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月曜の夜のせいか、先週来た金曜ほどの混み合いは見られなかった。かといって人がいなくなったわけではない。サラリーマンもOLも学生もたくさん行き交う。
蛍光灯の光が直接届かないような、薄暗さを反面に持った隅。一人いつものベンチで、ケースからキーボードを取り出していた。でも、このときは、自分の胸の高揚を抑えることはできなかった。いつも常に行ってきたルーティーンも、この興奮は抑えきれないようで、今にも喉から手が出るほど早くこの公衆の隅っこで届けたいものがあった。面前じゃなくてもいい。端っこでも届く人には届く。そう信じて。
カラオケのようにマイクはない。自分の声で、自分の口で伝えなければならない。
零れそうな想いは、口を開けば自然と出ていった。息を吸うのを忘れて吐き出すことが意識される。
あの日の想い。自分の罪。相手への謙遜。敬い。自嘲の配列紐解いて、そこにあのときの悲嘆と悔いを混ぜ込んで新しい配列を作った。それを今、このだだっ広い世界へと自分の口で放っていく。
真理亜は歌い始めた。
あ、人が近づいてきている。私の目を見てくれている。
お前そんなこと考えてる余裕があるんなら、もっとちゃんと弾けよ。
もう一人の自分はそうやって私のことを蔑む。でも、一日中同じ曲を練習した甲斐もあってか、それなりに形になっていた。自信があったのだ。鍵盤を弾いていることさえ忘れて歌ってしまうようなこの先の未来に。
でも形か? 形じゃ駄目だろう。完璧にしなきゃその自信は嘘だ。全然駄目じゃないか。
ああ、手厳しいなもう一人の私は。満足する私のことが嫌いみたいじゃない。でも、こんなに心地いいのは初めてだよ。学生時代と比べて、人と話すことも少なくなったし、質素な生活を続けている私が、今こんなにも心が充足されてる。これってすごいことじゃない?
確かにすごいことかもしれないが、そこで満足してはいけないでしょう。
どうして?
この曲に込めた想いを忘れたの?
ああ、そういうことね。届くまで歌い続けろってことね。それが懺悔ってものだよね。
違うよ。
え?
懺悔なんかじゃないでしょう。あんたが伝えたいのは、そんな悔いてることなの? 自分は後悔してますって伝えたいわけ? ずいぶん自分を棚に上げるじゃない。
ああ、思った以上にもう一人の自分は的を得ているようだった。まさに自分の真っ黒な正鵠をどすどすと次から次に矢で刺してくる。
そうだよね。私、見失ってた。見失ってしまうのよ。歌い続けないといつまでも忘れ続けてしまう。こんな私だから。だから、もう隠していられないのよ。会いたくて、話したくて、でも会ったら多分思い通りに話せなくなって、家に帰って鏡の前で情けない顔して。でも、それでもさ、今の歌ってるときの私はね、祥のこと考えていられる。祥の隣に居る私を夢見ていられる。だから……
それで十分だし。
誰か懐かしい顔が微笑んだ気がした。遠くどこかに吸い込まれて行きそうな感覚だった。人々は真理亜に見向きもせず、ただ自分の進みたい方向へと足を運ぶ。その人と人の間、その空白に吸い込まれて行きそうだった。そのうち街の店からの蛍光灯の光も自分の元に全く届かなくなって、真っ暗になって、色を失って、どこか遠い所へと吸い込まれて行く。でもそんなのは、先週までの記憶だろう。
だって、視界は人相で溢れているから。
見たこともないような人の数。立ち止まってくれている人はおろか、微笑ましい顔つきの人までいる。視界を覆うほどの人間が、自分の目の前を覆っている。自分のために足を止めてくれた。
人々の叩く拍手とやらが、どこぞやの上質なグランドピアノの奏でる音色のように聞こえた。
「ありがとうございます」
街中の薄暗がりの隅、再びグランドピアノが音色を奏でた。




