ワラサ
駅を出て少し行ったところの道の端。境界ブロックに囲まれた内側には、周りのコンクリートに反して柔らかそうな土が敷かれていた。付近には休憩すべしと、土と同化しそうな茶色いプラスチック製のベンチが点在している。今立っている目の前にも、その少し隣にも、その奥にもあった。
真理亜は目の前にあったベンチに腰を下ろそうとする。背中に背負っているキーボードが邪魔をして、心地よく座ることはできなかった。慌てて、降ろす。
手提げに入れていたスタンドを取り出し、その上に、ケースの中から取り出したキーボードを乗せる。もうすでに常習化した作業だが、それでも真理亜にとってこの作業は無意識に行っていいものではなかった。
最近知ったのだが、スポーツマンのルーティーンとやらは、無意識に行っているものかと思っていたが、実はそうでもないらしい。意識的にやることで自分の心を落ち着かせるためなのか、これをしなかったから活躍できなかったと言い訳をしないためなのかは知らないが、真理亜にとってこのルーティーンは、期待を抑制するためのものだった。
ケースからキーボードを取り出す作業は、もう何百回と繰り返してきた。しかし、そのたびに期待がどんどんと膨らんでしまうのだ。今日は届くかもしれない。今日は聴いていてくれているかもしれない。そんな期待が膨らんでいくのだが、今になっても、届いたという実感も、証明もなかった。
そもそも証明とはなんだ。聴いてくれる人が目の前に来て、「よかったよ」と言ってくれることなのか。それすらもあやふやに思えてきてしまって、ケースから取り出す作業が今では心を抑えるためのルーティーンとなった。
準備をし終え、ふと顔を上げれば、いつもの街だった。雑踏は止まないし、その分人影も多いし、建物はこれでもかというくらい光に満ちている。当然、真理亜に目をやるものなどいない。
これがまだこれから先、何度も続くかと思うと気が遠くなってしまいそうだった。いつ終わるかもわからない行動。生活は常に苦を強いられている。贅沢だなんて最後にしたのはいつだったろうか。まるで生活は戦前だ。
早く弾こう。この思いを消し去ってくれるのは音楽か時間くらいだ。待っている余裕などないのだ。時間が過ぎるのを待っていたら、野垂れ死んでしまいそうだから。
構うな。そう思い、薄暗い夜の中、白いだろう鍵盤の上に指を置いた――。
立ち止まる人間は数えるくらいだった。立ち止まった人の滞在時間は一分を満たない。サラリーマン風の格好の人が止まり、立ち去って誰もいなくなり、また誰かが止まり、いなくなり、独り言のように歌い続ける自分となった。
だが、歌の魅力を見失ってはいない。聴くだけだった頃には気づかなかった、届ける側の魅力。これは一度やめたらやめられない依存症のようなもので、毎回毎回、人がこようがこなかろうが、発散とも興奮とも呼べる高鳴りに満足しながら、ケースにキーボードをしまうことには変わりなかった。
真理亜は、キーボードのケースを背中に背負い、ベンチを立った。
金曜の夜は、カラオケで一夜を明かすと決めていた。歌の上達のため、とは仮初めであり、実際は一週間耐え続けた自分への褒美のようなものだった。
一週間。それは長いようにも短いようにも感じられる。高卒無職アルバイトの真理亜にとって、一週間は長く感じられることもあれば、短く感じられることもあった。しかし、それすらも、真理亜にとって昔のことのように感じられていた今日日。最近は、日常のサイクルだった。気分転換に友人と遊びに行ったのは幾分前のこと。週五で朝から定時まで働き、夜になれば駅近くのベンチで弾き語り。余った二日で曲作りに励む。それを毎度毎度繰り返す終わりの見えない日常サイクル。
土曜だけは、シフトを開けるようにしていた。弾き語りを終え、十一時までファストフード店で歌詞を綴り、時間になったら近くのカラオケ店へ行く。そこからは、朝の始発まで歌い続ける。曲を入れ、マイクを握り、また曲を入れ、今度は一度に何曲か入れ、マイクを握りしめ、ひたすらに歌い続ける。これがたまらなかった。
そんな興奮を頭に蘇らせながら、真理亜はファストフード店へと入店した。百円のホットコーヒーを頼み、受け取り、二階の席へと上がった。開いている席に座るや否や、キーボードのケースからルーズリーフとペンを取り出し、詞を作るために頭を回転させ始めた。
ペンの滑る音。左手で触れるルーズリーフの紙面の感触。真理亜はこれを好んでいた。スマートフォン等で作詞する者もいると聞くが、自分にはこれは合わないな、と直感的に思っていた。メールで文字を打つ際に、フリックで入力できないため、遅いからということもある。が、それを除いたとしても、紙にペンの方が安心感があるのだ。それは、電子機器に出会うよりもずっと前から身近にあったから、なのかもしれない。
コーヒーを啜る。
自分の右後方で、学生の話声が聞こえていた。
「ねえ、単位取れそう?」
「ああーどうだろうね。今はちょっとやばいけど、テスト前に勉強すれば大丈夫なんじゃない?」
声からして、男と女。おそらく大学生だろう。
邪念が入った。私も大学へ行っていたら、こんな生活を送っているのだろうかと思った。高校時代以上に友人が増え、サークルとやらで共通の趣味同士が集まり、盛んに口話が増える。男の友達も増え……恋人もできるかもしれない。
恋人。その単語が妙に愛くるしく思えた。今の自分が、その単語から遠い位置で生活を送っているからだろうか。恋人、という単語を頭の中で思い浮かべるだけで、なんだか胸が敷き詰まっていくような感覚だった。
「もう帰る? 終電近いけど」
「家、泊まってもいい? そしたらもうちょっと長く居られるんだけど」
また後方から話声が聞こえてきた。よくもそう好きな人がポンポンとできるものだ、なんてよくわかりもしない男女の事情に口を挟み、それが自分を慰めているように感じられ、慌てて首を振る。何を勝手に私は蔑んでいるの。彼らの話声と自分の置かれた環境が月とスッポンだって認めているようなものじゃない。自分を棚に上げて、他人を蔑むなんて酸っぱい葡萄か! 私はキツネなのか!
真理亜は邪念を追い払うように、ヘッドフォンを耳に当てた。
もう、これ以上は作詞に集中できなさそうだった。それくらい頭の中が久々に渋滞していた。いつも真っ白で空っぽだったはずの頭の中が、急にいろんなもので満たされていく。耳から入った情報と、過去の想い。それが絡み合って「もう考えるのヤダ!」と思えるくらいになった。すぐに音楽に縋りつく。
流れた音楽は、やはり真理亜の心を充足させていった。数十分間にわたり、同じ曲のヘビーローテーション。口ずさみたくなるくらいに気分は高揚していた。
でも知っていた。このヘッドフォンを耳から離してしまえば、途端に世界は狂ったように入り乱れる。音楽が流れ、それを聴くというだけのパーソナルスペースは途端に失われる。空気に触れて露になった耳から聞こえてくるのは、聞きたいとは思えない他人の会話と生活音。効果音ですら耳に触るのだ。
結局、考えるのをやめることは不可能だった。悩みがある以上、不安がある以上、考えて答えを導くか、勝手に解消されてしまうような奇跡を待つしか解決する方法などないことを、真理亜は知っていた。
引き抜いたイヤホンジャックの先を眺め、スマートフォンに目をやれば、右上のデジタル時計は十一時を過ぎていた。再び席を立った。




