは、何かを訴えているみたい」だなと思った記憶がある。
数十センチ先にいる真理亜の姿は、そのときと同じようには見えなかった。皺をよせない凛々しい顔つきとは裏腹に、どこか満足げな表情なのではないかと思ってしまう。化粧の下の本当の顔は、実は笑っているのではないか。真っ白な皺のない、ファンデーションで少し明るんだ頬。そんなもので、本当の自分を隠しているのではないか。
ばかだなあ、俺。真理亜にでさえそんな訝しむ心で対峙しているとなると、もはや誰かと対等に向き合えることもないのではないかと思えてきてしまう。素直に、真理亜が自分の部屋に来て嬉しいと思えばいいだろうに、そんな余計な想像と解釈で人と近づけるはずのきっかけをふいにしようとする。どうせこんな奴だ。自分は情けない人間だ。そうやって言い訳して、自分の本性を誤魔化そうとする自分が、大そう嫌いだった。
嬉しいなら嬉しいって伝えればいいのに。唯一の存在にさえ伝えることを拒む。
俺は、何を求めているのだろうか。仮に嬉しいって伝えてその後どうすればいいのか。「私もだよ」って返事が来たとして、その後どうするのだ。付き合う? 違う。雰囲気に従ってキスする? 違う。抱きしめる? 違うな。一緒に暮らす? 違う。
結局そんなものだった。一緒にいて嬉しいし、彼女の顔が見れるのも嬉しいし、気分もいいし、落ち着いているのかもしれない。でも、そんなものは祥にとっての『仕事』と同じだった。
考えることをやめたいがためにとった男の愚行。仕事に熱中すれば、余計なことを考えなくて済む。真理亜に熱中すればまた、余計なことを考えないで済む。
あ、でもなんか違うな。そこで祥は逡巡した。
真理亜に熱中すれば、当然真理亜のことを考える訳だ。どうでもいい大嫌いな世間体だったり相手の気持ちだったり、そういうことを考えながら振る舞って生きていくことを嫌っていた祥。じゃあ、真理亜なら。真理亜なら気持ちを汲み取ったり、真理亜の喜ぶことを想像していても、苦痛じゃないのか。
ああ、また無い頭使って余計なこと考えてる。
そもそもこれが余計なことだと感じる自分がいけないのだろう。考えることは悪いことではない。だが、集中力だったり疲れを感じるという代償がある。「疲れる」そう思った途端に、「考える」は「悩んでいる」へと豹変する。
自分の本心すらも信じられず、いろんな可能性の選択肢が頭に浮かび、そしてあやふやになっていく。どれが本心なのかわからなくなる。信じることなんて人それぞれで、そんなものに正解など定義できるはずもなく、だから、人々が信じて進んでゆく道は、捉え方次第で一レーンにも二レーンにもなるのだと定義できてしまった。
「ねえ、大丈夫? 顔色悪くない?」
いつの間にか目前に迫った真理亜の顔に、一瞬慄きそうになる。が、慄くどころか身体は動かなかった。代わりに、体内の臓器がビクついた気がした。
「大丈夫大丈夫。全然平気。もう仕事行って大丈夫だよ。昨日のこと心配してこんな朝早く来てくれたんでしょ? ほんとありがとう」
咄嗟にそんな言葉を並べていた。だが、間違っていない。彼女には仕事があるのだ。シンガーソングライターという人々を活気づける大きな仕事が。仕事に大も小もない。確かに思う。それは、伝える側の幸福度によって左右される。彼女は今活気にあふれているのだ。夢だったであろうシンガーソングライターになり、これからというときなのだ。邪魔してはいけない。
祥は立ち上がった。さあ、とでも手招きする仕草を自分の背中に任せ、玄関に出て鍵を開けようとする。
「待って」
背中が凍り付いた。
何が手招きを背中に任せただ。一瞬で固まってんじゃねーか。振り返れば、真理亜がリビングと台所の境目に立っていた。彼女の表情を見たとき理解する。
これが、自分に嘘をつくってことか。
「昔っからそうだよね。勝手に悪い方に想像してさ、自分は幸せに生きちゃいけないんだってことを当たり前のように思って生きてる。馬鹿なの? 祥君は」
「それは……」
あながち間違いじゃないな、と思った。それは多分、目の前に真理亜が立っていたから。こんな幸せ絶頂の真理亜が立っていたら、嫌でも自分のことが惨めに思える。邪魔するべきではないと思えるに決まっている。
なのにさ、
それでも、真理亜と一緒に居られたらって想像すると、幸せな未来しかなかった。具体的にどこか出かけるとか、一緒に暮らすとか、そういうことは一切想像できないけれども、真理亜の隣に居るという抽象的な未来に、幸福という二文字以外当てはまらなかった。それを知っていながら、俺は拒むのだ。真理亜のためだ、彼女のためだと、諦める。なのに、耐えきれず電話はかける。耐えきれてないのが証拠なのに。
具体的に彼女と何かしたいという未来は見えない。だったら本当は一緒に居たくはないのではないか。ミーハーの戯言ではないか。一瞬だけで、明後日には違う芸能人と一緒に居たいと思っているのではないか。
そんなこと今まで生きてきて一度もなかったっていうのにな。それでもそんな可能性を捨てきれない俺は、本当に馬鹿なのだろう。
「祥君はさ、私が何でここに朝早くから来たかわかる?」
祥は首を振った。それを見越していたかのように真理亜は微笑む。
「早く会いたかったからだよ」
答えはシンプルだった。
「さっき言ったでしょ? 祥君のことだから信じてくれてなかったでしょ。私、嘘つくような人に見える? 見えるんだったら、そう見えないように変わるし、いくらでも努力するけど」
それは、本心か?
「キスしなきゃ信じらんないって言うならいくらでもするし、嘘ついてるかもしれないと思ったらいくらでも私の本心伝えるし、そのためだったら何回だって話し合うよ? これでも人のこと信じられない?」
真理亜は祥の前にまで歩み寄って来ていた。胸の前で、見上げるように祥の顔を見ている。
「本当に私がこの後仕事に行くと思ってるの?」
「いや……」
「仕事辞めてきちゃったんだけど」
その後の沈黙は、祥を戸惑わせるには十分な時間だった。




