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目を覚ますと、カーテンの向こう側はまだ透けていなかった。部屋も明るく、あろうことか電気を消し忘れて眠ってしまった様だった。
スマートフォンを見ると、時刻は五時前だった。先程同じように起きたときは、四時前。時間にすると、一時間近くしか寝ていなかったことになる。その割には、長い間眠っていたような気がした。
体を起こすと、すぐ隣には出しっぱなしのキーボードが目に入った。昨日の夜、あと少しだからと寝る間を惜しんで、作曲に励んでいたことを思い出す。本当に完成近くまで来ていたので、ここで眠ってしまったら発想が途切れてしまうような気がした。そのせいもあって、いつもならば寝ている時間になっても、キーボードの鍵盤を叩き、完成へと至った。
歌詞はあらかたできていた。詩を先に作ってからメロディを乗せてコードを付けていくので、大体はできているのだが、まだちゃんと歌になるところまではできていなかった。
起きて間もなかったが、真理亜は書きかけのルーズリーフを取り出した。
この曲は、今まで作ってきた中でも自信があった。毎回曲が出来上がるたびにそう思っているのだが、毎回それを上回っているので自分の中では納得している。次はこれ以上、今度はそれ以上と納得できる曲を作っていけば、いつかは最高の曲が出来上がると確信していたからだ。
同時に、その難しさや苦難も心得ている。今以上のものを創り上げることへの苦悩。もっといいのを作らなければと思えば思う程、空回りしてしまうことも多かった。だが、そこで空回りしたままで終わらせてはいけない。即興で曲を作ることができるアーティストも世の中には多くいるようで、しかもその曲が売れるようないい曲になってしまう信じがたい人もいる。
真理亜にとってそれは、曲作りの方法の違いだと捉えていた。
曲作りは言ってしまえば苦しいし難しい。でも、それを乗り越えて完成したときの喜びは、歌を歌うのとはまた別の喜びがあった。それを知っていた。だから、途中で「まあいっか」と妥協してしまうような曲は作りたくなかった。たとえその曲が売れたとしても、そんなのたらればだ。他の人がそういう曲の作り方をしたとしても、私は最後まで曲作りの難しさを味わいながら完成させたい。そういういわば信念があった。というかそもそも即興で納得のいく曲を作れるほどの力はないのだし。
とはいえ、難しさばかり味わいながら曲作りをしている訳ではない。いいメロディが浮かんだ瞬間なんてとびあがって声をあげるほどだった。そういう喜びを知っているからやめられないのだろう。
この曲に込めたい想い。それを詩に乗せたかった。だが、最近の真理亜の身近に起きた感動的な出来事や届けたい想いなど皆無だった。何と言っても、同じ風景が変わっていくだけの日常サイクル。そんな暮らしの中で、他のアーティストが作る恋愛の曲だったり、人の懐に入り込んで感動させてしまうような詩など思いつくはずもなかった。
そう思った途端に、なから出来上がっていた歌詞が全部虚言のように聞こえてきた。メロディは頭に入っているので、それに乗せて流れてくる詞がなぜこんな歌詞を書いたんだと過去の自分を戒めるように淡々と聞こえた。
当然、詞が別に嘘だろうが何だっていい。小説だってドラマだってフィクションで皆感動している。だから別にフィクションだろうがノンフィクションだろうが、そこは真理亜自身固執していなかった。事実、今まで作った曲の歌詞なんてフィクションだらけだ。
今、目の前にあるルーズリーフに綴られた歌詞だって、別に悪い訳じゃないはずなのだ。違和感は多分、正しい。おそらく釣り合っていないのだ。詞と曲が。
真理亜はルーズリーフをそっと四つ折りにして、ゴミ箱へと入れた。他の曲に使えるかもしれないが、今はそういう気分じゃなかった。この曲には、先ほどの歌詞に縛られない何かが必要だと先天的に感じ取った。私の勘が正しければ、きっとそれは正しい。
じゃあ何を書こうか。部屋着姿のまま、だらしなく嵩張った髪の毛をかき上げ、耳に掛け、じっと頭だけを回す。
ノンフィクションを書いてみようか。自然とそう思った。別に全部が全部ノンフィクションじゃなくてもいい。嘘と事実を織り交ぜながら作ればより美しいものができるかもしれない。それでしっくりこなかったらまた一からやり直せばいいんだ。私には時間がまだある。
思い至った真理亜は、すぐに自分の人生の中でのどの事象を使おうかと考える。やっぱり人間性が反映されたものがいいとは思うのだが、そんなことが自分の送ってきた中にあっただろうか――。
ない……。
自分の人生がこれほどまでに身の詰まっていない魚だったとは……。送ってきた人生を顧みた真理亜は、自身の人生の空白さに夜まで悲嘆に暮れそうな勢いだった。
別に日常的なことだっていいじゃないか。友達と食事をするだけの小説だってあるはず。そんな思いついた情けに縋って、今一度と、自分の人生をと振り返った。
隠しきれるはずがなかった――。
この人が嫌い、という感情なら嫌というほど理解できる。なのに、この人が好き、という感情は今の今までわからずにいた。ただ、そのわからないという人物。好きなのか嫌いなのかわからないなと訝りをかけた人物の虚像が浮かび上がった。
祥――。
言った後で、心底自分に驚いた。いつの間にか声帯が震え、声となって零れたその名前。顔は好みではないが、誰かがイケメンだと言ったら多分イケメンになれる顔。話しづらいということもなく、寧ろ話しやすい方だった。ただ……。
どこか心の中で彼を憐れんでいる自分がいた。彼は可哀想な人間だ、だから私が寄り添ってやろう、彼はとても不憫に見える、だから私もその隣に居たい。そんな思いが、過去からぶつぶつと沸騰するように次々に湧き出てきた。
不純なのか。それとも縋っているのか。昔のあの子は今の自分と同じはずだ。そうやって対象を無理やり自分と同じ環境に当てはめることで、今の自分の生き易さを生み出そうとしている。それが不純ですか?
ああ、私って弱いなあ。久々にちょっと強い酒でも飲んでしまおうか。そう思ったときに不意に我に返った。
「私、今、祥と付き合うこと想像してたの?」
違う違う。今は、歌詞のことを考えていたのだ。過去の中から取り出した出来事をフィクションを混ぜながら歌詞を作ろうって話だ。
でも、とそんな思考を止める。祥との時間が想像できちゃうくらいの過去だったということでもある。想像力は、きっかけを与えれば驚くほどに膨れ上がることもある。事実、真理亜は体験して来ていた。特に飛躍した事象など何もない日常サイクルだが、バイト中に現れた客を見たことでいい歌詞が浮かんだり、たまにはジョギングでもと走りに行った公園で、バーベキューをしている家族連れを見つけて、その俯瞰して見えた風景と木々の揺れる音だったりからいいメロディが浮かんだこともある。




