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輪廻魚  作者: 面映唯
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 湿った苔の匂い。湧水が近くを通っているような感触。埃の香りと右頬に触れている細かい突起物が型をつける。反射で機敏に働く感覚。


 身体を起こした少年は場所を(はばか)らず、豪快なあくびをした。年相応の反応をするとしたら、泣いて逃げ惑う、声を出すということも考えられるが、少年にそのような様子は見られない。


 天井が見えないほど異常に高く、吹き抜けになっているその洞窟は、昔、いくつもの止まらない鼓動たちで賑わい、同胞と共に口を糊する場であった。苦痛の中にも憩いの場は存在し、それを同胞とともに乗り越えていこうとする。そんな暮らしの背景は今はもう、名残でしか感じ取ることはできなかった。


 少年は歩く。きょろきょろと左右を不気味に訝しむ姿は、もはや少年の沙汰ではない。低い背丈と、柔らかそうな骨の浮立ちを見せない丸みを帯びた手の甲。瞼と瞳は少年のそれだが、目ん玉の奥は、何か別のものを見ている。その差異に違和は感じずとも、少なからず、普通ではないということを感じ取ることはできた。


 少年の足取りは軽い。まだ進む。


 この洞窟は、この吹き抜けの通路を介して蜘蛛の巣のように左右にうねりを広げて、また別の細い通路がいくつも張り巡っている。かつての住人でさえ時に迷った。というのも、何年もかけて測量し、地図を描き、そして新しい通路を次々に創り出すことで、敵に侵食されないようにと常に縄張りを強化していたからだ。また、それを繰り返すことによって我々は外界との接触を更に避けようと試みた。たとえ迷い人が紛れ込んだとしても、排除できるような手立てはごまんと用意してあった。迷い人には何の恨みもないが、以前に、この洞窟に迷い込んだ者によって同胞の息の根を止められたことがあった。そんな根絶やしにされた事例が存在している以上、そのままにしておくわけには到底考えの至るところではなかった。


 少年は残骸の横を通り過ぎていく。人の姿を見るのなんて、幾分久しい。郷愁の想いがまだあったとなると、罪はさらに重く、重く、その重みを増していく一方である。


 少年は左右を注意深く観察しているのだが、逸れた通路、いわゆる蜘蛛の巣の中へは見向きもしない。何が見えているのだろうか。


 まだ深部までは程遠い。左右には瓦礫の山と亡骸、白骨、紛れて器や沁みる布切れ装飾品。少年はやはりそんなものには見向きしない。子どもの割には大人びている。こんなにも私が焦がれている感情とは裏腹に、少年の心はどうやらあちこちに転がっている岩石よりも固いのだろう。いや、そんなことはない。少年は、ただ見ていないだけだ。そう思えてしまうのは、薄汚れた感情に蓋をできない従順さが生んだ、私のこの歪に変形しつつも未だに、いくら経っても消えない塊が、魂のように一点に限って不幸を顧みているからだ。


 越えられない壁は何処にある。破れない障子はなかろう。息を吸うことができない? 喉に水を通すのもままならない。そんな生活が私をこの洞窟という名のホームから逃してくれないことは、どう考えても当然の成り行きであった。身体も、心も、顔も、あの日から何一つ変わらないはずなのに、ここに存在してしまう。


 その相対性が、かつて盲目であった私を拒んだのであろう。


 もうあれから何千年と時が過ぎた。ノアの方舟は私を見殺しにした。薄く表情を並べる同胞の顔が未だに浮かんでくる。そのたびに言葉を無くしてしまうほど自分に素直に、子どものように泣きじゃくれるのはまだいい方だが、この暗い洞窟、ましてや広い蜘蛛の巣が張り巡らされたこのホームに、昔の私は何度となく迷い込んだ。その瞬間の厭世といったら死ぬことの比ではない。到底釣り合わない。死んで済むものならとうに死んでいる。償えるものならどうすればいいか。ただこのホームを外界人から守り続けること。苦肉の策だった。


 迷い人は何処からやって来るのかわからないが、これだけの間身を挺していれば幾多と見かけてきた。本当は息の根を止めなくてはならないのだが、もうそんな時代も守るべき礎も姿を消してしまっている。残っているのは脇役でしかなかった額縁のホーム。絵画がなければ額縁の価値は皆無。


 私もその絵画の一枚に見えようことは、傍から見れば疑えないほど確たることであったはずだ。それは今も尚変わりはない。だが、私は絵画ではない。一色の絵の具だ。水もない、パレットもない。筆もない。パレットに残された、ただそこにいるだけの黒味がかった薄茶色のセピア。


 余暇に遊戯に誘ってくれる優しい筆はもういない。見守ってくれる暖かいパレットもいない。水彩紙こそ残っているものの、それはもう額縁同然であった。


 額縁を踏みつける部外者は見ていられぬが、額縁を撫でるように歩く者にはそれなりの好感が私にもたらされる。偉人のような身だしなみに髪が明るい者たちが来たときは、躊躇なく刃を振るったが、子どものような柔らかい空気を生み出しながら、そっと踏みしめて歩く者が来たときは、その情調の延長を願い、同胞との遊戯を思い出しながら、肌で感じながらその行方を鑑賞するのであった。


 彼はたどり着けるのか。彼女はたどり着けまい。迷い人が現れるたびに感じたそんな願いも皮肉も当然のように退けられて届くことはなく、あっさりと吹き抜けの上昇気流に乗って散霧する。


 少年は未だにまっすぐ進み続けている。


 驚いた。少年の腕には黒いオーパーツがついている。針が三本ついている。一つは止まることなく周回し、太い細針は異文化のものだろう文字を指す。長針は、時が過ぎるにつれて少しずつ一歩一歩円周を刻んで回る。


 あれを持っているのは……。


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