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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

記憶葬送曲

作者: 鷹野 砦

ずっとずっと後悔していることがある。


いつまでも後悔するような記憶を抱えることが愚かなことだと分かっている。


辛いことだとわかっている。


でも、どうしてもその事が忘れられない。


どうにかして忘れたいその光景が、目の奥で揺らめいている。ふとした瞬間にその景色が、像を結んで心に何度も記憶を焼き付けてくる。


そりゃそうだ。だって僕は忘れないでいたいから。その記憶が例え、暗いものを伴っていたとしても。


忘れてしまえば、君が消えてしまう気がしたから。



「ねぇ、また考え事?」

「え」


銀杏の葉が視界を遮ると同時に聞こえてきた声が、僕の意識を現実に引き戻す。


「だーれだ」


視界いっぱいに埋め尽くされた銀杏の葉がケラケラからかう様に揺らめきながら、聞き覚えのある声が後ろから訪ねてくる。


「誰ってさぁ、そんなの直ぐに分かるじゃん。伊沢でしょ」

「あったりぃー」


黄色がパラパラと崩れて、その後ろから見えた両手が引っ込んで代わりにニッコリ笑った顔がひょっこり逆さまに出てきた。


「僕の膝が銀杏の葉っぱでてんこ盛りなんだけど。何変なことしてんの?」

「良いじゃん。意味のわからないことが出来るってのは高校生の特権デスヨ?」

「それ特権なんだ……」


それじゃあ世の中のお笑い芸人はみんな高校生という事にならないか?なんて考えてみるけれど、あれはあれで仕事なのだから自ら生計を立てる意味があるのかも知れない。


「いつもの事だけどハルはボーッとし過ぎだよ。一体どんな事考えてるの?」

「……秘密」

「またまたぁ〜〜」


そんなに言いたくないなら別にいいけどねーと少し拗ねた振りをして伊沢──伊沢菜月は膝の銀杏を全て払い落としてくれた。


「こんな寒空の元で考え事するよりも、もっと大切な事があるんじゃないの?部活とか今日はあるんでしょ?」

「いや、僕半分幽霊部員だし行かなくても」

「だーめ!今度のコンクール?に出品する件に関する大切なお知らせでしょ。顧問の先生から聞いてるよ」


全部の銀杏を払い落とすと、菜月はしゃがんだ姿勢からこちらの目を真っ直ぐ覗き込んできた。紺色の瞳に正面から射抜かれても動揺なんてしない。もう慣れている。


「僕は絵を書くつもりなんて無いんだよ。大体美術室あるの4階だし、行くのが面倒すぎるでしょ」

「その時は私が」

「遠慮する」

「まだ言い切ってないんですけど!」


僕はふざけて両手を振り回しながら怒ってみせる彼女を見て、少し微笑んだ。何となく彼女の事が懐かしく思えて──


『ドンッ』『グシャッ』『──ごめ』


不意にあの光景がまた脳裏に揺らめく。

ダメだ。やっぱりどうしても思い出すのは嫌だ。忘れるつもりも無いのに忘れたいなんて、そんなのは矛盾している。

必死に表情に感情の変化を出さないようにする。ここで心配なんてされても楽しくない。


「──そんなふざけてないでさ、もしも一緒に帰るんだったらそろそろ時間が危ないんじゃないの?僕より家遠いよね?」

「そうだねー。早く帰らないと親父殿に説教食らっちゃうよ〜〜」


間延びした菜月の喋り方が嫌いだという女子もいるけど、僕は嫌いじゃない。その喋り方が雰囲気に良く似合っているからだ。肩まで伸びた髪と控えめな長さで目立たないように結えられた三つ編みが、歩くとともに踊る。のんびりした歩調が地面に敷き詰められた銀杏の絨毯を乱すことはない。


僕の速さに合わせて先行する菜月の気遣いが段々と身に染みてきて、僕は菜月の後を追うように手を握りしめて付いて行った。



美術室。

ここまで来るのは本当に一苦労だった。別にコンクールなんかに作品を出すつもりは無かったのだけれど、一緒に帰った銀杏並木の歩道で散々菜月に説教されたので、これでは明日以降もしつこく付きまとわれる危険性があると判断したわけだ。


「先生ありがとうございます」

「いやいや、別に気にしなくても構わないよ」


美術部の顧問である栄田先生が偶然居合わせていたので、4階まで上がるのをあと二人の名前も知らない先生に手伝ってもらっていた。


「君の描く絵は本当に素晴らしいからね。また書いてもらうことが難しいとは分かっているし、別に描きたくないなら描かなくても良いんだけど」

「いえ、そんな。構いませんよ。絵を描くのは趣味なんで。コンクールに出すのは遠慮したいんですけど」


栄田先生には僕の描いた絵を芸術の授業で見てもらってから、ずっと目をかけてくれている。

初めての美術の授業で出された課題が「自分の思い浮かべるリンゴ」だったので適当に白雪姫がリンゴを食べているシーンを想像しながら水彩画で表現したのだが、「きみなら美術部に入って全国を目指せる!」と説得されて、当時は何もすることも無く帰宅部だったので入部したのだ。


その空気が思いのほか心地よくて、彼女に「いい部活に入れた」なんて──


『キキーッ』『ドシャ』『──めんなさ』


「大丈夫かい綾川君。顔色悪いぞ」

栄田先生が肩を叩いてきて、それで自分がまた酷い顔をしていたことに気づく。

「ああ、いえ。そんなことは無いですよ。先生の気の所為ってやつ」

「……まあ君に色んなことがあったことは知っているし、とやかく口出ししたりはしない。しかし無理はするなよ?」

「分かりました」


無理なんてそんなの、毎日しているに決まっているじゃないか。


そんな言葉は心の奥に押し込めた。


別にコンクールなんかに絵を出品するつもりなんて毛頭ないけど、それでも部活をずっと休んでいたこともあってリハビリを兼ねて絵を描くことにした。


絵の具を適当に絵の具入れから取り出し、パレットに色をぶちまけていく。水で濡らした筆先で一気に欲しい色を取り出す為に二色三色の塊をかき混ぜて一色にしていく。


鉛筆で下書きしてある画用紙に向かって、そのごちゃまぜな色を勝手に押し付けていく。僕は何となくこの絵を描くという作業が他人に無理やり服を着せるような嫌な心地がして、心の底から湧き上がる小さな罪悪感を誤魔化すようにいつも色を塗る前に「失礼」なんて呟いている。


鉛筆の線の上を、何本もの筆が走っていく。今日という一日で1枚絵を完成させるつもりで描いているので、少し休憩するたびに教室の雰囲気が暗く静かに変わっていくのがのんびりと放課後を過ごしているより気に留まった。


四回目の休憩を挟んでから、改めて絵の全体を見ようとして少しバックする。


「──ッ」


『ピーポーパーポー』『急げ!早く搬送先の病院まで』『──なさい』


「なんでこんな絵なんて描いてっ!」


気が付けば左手が絵の具でべっとりとしていた。その感触があまりにもアレにそっくりで、こみ上げてくる吐き気を堪えながら美術室備え付けの流し台で洗い落とす。

ハンカチで後ろを見ると、そこには倒れたスタンドと絵があった。絵の具は幸い床にぶちまけたりはしていないらしい。左手が汚れたのは、右手でスタンドを思い切り突き飛ばした時に左手を机について身体を動かす支えにしたからだろう。色が混在していたパレットには大きな手形が残っている。


別にこんな絵を描くつもりなんて無かったのに、何で描いたんだろう。思い出したくないことを、忘れてしまいたいことを無意識に表現してしまったのは何故だろう。


思考が軋んで嫌な音をたてる。それがまた酷く気持ち悪くていつも通りに思考停止になろうと全然別の事を考え始める。


「やっほー!部活お疲れ様~。絵は結局描いた……みたいだね……」


不意に教室の扉が開いたかと思えば、急に菜月が入って絶句する。そりゃそうだ。左手の絵の具を拭き取る僕と派手に倒れたスタンドを見れば、何かあったのかと誰でも勘ぐるだろう。


「どうしたのこれ?ちょっと後かたづけしないとでしょー」

菜月は一瞬現れた動揺を押し隠して床に転がった絵筆を拾ってくれた。でも、今手伝ってくれるのは違う。


「あの、絵は絶対に見ないで欲しい──失敗した。あまり人には見られたくない」

「え?でも私はちょっと見てみたい気が」

「見るなよ!!」


反射的に怒鳴ってしまって、菜月がビクリと手を引っ込める。

やっぱり僕は嫌なやつだ。怒鳴ってしまってから自分に対する感情でいっぱいになる。頭の中がクラクラする。ちゃんと落ち着いてから言うべきだったのに。


すっかひ怯えた表情になった菜月が、こちらを覗き込んでくる。その顔は銀杏並木で見たそれとは全然違って、何だか見ていたくなかった。


「ごめんね」


その単語だけは聞きたくなくて、思わず顔を背ける。


それから一切口を利かずに散らかった道具を一緒に片付けた。僕は菜月に謝れなくて、菜月もきっと僕に何でもいいから何かを言って欲しかったのだと思う。


でも結局、その日は何も菜月に言えなかった。



やっぱり絵なんて描くんじゃなかった。

その事への後悔が僕のやる気を萎ませて、結局コンクールまで1ヶ月はあった筈なのに、一週間前になった今日まで全く絵に手をつけていない。


1度やり始めたことは出来ればやり遂げたい性分だけど、また彼女の絵を描いてしまうかも知れないと思ってしまうと筆を持てなくなってしまう。そんな微妙な感情を察しているのかどうか分からないけど、栄田先生は「絵をコンクールに出そう」とは言い出さずに見守ってくれているようだ。そしてその事実が申し訳ないと思う気持ちを加速させている。


「ちくしょう……」


弱々しい強がりが潮風に溶け込んで流れていく。銀杏並木のずっと向こうにあるこの海岸はウチの高校指定の通学路から外れている上に段差がほとんど無いので、学校をサボってぼんやり過ごすには丁度いい場所だ。


すっかり秋も終わりごろでもうすぐ冬が訪れようとしている今の潮風は正直寒いが、頭を冷やすにはこれ位が丁度いい。首元のマフラーを巻き直して遠くに少し霞んでいる島々を眺める。一つ一つが地理的に離れていながらも、ゆったりと広がった端が島同士で繋がっているように見える景色に何となくもどかしげな寂しさを感じてしまう。どんなに手を伸ばしても届かない相手にそれでも手を伸ばすのは何故だろう。届かないなら諦めればいいのに。「絶対に諦めない」という決意なんて無意味なのに。それでも諦められないのはどうしようも無く愚かだ。


「ここなら泣いてもいいかな」


思い出すのは辛いけど、忘れたくないなんて思う自分が抑えられないから。こうして独りで思い出す。あの頃のことを。



「ねえねえ、明日はどんなことしよっか?」

「面倒いなー。明日は家でゴロゴロしようよ」

「嫌よ。今週はずっと晴れなんだから遊べるだけ遊ぼうよ」


彼女は──僕が唯一彼女と呼称できる、世間一般の彼氏彼女の関係とは違うけどそれなりの好意を持っていた幼馴染みは──その日も活発でお転婆でどうしようも無く太陽のような輝きを放っていた。世間一般の高校生が遊びに行くようなカラオケやらゲーセンやらそういう一切に興味を持たず、運動能力は無駄に高いくせにスポーツは「ルール覚えるのが苦手」と放り出す彼女は、外で気ままに遊ぶのが好きだった。仲間もいないのに独りで砂場にお城を築いたり、ブランコでどこまで靴を飛ばせるか記録更新を狙ったり。僕がいる時は2人なのにかくれんぼやら鬼ごっこやらを強要したりと実に理不尽で自由奔放な性格だった。


その時は確か春休みが終わってから1ヶ月ほど経った時期の休日で、僕と彼女は家で遊ぶか外で遊ぶか討論した結果、僕が折れて彼女が提案した通りキャッチボールに勤しむこととなった。


彼女が渡してくれたミットが小さくて、左手が窮屈だった。それでも僕は幼い頃から彼女と一緒に遊ぶことで鍛えた器用さで小さいミットを使いこなしていた。


そして一方の彼女は本当に無駄に高い身体能力で速球を遠慮なくミットに叩き込んでくる。


「勢い強すぎだよ、××ちゃん。少しくらい手加減してくれてもいいじゃん」

「フッ。甘いねハル君。私はこれでも手加減しているのだよ」


これが冗談じゃないのがまたタチが悪い。


「こんにゃろー、じゃあ男子高生となった僕の全力を喰らえ!」

「よっしゃ来いやぁぁぁ!」


僕が全力を込めて投げた練習用なの黄色いソフトボールは、指先からすっぽ抜けてテニスコートくらいある大きさの公園から道路に逃走した。


「あーあ、無駄に張り切っちゃうからさー」

「ご、ごめん」

「いいのいいの。私が取りに行くよ」


えーダメだよ。僕が取りに行くよ。なんて言いながら僕はボールを確保しに行く彼女を追いかけた。

歩行者用信号は始め青で、彼女が横断歩道に足を掛けた所で点滅を開始した。これは赤信号になって自分は渡れないかもしれないと焦り、続けて僕も横断歩道に飛び込む。

転げたボールが埋もれた草むら向かって一目散に駆け出そうとして、僕が彼女よりソレに気づいた。


「──××ちゃん!」

「え?」


右側から迫るのは鉄の塊。そうとしか認識出来なかったソレは後から大型トラックだったと判明した。

僕がトラックに気づいた直後から、運転手も僕達に気づいたのか信号がまだ赤であることに気づいたのか、急ブレーキをかけ始める。


『キキーッ』


そこから先の記憶は曖昧で、記憶というより記録だ。目に焼き付いたスローモーションの悲劇。何度でも再生される悪夢。


横から迫る鉄塊を認識して驚いた表情をする彼女。彼女を守ろうとして必死に伸ばされる僕の右手。ブレーキを掛けているにも関わらず速度が落ちないトラック。

『ドンッ』

『グシャッ』

届かなかった右手。ほとんど同時に聞こえた二つの不吉な音。回転する視界。痛みを超えてもはや実感の持てない衝撃。迫る地面。

『ドシャッ』

走る衝撃。体の中で暴れる内臓。動かそうと足掻いても感覚のない両足。諦めて動く両腕で地面に這いつくばって移動する僕。歪む視界の端で赤い液体に沈む彼女。間近にまで迫って息を確認してホッとする僕。僕の存在に気づいて顔を向ける彼女。

彼女の額から溢れ出る赤を見て固まる僕。僕の顔を見て少し安心したような表情をする彼女。


『ごめん、なさ、い』


直後に幼少期に出会ってから初めて泣きそうな顔でそう告げる彼女。ようやくざわめき出す周囲の人々。


『ピーポーピーポー』


鳴り響くサイレン。どよめきながら道を開ける野次馬達。駆けつける救急隊員達。隊員達に覆われて遮られる彼女の姿。立ち上がろうと足掻く僕。


『これはまずい……ストレッチャー早く!』

『止血優先で対応しろ!こっちの少年も不味いぞ!』

『急げ!早く搬送先の病院まで行かないと手遅れになるぞ!』


持ち上げられる体。徐々に暗くなる視界。辛うじて見えた彼女。僕に向かって何かを呟いて微笑む彼女。


そこで記録は途絶える。


病院に搬送されると、僕は緊急手術の果てに神経までグシャグシャに潰れた両足を犠牲にして生き残った。一方の彼女は手術も間に合わず、頭部の重症が原因で命を落とした。僕はそれを知った時に深い後悔を心の底に刻み込まれた。


自分があの時、見栄を張ってボールを投げたりしなければ。あの時の右手で突き飛ばすなり引き寄せるなり出来ていれば。そもそも僕が彼女の案に反対していれば。もっと言えば、僕が彼女と関わりを持とうとしなければ。こんなことにはならなかった。


世の中には事故が、事件が、災害が溢れている。こんな悲劇でさえ世界のどこかで何時でも必ず起きている。ありふれた日常が理不尽な運命にぶち壊されることは当たり前に起きて当たり前にやがて忘れ去られる。何もかも失った当事者にとって、自らの経験した理不尽な出来事の記憶だけが自分の拠り所になる。なってしまう。


風化していく記憶だけが唯一の救いで、導きで、捨てるべき負の感情を生み出す病巣だった。僕は必死に様々な感情に痛めつけられてもあの瞬間をいつまでも保持していようと、何度も何度も何度も定期的に思い返した。やがて精神が疲れて学校を休みがちになっても、事故の記録や記憶を思い返す事が本格的に嫌になってきても、無意識に事故のことを思い返した。どれだけ苦痛でも彼女の最期を忘れたくなかった。


「でも辛いよ──」


本当は忘れたくて仕方ない記憶を無理に思い出すのは限りなく辛くて辛くて先が見えない無間地獄だ。事故のことを初めから詳細に思い出した代償に流れ出した涙が頬を伝う。その感覚さえ自分が今生きていることに対する彼女への罪悪感に繋がってしまう。


仕方ないとはいえ、独りで海岸から遠くを眺めながら突然泣き出す男子高生は見苦しいだろう。涙を首元のマフラーで拭ってから車椅子の車輪を回転させると。


「こんにちは、ハル」


そこには学生鞄にしては大きめの黒いケースを持った菜月がいた。


「……は?どうして…今日は学校あるんじゃ…」

「ついうっかりさぼっちゃったなぁ〜〜、テヘペロ」

「それは流石にあざとい」

「ありゃりゃ」


表面上はいつも通りの軽い調子の会話だけど、中身は違う。声はマイペースでも目が泳いでいる菜月はやっぱり僕と同じく気まずい思いを美術室での一件からずっと引きずっているらしかった。


「えーとね、今日はちょっとちゃんと話したいことがあってきたんだ」

「……話したいこと?」

「そうそう」


話しながら菜月はケースの蓋を開けて中身を取り出す。両手でしっかり掴んで持ち上げたのはなんとトランペットだった。


「え?何でトランペット?」

「これはー、ちょっとこれからする事に関係あってね~。調整は学校出てからすぐにある公園でしておいた」


菜月が吹奏楽部に所属していることは前々から知っていたが、まさか如何にも楽器が錆びてしまいそうな海岸まで練習しに来るとは思わなかった。


「言っておくけど、わざわざ海岸まで来て練習とかじゃないからね。大体トランペットは金属なんだから、錆びるかもしれないじゃん」


僕の考えていることを察したのか、釘を刺す菜月。図星だったので少し肩を竦めた。


「……で、そのトランペットで何する気?」

「それはね、ハルに聞いてほしい曲があるから聞かせに来たんだよ」


両手でトランペットを保持したまま立ち上がり、沖の方を見やる菜月。その顔はいつもの菜月とは違って複雑な感情が混じった中で何かしらの決意を固めた表情をしていて、僕は思わず息を飲んだ。


「私はあの子とは違って、ハルとは幼馴染じゃない。でもハルの親戚とあの子を除けば多分私が1番付き合い長いよね。だから、ハルにとって大事なあの子が事故に会ってからずっと沈んでいた理由とか、だいたい分かってたんだ」


普段のように語尾を伸ばすことなく、恐らくは剥き出しの本心を語るその姿は儚げで少しでも触れば壊れそうな雰囲気をまとっていた。


「周りのみんなはハルの足のことを気にする人が多かったけど、本当に大きな傷には気づけていなかった。カウンセラーの先生にさえ何も言ってないんでしょ?意地張っちゃってさ」


菜月は苦笑いしながらトランペットを持ち直す。


「だから今まで考えてたんだ。ハルが苦しい思いをしながら過去を振り返らなくても良くなる方法。そもそも間違っていると思わない?あの子との思い出は明るくて楽しいものばかりのハズなのに、事故のせいで暗い記憶になっていると思わない?」

「いや、でも」

「そんなの、あの子に失礼じゃん」


僕はそう断言されて驚く。確かに僕が彼女の立場であればどうだっただろう。仮に僕が死んで彼女が生き残ったとして、僕は彼女に自分のことを苦しみながら何度も思い出してほしいのか?僕の事を忘れないようにしようと何度も涙を流す彼女なんて、僕は──絶対に見ていたくない。


「ハルはそこを考えていなかったんだよ。あの子のお葬式はもうしたんでしょ?あのお葬式って行事は、単なる死者との別れってだけじゃないの。もう取り戻せない全てを受け入れながら明日への一歩を踏み出す覚悟を決める場でもあるって、ばあちゃんが言ってた」


受け売りだからあんまり説得力無いかな?なんて笑う菜月に僕は返す言葉も無かった。今までの自分の勘違いが恥ずかしかったからだ。


「だからね、ハル。故人との記憶をいつまでも大切にするのは間違っていない。でも辛い思いを一緒に抱えるのは間違っているよ。あの日描いていた絵はあの子の絵でしょ?別に描いたっていいのに、それを床に突き飛ばした挙句に『失敗した』とか……ダメじゃん」


「おっ、おっしゃる通りです」


「だからね、ハルはきっと受け入れるべきなんだよ。優しい気持ちで悲しい記憶を受け入れて、あの子との思い出は楽しくて明るいものにすべきなんだよ」


ぎゅっと菜月がトランペットをもう1度持ち直して、今度は胸の前に構える。


「日本では故人との別れを悲しみながらお葬式する訳だけど、別にそれだけが故人との別れ方じゃないでしょ?『聖者の行進』っていう曲は知ってる?」

「……ああ」

「アレって、アメリカの一部の民族が故人との別れを明るくしながら送り出すための曲らしいよ。だから、これが相応しいかなって」


トランペットを口に持っていきながら、最後に菜月はこう呟いた。


「私と友達になろうって初めて声を掛けてくれたあの子との別れは、私にとっても辛かったんだよ」


その言葉の真意を問う前に、彼女は演奏を始めた。


明るいそのメロディーは、しかしながらトランペットの独奏というだけあって独特の寂寥感を醸し出していた。でもたった一つの楽器による演奏なのに、その音色はどこまでも消えずに、潮風に溶けることなく、朗々と海の上を流れて更にその先のどこかまで届いている様な気がした。


不意に、彼女との約束を思い出す。


『あのね、ハル君』

『どうしたの。急に改まって』

『もし私と一緒に居られなくなっても、悲しんだりしないでね』

『え?それって引越しとかそういう?』

『ううん。でも人生ってさ、いつどんな事が起きるか分からないじゃん?今のうちにこういうことは言っておきたくて。だって私は……ハル君が悲しむ所なんて見たくないもの』

『え?本当?』

『ほ、本当よ!ともかくこの約束だけは、どんなに辛いことがあっても忘れちゃダメだよ』


「バカだろ、僕は」


今になって思い出すなんて酷すぎる。まったく自分はダメ人間にも程があるというものだ。

彼女のことを、はーちゃんのことを思い出しても笑えている僕自身に驚きながら、また流れ出した涙をマフラーで拭う。


辛い記憶はトランペットの葬送曲に乗って、遥か遠くに流れていった。

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