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祥が香澄と出会ったのは、偶々だった。帰りの会が終わり、皆部活動へと向かう中、祥は一人教室に残って小説を読んでいた。普段は小説など読まない人間なのだが、このときばかりかは読んでいた小説が短い短編だったこともあって、最後まで読んでしまいたかった。
五限の授業が自習になって、図書館は取ってあるみたいで、なんとなく行った図書館で、なんとなく目についた小説。薄っぺらい同人誌のような冊子に、絵本のような表紙と装飾。中にはもっと鮮やかな絵本の世界が広がっているのかもしれないと表紙を開けるが、その期待は裏切られることとなった。
文字がびっしりと並んでいた。それが小説だということに、祥は気がつく。小説などちゃんと読んだのは、小学校のときの読書感想文を書くために読んだ、児童図書ぐらいだった。
時間はまだ一時間弱ある。故に暇だった。手に取ってしまったということと、その本が薄かったということもあり、席に座って祥は読むことにした。
初めは棒読みだった。当然内容が入ってくるはずもなく、ただ文字を読んだ、という作業的な実感しか沸かなかった。常用漢字だけでなく、難読漢字も多少含まれていた。そんなの読めないし、意味も知らない漢字は飛ばしてさっさと次のページへと進んだ。
最後のページまで棒読みを終えたところで、祥はやるせない気分になった。これだけ集中力を使って読んだにもかかわらず、まるで充足感がない。ドラマや映画を見終わったときのような、収束感、感動といったものがまるで感じられなかった。ただ、疲れた、という実感だけが頭の重さを作っていた。こんなので人は感動するのかと思ってしまった。
そこで、もう一度読んでみようと試みる。今度はただ読むだけではなく、ちゃんと意味も理解して読む。図書館なので、辞書を引っ張り出してきて、わからない熟語や漢字は調べながら読み進めた。すると、一週目とは違った感覚を覚え始めた。
抽象的なのは変わりないのに、文字から読み取った光景が頭の中で広がっているのだ。しっかりと想像しようとすると、具体的にその光景は広がらないのだが、表現できない魅了というか、どこか満たされるものがあった。
そのまま辞書を使いながら読み進めていった祥だが、漢字を調べながら読むとなると時間はかかる。結局五限が終わる時間までに、二週目を読み終えることはできなかった。
司書の先生に言って、本を借りて教室に戻ることにした。家に帰って読んでもよかったのだが、今読みたいという欲が、祥を放課後の教室にとどまらせた。
生徒もいなくなり、一人自席で薄っぺらい本を開いた。ロッカーから自分の国語辞典を持って来て、一緒に並べながら読み進めた。
そんな最中だった。
「辞書で調べながら本読むなんて珍しいね」
顔を上げると、そこには見知らぬ女子生徒の姿があった。集中していたせいか、教室に入ってくることに気がつかなかったのだろう。髪は肩がかかるくらいの長さで、前髪が揃えられていた。すっきりとした顔立ちと眉は、それだけで祥の心臓を弾ませるには十分だった。
「俺、漢字読めないし」
女子生徒は祥が読んでいるにもかかわらず、薄い冊子を自分の手に取ってぱらぱらと捲った。
「なんだ。もっと古典みたいな難しいのかと思ったら普通の小説じゃん。これぐらいだったら私も読めるかも」
そう言われ、祥は少しむっとした。一週目を読み終えたときに感じた、内容が入ってこなかったときのことを思い出し、お前だって読み終えたって内容はわからないはずだ、きっと読み始めてすぐに頭が痛くなって、最後まで読まないはずだ。
口だけだろうと反抗したくなった祥は、「じゃあその題名読める? 意味も分かる?」と食い気味に問いかけた。
少女は表紙に目を落とす。「ええと……」と声を詰まらせる。それを聞いて、やっぱりな、口だけだ、と祥は予想したとおりになって心の中で蔑んだ。
「くものーしょうけいが?」
発された不安げな声に、祥の耳はピンと来ていた。合ってる……。なんでこいつ読めるんだ。
負けじと「じゃあ意味は?」と問いかけた。
「くもは虫の蜘蛛でしょ。で、憧れるに、次のよくわかんなくて、画は絵みたいな意味でしょ。だから、要するに蜘蛛が憧れたっていうか思い描いている絵、みたいな意味じゃない?」
どう? 合ってる? とでも聞くように女子生徒は祥の顔を窺っていた。
なんだ知ってるのか。意地になっていた自分が馬鹿みたいに思えた。現に、この女子生徒より自分が馬鹿だということがはっきりした。
「そう。正解。俺もさっき調べて知ったんだけどね」
潔く負けを認めてそう答えると、「おおマジか。合ってたんだね」と女子生徒は掌を合わせて驚いた様子だった。
「でもすごいね。普通辞書使ってまで本読まないと思うけど。なんかこの本に思い入れでもあるの?」
「まったく」
「もしかして課題とか?」
「いや」
「じゃあ、勉強のためとか?」
「全然」
「じゃあなんで読んでるのよー」女子生徒は少し呆れたように問いかけてきた。祥自身、この小説を手に取ったのは偶々で、そもそも図書館に行ったのも偶々で、辞書を使ってまで読もうとしたのも偶々で、全部偶々だった!
まいったな、と思った。見栄なのか意地なのか、この女に好かれようと思っているのかは不明だが、「全部偶々です」と答える自分を想像すると、酷く滑稽に思えた。だから別の返答を探していた。
「気まぐれ?」
選び抜いたのはそんな適当な言葉だった。
「気まぐれで読んでるようには見えなかったけど」
その言葉は、この小説を手に取ったときと同じような感覚を覚えさせた。
それからだった。香澄と一緒に時々放課後を過ごすようになったのは。塚越たちと一緒にだべっているのも好きだったが、香澄と一緒にいるのも同じくらい楽しかった。声や顔には出さないけれど、隣に座っているだけでうれしかったし、一緒に本を読むのはとても幸せのような時間だった。
やがて、祥は香澄に告白し、付き合うこととなった。付き合うことが決まってからも、付き合う前とさほど生活に変わりはなかった。塚越たちと話す時間も、香澄と一緒にいる時間も伴にあった。




