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その日、真理亜は休暇だった。怒涛の期間が過ぎ、久々の休暇だった。麻木さんの計らいなのか、今まで全然進まなかったのがおかしかったかのように、真理亜の身辺の物事はいい方へとどんどん進んでいった。世の中のアーティストなんてごまんといるだろう。いつかメジャーデビューすることを夢見て路上やライブハウスで歌うものも多かろう。
私は幸せだ。そう胸を張って言えることができたとしたら、きっともう明日死んでもいいとか格好よく言えるのだろう。
心の中に残った、漂う霧みたいな膜。それが破けていないとなんとなく感じた。
同じアパートに住んで五、六年経つ。布団は洗うし干すが、買い替えてはいない。部屋の間取りも変わらず。テレビはいつしか黒いままになった。コンセントはいつ抜いたんだっけ。見ることを忘れられた真っ黒な画面は、この部屋を黒く映し出していた。
真理亜は布団の中に潜り込んだ。大好きな音楽だけが耳から流れてくる。そんな時間にとても幸福を感じていたというのは、他の人には考えられないのかもしれない。一日中布団の中にいて、飯を食うことさえも忘れて、腹がぐうぐう鳴るがそれさえも邪魔なような気がして、膀胱に違和を感じてからトイレに行くのも億劫で、でも耳から流れてくる音楽は最上級だった。
ずっとこうしていたい気分になる。このまま深い眠りについてもよいのではないか。でもそれは、真理亜の本当の憧憬ではない。
たまに見る夢。
必要以上に食べ過ぎた夜に見る夢。
空腹を隠しながら寝た夜に見る夢。
淡い茶色の外套に身をくるんだ女性。その隣には年齢の差を感じさせる中学生程度の少年。彼らは、外見の差とは裏腹に、対等に話したり振る舞う。外套の女性が突然泣き出したかと思えば、中学生の少年は彼女の頭を自分の胸に抱え込む。明らかに中学生の方が年下だとわかるのに、彼はタメ口を使う。外套の女性は当たり前かのように振る舞うその姿が、調和を感じさせた。
外套の女性と中学生の男児がひたすらに田舎の畦道を逃げていく。落ち葉で柔らかくなった地面の上を、二人で逃げていく。その先。
はっと、真理亜は布団から飛び起きた。早く思い出さなくてはと頭を回転させるが、夢というものは抽象的で、あまり思い出せない。
今思い出さなければ絶対に思い出せないと確信した真理亜は、必死に思い出そうとする。
「あそこは確か……」
見たことがありそうで見たことがない光景。それが現実につながった途端、夥しい数の虫の集団に身体を覆われたところを、邪魔だ邪魔だ、どけ、と腕で振り払う。
視界は晴れた。良好だ。
再び布団の上に背中から倒れる。




