感情の潰えた青年 その1
世の中の事象の全てに人それぞれ異なる見解が存在するのは充分承知している。
その中の一つ、つまりは僕の見解であるに過ぎないものの見方ではあるのだが、おそらくこれを予め述べておかなければ今後話を進めにくくなってしまうのではなかろうかと言う気がするので、ここで述べようと思う。
殆どの人間に当てはまることではある。もちろんそれは僕も例外ではないが、大抵は物事の結論を早く出そうと急くだけに足らず、その理由を求めることが実に多い。
人は納得しようとするのだから、まあ当然と言えば当然だし、必然と言えば必然なわけだが、しかしながらどうだろうか、理屈と理論で塗り固められたものを"虚言だ"、或いは"屁理屈だ"と切り捨てているくせして理由だけはきっちり求めるというのはつまり、それは人間が理屈や理論だけでは生きていけないこと、もっと言えば感情を有すること。感傷を有することの証明になるのではなかろうか。
つまり真っ当な人生(あらゆる事象にそれぞれの見解があるよう、人生の姿も人それぞれであってそこに最善の解など無い事は承知している)に必要なものは理屈でも理論でも、また理由でもなく感情であると。
僕はなんとなくそう思うことが多々あるのだ。
だからまさか、その時は思いもしないだろう。
一般的な高校生(人間と化物の境界線を彷徨っている感じは否めないが)であるところの僕が、"感情を失った人間"と対峙する事になるだなんて。
「鎌田、来てくれ」
中年の男性教員の声が、早朝の学校の中で上がっていた。
なんとも形容し難い、ドスの効いた低い声である。
現代文の先生でありながら、僕の担任を務めている上総 国貞先生は、雑務係として、まあつまりは体のいいおつかい役として僕を早朝の学校に呼び出した。まだ補習の授業が始まる前である。
ちなみに風変わりともとれよう上総の名字は、昔の千葉の呼称に起因しているそうだ。
「なんかあったんすか、上総先生」
眠気で重い瞼を擦りつつも、僕は上総先生のところへ駆け寄る。
いや、眠気の多い早朝の不機嫌さといったら並大抵の人間が少なからず持っていると思うけれど、僕は昨夜に咲とのあれこれがあって寝不足気味なので、上総先生に負けないほどに声のトーンが低かった。
「ああ、いや悪いんだが…この書類を3年の教室へ届けに行ってくれないか。渡し忘れてしまってな。3年6組だ。道順は分かるな?」
本当になんで俺が、と言いたくなるような雑務ではあったが、ハードな仕事を詰め込みで行うよりは幾分かマシだろう。
僕はぶっきらぼうに返事をする。
「分かりますよ…大丈夫っす、行ってきます」
「おう、悪いな」
上総先生としてはやはり僕を慮ってくれてはいるのだろう。気遣ってくれてはいるのだろうけれど…ったく、こんな眠い時にミスの尻拭いを生徒にさせんなよなあ。
「重要書類だ」と念を押されたが、ならば尚更である。自分でやれよ、と文句を言ってやりたい。
まあそのくらいこなしてやらないというのも些か短気すぎるような感じもして気が悪かったので、僕は素直に階段を下り、一つ下の3年生の階へ行く。
えーと。
6組だっけ?
迷路みたいに入り組んだ通路を右往左往していると(他学年の階の形など、覚えていなくても仕方あるまい)、それらしい教室にようやく辿り着いた。
いや、辿り着きはしたのだが。
教室の鉄扉に施錠されていて、中には入れない。
僕のイライラは募るばかりだった。
早朝だから施錠されていても仕方ない時間帯ではあるのだが、荷物を届けさせるんだから開けておいてくれよ…。
僕は胸の内でブツブツと文句を垂れ流しながら、どうしたものかと思案していると、突如何者かの身体と衝突して突き飛ばされた。
「ん………ごめん」
彼は平坦な口調で謝罪を口にする。平坦と言っては黒矢を連想させてしまうから語弊があるかもしれない。それは寧ろ無機質な、感情のないような声のトーンだった。
僕よりも幾分か背が高い。いや、僕も177センチなので、低いわけではないと思うが…。
それを言えば、彼は190センチ以上ありそうなものだった。掛け値なしに、本当に細身の高身長だった。
「あ、いや、すみません…。あの、上総先生から届け物を頼まれたんですけど、教室が開いてなくて。」
僕は大量の書類が入ったダンボールを抱えたまま事情の説明をする。すると彼は合点がいったかのような表情で、「えっと…その、遅くてごめん…。鍵は、僕が持ってて…今から開けるね」
と本当に申し訳なさげに言った。
まあ、彼の謝罪に免じて許してやるとしよう(元々何かとやかく言える立場でもない)。
がちゃり、と気味の良い音を立てて鉄扉が開く。
その先輩と思われる人物と共に教室内へ入り、教卓のところへそのダンボールを下ろす。
ふぅ、疲れた。
結構長時間ダンボールを持ち続けていた僕は、何度か軽く腕を回す。
それにしても、上級生の教室って緊張するなあ。
江花の気持ちが分かるような、分からないような?
「その、待たせて本当にごめん…。わざわざありがとう。」
彼は透き通った声でおどおどとしながら謝った。
「いや、そこまで気負いしなくても大丈夫っすよ。むしろいい眠気覚ましでした。そんじゃ、失礼します。」
結構フランクな感じ(?)で彼を落ち着かせてから、僕は教室を後にしようとすると、突如。
がたん。
と、音が響いた。
何事かと僕が振り返ると、先程まで規則正しく整頓されていた机が、一部分だけ乱れていた。そしてその中心には──。
人が、倒れていたのだ。
────そういえば、僕はまだ彼の名を聞いていなかった。




