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俺は……できるだけ一人で生きてきた。幼少期に両親を亡くしたということを自分の中で受け入れられるようになったあの日からは、過去を振り返っても、現実を俯瞰しても、それが色濃く意識されていることに気づけるようになった。両親は自分の駄々によってホールケーキを買いに行き、その帰りに交通事故に遭った。フロントがぐしゃぐしゃになった車を、テレビの報道で見た。中には潰れたホールケーキの残骸と、いくつものクラッカーが残されていたと知った。当時の俺は、そのクラッカーの意味など、たいして考えてみたこともなかっただろう。
大人になって、両親の存在を受け入れられるようになった。これは真理亜のおかげだった。あのとき真理亜に声を掛けてもらっていなかったら、今もこの社会の中一人檻の中に閉じこもりながら生きていくことになっていただろう。今も大して変わらないのだが。
父の顔。母の顔。潰れたホールケーキ。クラッカー。それをすべて噛み合わせて想像された先は、いつも俺の胸を締め付けた。想像した次の日は、大体具合が悪くなった。身体を温めようと浴槽に湯を張り、肩まで湯船に浸かっても、涙は出た。汗なのかお湯なのかわからなくなって、それを隠そうとしてくれる風呂という存在は偉大なもののように感じられた。
誕生日。そんな概念もないまま育ってきたが、その響きの良さぐらい今の自分には理解できた。子どもにとっての誕生日。お祝い。家族で食卓を囲む。普段見られない白い生クリームの塗られたケーキ。その特別感に、大人になって初めて気がついた。
父は、母は、きっとその日ぐらいは我慢したのかもしれない。叱られることも多々あったが、誕生日の日ぐらいはと我慢したのかもしれない。いや違うな。我慢なんかしていなかった。きっと、心から俺を、祥のことを想ってくれていた。だからきっとクラッカーだって、俺を喜ばせようとして、一つなんかじゃなくて、たくさん買って。
二人の優しさが、大人になった自分には痛かった。
『大丈夫? ですか?』
耳元で囁く声が、更に祥の心の浸食を促した。目頭を手で押さえる。
「ごめん。ちょっといろいろ思い出しちゃって」
『泣いて、る?』
鼻を啜る音が聞こえてしまったのだろう。電話なのだ。顔が見られなければ俺が泣いていることなどバレない。なんて素晴らしいツールだ。
祥は、泣いていることを隠すように、震える喉に力を入れた。
「全然。泣いてないって」
『ほんとに大丈夫? なんかすごく心配なんだけど』
「大丈夫だって」
これ以上労わられたら、優しい言葉を掛けられたら、唇を噛んでも声が震えてしまいそうだった。声が、耳元で囁く声が、ベンチの隣から聞こえて欲しいと願ってしまう。俺は、君と一緒に居たいと、泣きじゃくりながら叫んでしまう。
そんなことできるはずもなかった。格好悪いじゃないか。それに、音沙汰もなかったただ少し話したことのある同級生から、有名になった途端にそんなことを言われれば、確実に不純だと思われる。そんなこと口が裂けても言えなかった。
『そういえばさ、私の曲聞いてくれた?』
「CD買った」
『ほんとに? 嬉しいな。どうだった?』
「よかった。自意識過剰になっちゃうくらい」
『……そう』
あの日、路上ライブで耳に触った曲。それが、CDの表題曲になっていた。自分の耳に疑いはなかった。そう思えるくらいいい曲だった。叫び声が、歌声が、自分に伝えられているかのように感じられる曲はそうそうない。同じクラスだとか、昔からの知人だとか、そういうのを抜きにして、本当にいい曲だった。
「というか、ピアノ弾けたんだね」
『うん。あ、中学とか、そんな前から弾けたわけじゃないよ? 高校卒業間際になって弾き始めて、ほら春休みって暇じゃん』
「確かに」
高校の春休みかあ、と祥は思い出そうとした。しかし思い出せない。というか思い出すほどの思い出がなかった。真理亜とも、病院に行ってからは少しずつ話すこともあったが、思い出というほど思い出でもない些細なことだ。でも、そんな些細なことなら覚えていられるのか、と思い出の定義がわからなくなった。
『あのさ』
「はい」高校時代を思い出していたせいで声が上ずった。真理亜はそのことについて触れずに続きを話す。
『あんまり言うことでもないかもしれないんだけどね、あの曲の歌詞ね、実はさ、祥君のこと書いたんだ』
「俺のこと?」
『うん。なんかね、私も息詰まっててさ、何年も路上ライブしてるとたまにはちょっと悩んじゃうみたいでさ。で、私ってフィクションの歌詞を今まで書いてたんだけど、たまにはノンフィクションでもいいんじゃないかって思って挑戦してみたの。でも私の生活って単調だからさ、書けるような突飛な経験とかなかったのね。で、しょうがなく過去のこと振り返ってたら、祥のこと思い出して。ごめんね、勝手に祥君のこと歌にしちゃった』
いや、別に、と心の中で言った。でもその言葉は体内の水分に溶けてしまったようだった。
『怒ってる?』
「いや、違うんだ。怒ってない。なんかちょっと真理亜の声聞いて別のこと思い出しちゃって。中学のときのこととか」
『結城君のこととか?』
「それも多分そうなんだ。結城とか香澄とか、多分、ずっと今日まで考えてたんだ」
『ねえ、輪廻魚って覚えてる? 高校のとき先生が授業で言ってたやつ』
「え」
『え、何?』
驚いて耳に当てていたスマートフォンを落としそうになった。なんでその話が今ここで出てくるんだ。どうやったらこの話の流れでそこに繋がるんだ、と驚く。今まさに、その輪廻魚という湖に関する本のことを思い出していたのだから。
「覚えてるよ」と祥は恐る恐る言った。
『あれ聞いたときぞっとしなかった?』
「した……ね」
『私、あの後気になりすぎて、図書館で本探して借りちゃったもん』
「読んだの?」
『うん。全部読んだ。祥君は読んだ?』
「読んだけど、中学のとき」
『え、中学からあの話知ってたの? 確か蜘蛛の憧憬画って本』
「そうそう。偶々図書館に行って、偶々見つけて、偶々読んだ」
『全部偶々じゃん』
「そうなんだよね」
『それだけ偶々が続くとさ、必然なような気がしない?』
「考えたことなかったな」
『私、最近その本のこと考えててさ、話に出てくる湖、見てみたいなあって思ったんだけど、あれって本当に存在してるのかな』
「都市伝説みたいなものじゃないの?」
『本当にそう思ってる?』
「……ごめん嘘、かな。なんとなく漠然とあるような気はしてるんだけど、どこにあるかって言われたらさ、全然わからないし。俺、一回気になって調べたんだよ。高校で教師からその話聞いて、懐かしいなと思って。俺もできれば見てみたいし、教師もあるかもしれないとかほのめかすからさ。でも調べても憶測みたいな情報しか出てこなくってさ、信憑性ないのばっかだったから、やっぱないのかなーって」
『私、多分場所分かる』
「嘘でしょ?」
『全然祥君みたいに調べたことはないんだけど、昔っからね、ここには行くなって母親から言われてた場所があるの。あの頃は小さかったから何とも思わなかったんだけど、多分そこだと思うんだ』
「そう」
『ねえ、一緒にいかない?』
「あ、俺も?」
『当り前じゃん。女の子一人じゃ危ないし。それに怖いし』
「じゃあ、俺明日から仕事入れるのやめるから、暇になったら家来てよ。メールで住所送っとくから」
『うん。絶対行く』
電話は切れ、耳元は涼しい風に晒された。
一升瓶を口元に持って行く。傾けると、仄かな味わいが舌の上に広がって喉に落ちだ。見上げたついでに空を見ると、藍色の広がっている空ではなかった。暗い大きく偉大なスケッチブックに抗おうと、ポツリポツリと輝く光が点在していた。
「東京の空も綺麗だな」
見えない訳ではなかった。目を塞いでいただけだった。よくわからない答えという価値観を盾に、見ようとしていなかったのだ。




