夏と花火と恋ごころ
夏休みは好きじゃない。
ただ蒸し暑いばっかりで楽しいことなんてなんにもないから。
パパとママは共働きで毎日いないし、セミは朝からうるさいし、宿題はバカみたいに多い。たった一ヶ月とちょっとのあいだ学校が休みだからって、こんなに宿題があっていいものだろうか。ドリルだけならまだしも、わけのわからない絵画や作文もついてくるからたちが悪い。毎年毎年この宿題の山にうんざりする。こんななら普通に学校へ行っていたほうがましだ。
「よお、かごめ」
ノックもなしに突然乙女の部屋にずかずかと入ってくる下品な男子が一人。こんがり日焼けした肌に真っ白いタンクトップがお似合いの、ザ・サマーボーイ。
わたしはそいつの顔を横目でちらりと見やってから、読書感想文を書くために読んでいたつまらない小説をベッドの上に放り投げる。
「ノックしないで女の子の部屋に入ってくるなんて最低だよ、新太郎。他の女子なら憤死しかねないね」
「他の女子ならな。おまえは平気だろ、俺にそんな格好を見られてもなんともないんだから」
ふん、と鼻を鳴らす。そうね、よくわかってるじゃない。
ほぼ下着のキャミソールに、生足丸出しのハーフパンツ。そんな姿でごろごろしているところを見られても平気な女子と、それを見ても顔色ひとつ変えない男子。お互いに問題があるとは思うけど、まあ、わたしたちならこんなものだ。
新太郎とわたしは0歳からの幼なじみだ。そんな物心つく前からきょうだいのように過ごしているせいで、中学生になった今でもこんな状態が続いている。小学校低学年まではよく二人一緒にお風呂に入っていたっけ。もちろん素っ裸で。さすがにそれを今やるにはちょっと、いや、かなり抵抗があるけれど、こうして油断した姿を見せるくらいなら全然余裕。新太郎もわたしにパンツ一丁の姿を見られたくらいじゃうろたえなさそうだ。思春期真っ盛りの男女なら、誰が誰を好きだとか付き合っただとか浮いた話が少なからず出てくると思うのだけど、わたしたちには一切ない。たぶん、お互いこういうところがあるからだと思う。新太郎がどう思っているかは知らないけど、まあ、わたしは新太郎といると落ち着くから問題ない。恋とか愛とか、わたしたちにはまだ早いんじゃないかな。
「それより、ねえ新太郎。なにかおもしろいことない? わたし、もう夏休みに飽きちゃった」
「飽きたっておまえ、夏休みが始まってまだ一週間もたってないだろ。今だって宿題やってたんじゃないのかよ」
新太郎が目を細める。うん、やってたよ。やってたけど、もうそういう気分じゃないの。べーっと舌を出して見せる。
「だってさ、ずーっと家の中にこもりっきりなんだよ。どこか出掛ける予定があるならそれまでに宿題終わらせようって思えるけど、なあんにも予定がないんだもん。そりゃあやる気もなくなるよ」
「そうか? 俺は、宿題は休み前半のうちに終わらせたいと思うけどな。そうすれば夏休みを満喫できるぜ」
「だから、満喫できるような予定がないの。知ってるでしょ、うちはパパもママも毎日仕事でいないのよ。あーあ、夏休みってホントつまんない」
ベッドに上半身を投げ出して大きなため息を吐き出す。そんなわたしの姿を見ると、隣に座ってきた新太郎は、ふーんと鼻を鳴らした。
「じゃあどこか行くか」
「どこかって、どこよ」
「どこでもいいだろ。かごめが行きたい場所に行けばいい。俺が付き合ってやるから、な?」
「新太郎があ?」
「なんだよ、不満なのか」
「べっつにい」
そんなに言うなら、行ってあげてもいいけど。
とりあえず頭の中で行きたい場所を思い浮かべてみる。とはいえそんなすぐには思い浮かばない。強いて言えば南の島で青い海を思う存分泳いでみたいけど、中学生二人だけではそんなことができるわけないし。だからって近場にショッピングに行くくらいじゃつまらない。
考えあぐねていると、新太郎が言う。
「せっかくだし夏らしいことしようぜ」
「夏らしいことって、例えば?」
「バーベキューとか海水浴とか」
「できるわけないじゃん、わたしたち二人だけで」
そりゃあ、できたらすごく楽しそうだけど。
新太郎はさらに腕を組んで考える。
「夏と言えば、海、山、川……」
「どれも中学生だけで行くのは好ましくないね」
「変なところで真面目だな、おまえ」
「あとで怒られるのやだもん」
中学生らしく健全に過ごそう、なんて優等生みたいなことを言うつもりはちっともないけれど、夏休み中の不祥事は親だけじゃなく先生も出てくるだろうから面倒だ。そんなことになったら、遊んでいる最中は楽しくたって後味が悪すぎる。だったらいい子に過ごしていたほうがらくだ。
二人であれこれ考えていたときだった。
「あとは、そうだな」
腕を組んだ新太郎は一呼吸置いてから、
「花火は、どうかな」
その一言に、わたしは目を大きく見開いた。
「花火! それいいね!」
ぱちんと手を合わせる。新太郎はそんなわたしを見てほっとした顔をした。それから、にかっと白い歯を見せる。
「お、乗ってきたな。よし、明日隣町で花火大会があるから、それに行くか」
「賛成、行こう行こう! あー、楽しみ! 新太郎、たまにはいいこと言うねっ。やるじゃん」
うりゃ、と肩をつつくと、新太郎は照れくさそうに笑った。
花火なんていつぶりだろう。つまらないと思っていた夏休みが、少しだけ楽しくなってきた。
◇ ◆ ◇
自分の浴衣姿を鏡に何度も映して眺めた。今まで着ていた浴衣は橙がベースになっていて、色も柄も少し子どもっぽかった。今年は花火大会に行けるからと、昨日パパにおねだりして白地に朝顔の紫が映える素敵な浴衣を買ってもらった。自分で言うのもなんだけど、これがとってもよく似合う。前までは派手なものほどかわいいと思っていたけど、最近はこういったシンプルなもののよさがわかるようになってきた。大人に近づいてきた証拠だ。もちろん浴衣だけでなく髪型やお化粧にも力を入れた。少しだけ香水もつけてみた。この姿、新太郎は褒めてくれるだろうか。
外に出て新太郎を待つ。花火大会は19時から始まる予定だ。昨日、18時にわたしの家の前に集合しようと約束をした。……ところが、新太郎はなかなか来ない。何度も腕時計とにらめっこをした。電話をかけてみても話し中で繋がらない。待ち合わせの時間を30分過ぎたところで、ようやく新太郎がやってきた。息を切らし、額に汗を滲ませている。
「かごめ、お待たせっ」
「もう、遅いよ、新太郎。なにやってたのよ」
「ごめん、その、ちょっと電話してて」
わたしは頬を膨らませる。遅れたことに対して気まずさを感じているのか、新太郎はまったく目を合わせてくれない。きょろきょろと目を泳がせて、こっちを全然見ない。変なヤツだ。
「ねえ、どう、この浴衣」
いくら待ってもまったく見てくれないから、自分から話題を振ってみる。だけど新太郎はやっぱりちらりとこっちを見ただけで、すぐに目をそらした。
「あー、うん、似合ってるんじゃないか」
「なにそれ、もうちょっと感想ないの?」
「だから、似合ってるって」
「もう、ちゃんと見てよ」
言っても、新太郎は後ろ頭を掻いて、こっちを見ない。ふんだ、もういいもん。せっかく気合いを入れてがんばったのに。もっと褒めてくれると思っていたから残念だ。
「時間がないな。かごめ、走れるか」
今はとにかく会場まで急ごうということになり、小走りで向かう。浴衣と下駄って、なんでこんなに走りにくいんだろう。最初のうちはよかったのだけど、だんだんと足が痛くなってきた。履き慣れない下駄のせいだ。鼻緒が擦れているところがじんじんする。
「かごめ、大丈夫か?」
前を行く新太郎がこちらを振り返る。わたしの走るスピードがだんだん遅くなっていることに気づいたのだろう。わたしは必死にうなずいた。痛いけど、せっかくの花火を見られなくなるのは嫌だ。
「大丈夫。浴衣が歩きにくいだけだから気にしないで」
そう言うと、新太郎はなにか言いたげな顔をしてから、なにも言わないまま、また前を向いた。
祭囃子が聞こえてきて、人もかなり増えてきた。そこから走るのをやめて歩くことにした。だけど、ちょっとでも油断すればはぐれてしまいそうになる。必死に後ろをついていくけど、足が痛くてうまく歩けない。
そのときだった。ふいに足もとになにかがどんとぶつかった。小さな子どもがよそ見をしていたらしかった。同時に、その子が手に持っていたかき氷がわたしの浴衣にぴしゃりと跳ねる。一瞬の出来事で、避けられるわけがなかった。みるみるまに浴衣の白に青が滲んでいく。
「え、あ、うそ、浴衣が……!」
じわりと脚に冷たさが伝わる。どうしよう、せっかくの新しい浴衣がしみになってしまう。
「ねえ、新太郎、ちょっと待……」
顔を上げたときには、すでに新太郎の姿は見えなくなっていた。あたりを見まわしても、あまりの人混みに新太郎を見つけることはできない。
まずい、はぐれてしまった。急いで探さないと。
焦りつつ浴衣の裾を持ち上げながら一歩踏み出す。その瞬間、ぷちんという音が足もとから聞こえた。鼻緒が切れたのだ。
最悪だ。これじゃあ歩くこともできない。
は、と息を吐く。それからくちびるを噛み締めた。泣きたい気持ちを抑え、そのまま踵を返して人の流れとは逆方向に一人とぼとぼと歩きだす。
「あれ、かごめ?」
下を向き、足を引きずりながら来た道を戻っていると、突然誰かに名前を呼ばれる。はっと顔を上げると、そこには同じクラスの友達がいた。
「かごめも来てたんだ。一人?」
「ああ……ううん、新太郎と来てたんだけど、さっきはぐれちゃって」
「え、新太郎? それならさっき見たけど」
「本当っ!?」
どこにいたのか聞こうとすると、友達は気まずそうな顔で言う。
「でも新太郎、隣のクラスの女子と腕を組んで歩いてたよ」
え、と声が漏れた。呆然とするわたしに友達は「一応あっちのほうにいたけど」と言い残し、手を振って去っていった。
隣のクラスの女子といたってどういうこと。新太郎はわたしと一緒に来ていたんじゃないの。もしかして、うちに来る前に電話していた人って、その子だろうか。最初からこっちで待ち合わせるつもりでいたのかもしれない。そっか、新太郎はわたしのためにここに来たんじゃなかったんだ。……もう、いいや。
会場から少し離れたところに小さな神社を見つけ、そこの石段に座り込む。灯篭の灯りで足もとを見ると、浴衣の裾は青く染まり、指は靴擦れを起こして真っ赤になっていた。そっと触れただけで激痛が走る。もう歩けそうもない。
「なんでこうなっちゃうのかな……」
ぼそりと呟いたそのとき、どおんと大きな音が夜空に響いた。花火が始まったのだ。
わたしは膝を抱えて丸くなった。もう、なんなんだろう。足は痛いし、浴衣は汚れるし、花火は始まっちゃうし。新太郎までいなくなっちゃって。今日の花火大会、本当に楽しみにしていたんだ。なんにも予定のないわたしの夏休みが、今年は楽しい思い出を作れると思っていたから。でも、どうしてわたしは今、こんな悲しい気持ちでいるんだろう。
ほらね、やっぱり夏休みなんていいことないや。
「……新太郎のバカ」
一緒に見るはずだった花火が遠くで鳴るたび、胸をぎゅっと締めつける。苦しくて、切なくて、涙が出そうになる。
なんでこんなに苦しく思うのだろう。新太郎に置いていかれたから? 楽しみにしていた花火を見られなかったから?
……ううん、きっとどれも違う。
あーあ、やだなあ。こんな想い、気づかなきゃよかった。気づきたくなんてなかったよ。
……だって、わたし、新太郎のこと――。
「――かごめ!」
はっと顔を上げる。新太郎の声だ。
裸足のまま立ち上がる。わたしの名前を叫びながら歩道を走る新太郎が見えた。
「新太郎っ!」
答えるように名前を呼ぶ。新太郎はこちらに気がつき立ち止まった。肩で大きく息をしている。お互いに離れた距離で見つめ合う。それからすぐ、新太郎は頭をがしがしと掻きむしると、石段を駆け足で上ってきた。
目の前にやってきた新太郎はひどく汗だくだった。針のように細くまとまった髪から、ぽたりと汗が滴っている。
わたしの姿を見た新太郎は安心したように大きく息を吐いた。
「かごめ、おまえなあ……」
「あ、あのね、新太郎、わたし」
「このバカっ!」
びくっと肩を揺らす。突然の大声に心臓が大きく飛び跳ねた。
「なにやってんだ! どうしてこんなところにいるんだよ! こっちは見失ったと思って必死に探したんだぞ! どれだけ心配したと思ってんだ!」
新太郎は眉をつり上げて、とても怖い顔をしていた。わたしはあまりに驚いてなにも言えなかった。だってこんなに怒った新太郎の顔なんて初めて見たから。
意を決して、おそるおそる口を開く。
「新太郎、怒ってる……」
「当たり前だ、怒るに決まってる! 一緒に花火見るって約束したのに勝手にいなくなって……いや、見失った俺も悪い、それはごめん。でもおまえ、なんにも言わないで帰るなんてひどいだろ。俺はおまえと花火を見るのを楽しみに、」
「楽しみにしてくれてたの?」
話を遮ってそう問うと、さっきまで怒っていた新太郎は目を丸くさせたあと、口をもごもごさせた。
「そ、そりゃあ、楽しみにしてたよ。かごめと一緒に花火大会なんて来られないと思ってたし。誘ったときだって、どうせ断られると思ってたから」
わたしは体の横で拳を握りしめた。くちびるを噛み締め、首を横に振る。
「うそ、楽しみになんてしてなかったくせに。いいよ、そういうのいらない。どうせわたしのことはついでだったんでしょ。わたし知ってるんだから」
「はあ? なに言ってんだ。俺は最初からかごめと……」
「うそつかないでよ! 他の女の子と歩いてたくせに!」
急な大声に新太郎の肩がぴくりと揺れたのがわかった。自分で叫んだ言葉が頭の中をぐるぐるする。考えたくないのに、わたし以外の女の子と嬉しそうに手を繋ぐ新太郎の姿が頭に浮かぶ。きっとさっきまでそうしていた新太郎の姿が。
「……友達が言ってた。新太郎と隣のクラスの子が腕を組んで歩いてたって」
声が震える。手も震える。必死に平気を装っても、きっと新太郎には気づかれている。
うらめしい目で顔を見る。新太郎は気まずそうな表情でわたしから目をそらすと、「あー」と声を漏らし首の後ろを掻いた。ほらね、ビンゴ。最悪だ。
「その子と待ち合わせしてたんでしょ。最初からわたしのことはついでだった。わかってるよ、もう。だからもういい。わたしは帰る。新太郎は戻ってその子とデートしたら」
手に鼻緒の切れた下駄をぶら下げ、新太郎の横を通り過ぎる。瞬間、手首を強い力で掴まれた。
「待てよ」
「待たない」
「待てって」
「離してよ!」
振り解こうとして腕を大きく振る。勢いで指から抜けた下駄が石段に叩きつけられた。からころと高い音を立てながら転がっていく。
「もう構わないでよ、これ以上傷つきたくないの!」
「落ち着けって。全部かごめの勘違いだ」
「なにが勘違いだって言うの!?」
ああ、もうだめだ。ずっと我慢していた涙がいっきに溢れ出す。
「新太郎だっていい加減わたしに飽き飽きしてるでしょ。もう優しくしてくれなくていいよ。彼女でもなんでもないのに当然な顔で隣にいて、わたし以外の子と話しただけで嫉妬しちゃって。面倒だよね、わたしって。バカみたい。ほんと、バカ。ねえ、もうわかったでしょ。わたし、新太郎が好き。好きなの、大好き。笑っていいよ。迷惑だって罵ってよ。わたしだって自分でわかってる。でもどうにもならないの。だって気づいちゃったんだもん、新太郎への気持ち。遅すぎるよね。わたしだってこんな苦しいなら気づきたくなかったよ。新太郎の恋を応援してあげたかった。だけどできない。新太郎が他の子と幸せそうに笑ってる姿なんて見てられないの。それなら距離を置くしかないじゃない。もう今までどおりなんて無理だよ。だから放っておいて、わたしに構わないで。じゃないとわたし、きっとまた新太郎のこと――」
話を遮るように、新太郎が突然わたしの腕を引っ張った。よろけた先には新太郎の胸があって、あっという間に抱き締められる。
汗と、ほんのり甘い柔軟剤の香りが、夏の夜の蒸し暑さに溶けて、頭をくらくらさせる。
「かごめってさ、こんなに小さかったっけ」
耳もとで聞こえる低い声にはっとする。
な、なに、なんなのこの状況。なんで抱き締められてるの、わたし。わけわかんない。
胸の中から出ようと必死にもがく。
「新太郎の身長が伸びただけでしょっ」
「そうかなあ。少し前まではかごめのがでかかったのにな。やっぱり男と女じゃ違うんだな」
「そんなの知らない、離してよ、離してっ」
「嫌だ」
「意味わかんない、新太郎のバカ、バカバカバカっ」
「かごめのがバカだよ」
いっそう強く抱き締められる。苦しい。なのに新太郎の匂いに包まれているのが幸せで、ずっとこのままでいたい気持ちになる。離れたいのに、離れたくない。夏の暑さに当てられて、わたし、どうかしちゃったみたい。
新太郎はやれやれとひとつ溜め息を吐いた。
「かごめ、勘違いしすぎ。俺がかごめとはぐれてから違う女子といたのは確かだけど、それはたまたま会っただけだ。待ち合わせに遅れたのも、そいつから電話がかかってきたから。一緒に花火大会に行こうって誘われたんだ。だけど俺はかごめと行きたいから断った。それで、かごめを見失って探してるときに偶然会って、一緒に行動しようってまた誘われたんだよ。そのとき向こうから無理矢理腕を組んできた。きっとそれを見られてたんだな。でも俺はかごめが大切だから。また断ってすぐにかごめを探したんだ。そうしたらこんなところにいた」
なのに帰るなんてひでーよなあ、と新太郎が言う。
涙が次々溢れてくる。ああ、もう。わたし、なにやってるんだろ。一人で勝手に騒いで、勘違いして、本当にバカみたいだ。
「俺は最初からかごめと花火を見たかった。本当に楽しみにしてたんだぜ。信じてくれるか?」
新太郎の胸の中で小さくうなずく。新太郎は「よかった」と呟いて、わたしを抱き締める腕をそっと離した。
目が合ってすぐ、新太郎は、ふはっ、と吹き出す。
「顔、すげえことになってるぞ」
いつのまにか涙だけでなく汗と鼻水も流れるように出てきて、顔中ぐしょぐしょに濡れていた。褒めてもらおうとがんばったお化粧もきっと全部落ちている。だけど、そんなこと、もうどうだっていい。今は泣くことだけで精一杯だ。そんなわたしを見て、新太郎は自分のシャツの裾でわたしの顔を拭ってくれる。
「うー、シャツびしょびしょなんだけど……」
「はは。すげえ走ったからな。汗だ汗」
やだ汚い、と言うと、新太郎はけらけらと笑う。その顔を見たら、なんだかほっとして、わたしも泣き笑いみたくなった。
「やっと笑った顔が見られた」
新太郎はわたしの頭をぽんと撫でる。
「もう離れるなよ」
優しい声。胸がきゅうっと締めつけられる。
ドキドキする。甘くて、酸っぱくて、実ったばかりの果実みたいな想いに、胸の鼓動が速くなる。
わたしは新太郎の目をまっすぐに見つめて言った。
「もう離さないで」
「……かごめ?」
「わたしの隣にいるのは新太郎じゃなきゃ、嫌。だからもうわたしのことを離さないで」
自然と素直な言葉が出てくる。最初からこう言っていればよかったんだ。恥ずかしがっていたら、本当の気持ちを伝えることはできない。
わたしの本音に、新太郎は少しだけ驚いた顔を見せてから、すぐにいつもの表情で「おう」と返事をして白い歯を見せた。
転がっていった下駄が、石段の下のほうでじっと佇んでいる。それを見つけた新太郎が走って取りに行ってくれる。手に取ると、まじまじと下駄を見つめた。
「ああ、鼻緒が切れたのか。だから変な歩き方してたんだな。まったく、痛いなら痛いって言えよ。かごめはいつも意地張るんだから」
むう、とくちびるをとがらせる。
「だって急がないと花火見られないと思ったから。そもそも待ち合わせの時間に遅れてきた新太郎が悪いんじゃない」
「そりゃそうだ。本当に悪かった」
下駄を手にして戻ってくると、新太郎は突然わたしの前に背中を見せて屈み込んだ。急になんだろう。ぼーっと立っているわたしを振り返り、新太郎は目を細める。
「なにしてんだ、早く乗れよ」
「え……ええっ?」
新太郎が背中を指し、あごをしゃくる。おんぶしてやると言いたいのだろう。……って、いやいやいや。わたしは慌てて首を振る。
「や、で、でもわたし重いし、浴衣着てるし、それに」
「いいから早く。裸足じゃ歩けないし、足も怪我してるんだろ」
「う、そ、そうだけど」
「なら早く。ほら」
ごにょごにょと言い訳しても、新太郎は屈んだままわたしがおぶさるのを待っている。この年でおんぶされるのって、かなり抵抗がある。誰かに見られたらどうするのだろうと思うし、なにより、その、密着するし。
「重いけど、いいの」
「いいよ」
「その、胸とか当たるけど、いいの」
「まな板のくせになに言ってんだ」
後ろから蹴りを入れてやる。新太郎はよろけながらもまだわたしを待って屈んでくれている。
わたしはくちびるを引き結んだ。
恥ずかしいけど、本当はちょっと嬉しかった。
ゆっくり新太郎に体を預ける。細いと思っていた新太郎の体は意外とがっしりしていて、背中もとっても広かった。なんだか男の人って感じだ。大人みたいだと思った。いつの間にこんなに大きくなっていたのだろう。絶対重いはずなのに顔色ひとつ変えないでどんどん歩いていく新太郎がかっこよく見えた。
見るはずだった花火の音を聞きながら帰っていく。
「かごめ、帰ったら俺んちで花火しようぜ」
突然の提案に、わたしは目を丸くする。
「え、いいの?」
「おう。結局花火見られなかったしな。打ち上げじゃないけど、手持ちのやつならいくつかあるんだ。かごめ、線香花火好きだろ」
そう言われ、昔よく二人で線香花火の火玉の長持ち競争をしていたことを思い出す。いつもわたしが勝ってばかりで、新太郎はくちびるをとがらせていたけれど。
「今日は負けねえぞ」
「今日もわたしが勝つよ」
「それはどうかな。昔の俺とは違うんだぜ」
二人でひとしきり笑い合う。昔からこうしてくだらない会話で新太郎と笑い合うのが好きだった。幼い頃からなにも変わらずこうしていちばん近くにいられることがこんなに幸せだなんて初めて知った。もしかしたら、明日新太郎に彼女ができるかもしれない。そうなれば、いつも優しくしてくれる新太郎も、もう一緒にはいてくれなくなる。きっと今わたしが隣にいられるのも、新太郎の優しさだから。
「ねえ、新太郎」
「なんだ」
「あのね。……いつもありがと」
首に回す腕を、少しだけ強める。
感謝なんてわたしらしくないけれど、今はちゃんと気持ちを伝えておきたい。
……もちろん新太郎は、そんなわたしを訝しく思ったみたいだけれど。肩越しにちらちらとこちらをうかがいながら眉根にしわを寄せている。
「おいおい、いきなりどうした。今日のかごめ、なんだか変だな。急にしおらしくなったりして。いつもの生意気なおまえはどこに行った?」
「な、生意気って失礼じゃない。べつにいつもと変わらないでしょ。ただお礼を言っただけで」
「いいや違う、全然違う。……わかった、あれだろ。俺のことが好きだから、こうやってくっついてるのが恥ずかしいんだろ」
「はあっ? なに言ってんの、バッカじゃない?」
「違うのか?」
ち、違わない、けれど。
ああ、ここまできてまだ素直になりきれない自分がうらめしい。好きってはっきり言っちゃえば、もっとちゃんと気持ちが伝わるはずなのに。
「まったく、昔からかごめは意地っ張りだよなあ。かわいくねえの」
「……どういう意味よ」
「俺のこと好きなんだろって言ってんの」
新太郎はふふんと鼻を鳴らす。なによ、余裕ぶっちゃって。新太郎だってそういうところあるよね。だからこっちも素直になれないのよ。
腹が立って、首に回す腕にぎゅうっと力を込める。
「わ、ちょ、苦しい、かごめっ」
「ふーんだ、なによ、わたしの気持ちばっかり知っちゃって。そうよ、新太郎のことが好き。ほら、女子から好きだって言ってるんだから、そっちもきちんと気持ち聞かせてくれたっていいんじゃないのっ」
言いたいことを言ってから腕の力を弱めてやる。新太郎がけほけほと咳き込む。
気持ちを聞かせろなんて、ただの強がりで言ったつもりだった。だけど新太郎は急にまじめな声で、
「言わなきゃわかんねえ? 俺は、ずっとかごめのことが好きだった。かごめが自分の気持ちに気がつくもっと前からずっと」
どきりとした。ちょっと待って。思ってもみなかった言葉に、自分の耳を疑ってしまう。今、好きって言ったの? わたしのことを?
「幼なじみってさ、心の距離が近すぎて、逆にお互いの気持ちが見えなくなるんだよな」
新太郎は、ふっと息を吐いた。それから明るい声で言う。
「だから、やっと気持ち伝えられてほっとしてる」
「で、でも、そんなこと今までちっとも」
「言えるわけないだろ。かごめは俺のことなんてどうとも思ってないそぶりだったし」
それは、そうだけど。だってそばにいるのが当たり前だと思ってたし。無意識に自分のものだって思ってたっていうか。
「キャミソールとハーフパンツの格好を堂々と見せられるくらいだから、なんの興味も持たれてないと思ってた」
「え、あ、それは」
「実際そうだったろ。俺が他の誰かにとられると思ってやっと自分の気持ちに気づいたわけだし」
顔が赤く染まっていくのがわかる。そうか、わたし、今までずっと好きな人に無防備な姿を見せてたんだ。めちゃくちゃ恥ずかしいじゃん。今になって気づくなんて、わたしのバカ。
「なんで言ってくれなかったの」
「当たり前だろ。あんな格好、そこらの男なら見られないぞ。いくらまな板だって俺にとってはご褒美だ」
「新太郎、最低」
「はは、今さらだな。気づくのが遅すぎるかごめが悪い」
そう言って笑う新太郎に、わたしはなにも言い返せなかった。新太郎の背中で、がくりとうなだれる。
「あ、でも見た目より胸はあるな。今背中に当たって、」
「降ろせ!」
「褒めてんだって」
慌てて体を起こして叫ぶけど、新太郎はわたしを降ろしてはくれず、けらけらと笑いながらどんどん歩いていく。
「ま、俺はどんなかごめも好きだぜ」
「……新太郎、今それ言うのはずるくない?」
「そうか? あ、あと、さっきは照れくさくて言えなかったけど、浴衣すっげえかわいい。惚れ直した」
う、と言葉に詰まる。やっぱりずるいなあ。どう言えばわたしが黙るのか知ってるんだから。きっと気持ちを聞かなきゃうずうずするのに、はっきり好きだと言われれば、なんだか恥ずかしくて仕方がない。今朝まで普通に過ごしていたのに、急に心の距離が近づいた気がしてそわそわする。
「とりあえず、両想いってことがわかっただけで今日の花火大会は来たかいがあったな」
「でも花火は見たかった。夏の思い出作りたかった」
「だから今から花火しようって。思い出だってこれからたくさん作っていけるだろ。夏だけじゃなく、春も秋も冬だって。俺ら、いつまでも一緒なんだからさ」
そう言われて、はっとする。
そうか、わたしたち、これからもずっと一緒にいられるんだ。今までぼんやりと過ごしてきたけれど、これからは違う。堂々と新太郎の隣にいていいんだ。幼なじみとして、それから、彼女として。
「じゃあ今年の夏は大きいプールに行こうよっ。それから動物園に行って、水族館に行って……映画も観に行きたいなあ。ふふ、楽しみ!」
「行くのはいいけどさ、思い出作りだけじゃなくて宿題もちゃんとしろよ。あとで見せてなんて言うなよな」
「む、わ、わかってるもん」
慌てた返事に、いつもの笑い声。
思っていたよりも広い背中に耳を押し当ててみる。とくん、と鼓動が聞こえてきた。じっとりと湿る肌と肌が触れ合う。今年の夏のいちばんの思い出は、きっと今この瞬間だ。やっと気づいた恋ごころが、小さな胸の中で花火みたいに小さくぱちぱちと音を立てはじめた。
蒸し暑いけど、宿題もバカみたいに多いけど、夏休みも案外悪くない。
終