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        11.52時間前


 もうすぐ、夕方五時になろうとしていた。

 あれから一旦、『す』──杉浦梨花のマンションを監視しにいったのだが、なんの動きもなさそうだったので、三時ごろには事務所に戻っていた。

 それからしばらく、これからの調査戦略を練ろうと頑張っていたが、集中力が持続できなくなり、ソファでくつろぎはじめたところだった。

 電話のベルが鳴った。

 流介は、携帯を持っていない。ここの固定電話という意味だ。

 人々は、携帯電話の怖さを知らない。

 GPSで場所は特定されるし、通話記録も残る。諸説では、携帯の盗聴は非常に困難で、ほぼ不可能とされているようだが、それはもう大むかしの話だ。流介が現役のころでも、すでに技術は進んでいた。最新のテクノロジーをもってすれば、普通に傍受されてしまうだろう。

 捜査機関がその気になれば、携帯から、その人の個人情報や思想──どんな犯罪に身を染めているかがわかってしまう。

 かつて向こう側の人間だからこそ、こっちに堕ちてから、その諸刃の剣ぶりがよくわかる。便利なものこそ、注意が必要だ。

 ベルは、長く鳴りつづけていた。すぐに取らないのは、ソファから立ち上がりたくなかったからだ。

 受話器を上げても、こちらからしゃべりかけることはない。

『いるなら、はやく出ろよ、ヤク中野郎!』

 犬飼が、苛立ちを遠慮なしにぶつけてきた。

「考え事をしてたんだ」

 半分、本当で、半分、嘘だ。

『調べといてやったぜ』

「で?」

 事務所へ帰ってすぐ、犬飼に連絡を取っていた。

 合法ハーブ店『ジュディ』へ行った報告と、そこで仕入れた、とあるクラブでおこなわれるパーティの話。

 それにともなって、新庄興業が裏で関わっているクラブの名前と場所を調べてもらったのだ。

『フェニックスって名前だ。ハーブ店や新庄興業からも近い場所にある』

「新庄興業のバックは?」

『そのまんまだよ。新庄会だ」

「新庄会?」

『てめえが知らなくてムリはねえ。ここ数年で急激に台頭してきた新興勢力だ。大手の傘下じゃねえ。たぶん、ヤクの売りで相当稼いでる』

「《白い蠍》のようなものか?」

『いや、あんなに洗練されてねえ。あくまでも暴力団だ』

「どうして、最初になにも言わなかった? おまえ、いろいろと知ってただろ?」

 昼の電話では、あまり突っ込んだやり取りはしなかったが、いい機会だから、いまやっておく。

「『あいつら』のこともそうだ」

『あいつら? なんのことだ?』

「とぼけるな」

『なんのことを言ってるのかわからんが、俺は知らん』

 声の様子からは、嘘を言っているとも思えなかった。演技だとしたら、そっちでも食っていける。

 だとしたら、どういうことになる?

 意図的に、新庄興業をさぐらせたわけではないのか?

「おまえ、いまどこの部署だ? なにを追ってる?」

 どうも犬飼が、新庄興業やアルバトロスにからんだ麻薬流通を追っているのではない……そう考えはじめていた。

『忙しいから、もう切るぞ──ガチャ』

 あきらかな嘘だ。都合が悪くなったから、切ったとしか思えなかった。腑に落ちないことだらけだが、とにかくクラブのことはわかった。

 開店は、もう少し先だろう。それに、アンダーグラウンドな人間が動きだすのは、もっと遅い時間のはずだ。九時ごろに入店すればいいだろう。

 ここを八時すぎに出れば、ちょうどいい。

 三時間ほど、さらにあきができたことになる。

『し』か『す』の調査を進めることもできるし、そのまま今後の方針を練ることについやしてもいい。

 気分を変えるために、テレビのスイッチを入れようとした。

 また、電話が鳴った。

 犬飼かもしれなかったので、今度は早めに出ておいた。

『リュウさんか? オレだ』

 よく知っている声だった。やや甲高い女性のような声。嫌いではない。

「秋山……」

『仕掛けられるぞ。気をつけろ』

 それだけを伝えると、通話は切られた。

 仕掛けられている……なにが?

 最初に疑ったのは、盗聴器だ。しかし、だとしたら、電話で知らせるようなことではない。秋山が直接ここへ来ることはないだろうが、べつの手段で知らせてくるはずだ。

 秋山との関係は、もう五年ほどになる。

 不祥事で麻取をクビになり、一年ほどブラブラしたあと、この探偵事務所を開いた。そのころからの付き合いだ。

 流介は、彼のことを情報屋として使わせてもらっている。にもかかわらず、彼からは、なんの報酬も求められたことはない。

 職業は、ルポライターかなにかだろう。

 あまり、おたがいのことは詮索し合わない。いや、もう少し秋山の素性については、さぐりをいれるべきなのかもしれない。どうしてこんなにまで彼を信頼しているのか、自分でも疑問に思う。

 なぜなら、彼には一度も会ったことがないからだ。

 連絡は電話だけ。出会い(?)から、そうだった。

 探偵になった最初の依頼で、覚醒剤使用で逮捕経験のある元受刑者の、現在の素行を調べていたときだった。突然、ヤツからタレコミの電話があった。調査対象の男は、いまでもやってるぞ──と。その情報をもとに、元受刑者がいまでも薬物に染まっている証拠を得ることができ、最初の依頼を無事成功させることがきた。

 依頼主である元受刑者の母親に調査結果を報告したときのことは、いまでも忘れられない。感謝はされたが、息子がまだやっているという絶望感をにじませた顔。

 第二の人生のスタートは、苦くも、充実感のあるものだった。

 それ以来、ことあるごとに、ヤツは情報をもたらしてくれた。そのうちに、すっかり信頼をおいてしまった。

 信用のしすぎは、危険かもしれない。

 が、それを疑う材料は、いまのところなにもない。

 ならば、素直に言葉を受け取ったほうが賢明だ。

 ということは……。

 流介は、事務所内をさぐってみた。

 簡単には、みつからなかった。

 ここは、泳がされるのも一興かもしれない──流介は、そう考えた。

 いったいだれが、なにを企んでいるというのか。そういえば、三時ごろ──ここへ帰ってきたときに、電話がかかってきた。まちがい電話だと思ったのだが、いま振り返ってみれば、声の様子はどこかおかしかった。それが関係しているのかどうかわからないが、いろいろと警戒する必要がありそうだ。

 結局なにもせず、事務所で時間を潰したあと、予定通り流介は渋谷へ向かった。



 クラブ『フェニックス』。

 なるほど、合法ハーブ店『ジュディ』と似たようなネーミングセンスでつけられたものだ。経営者は、おそらく同じ。

『ジュディ・ガーランド』

 フェニックスは、『リバー・フェニックス』からつけられたのだろう。

 ジュディのほうは、大むかしのハリウッド女優であり、子役時代から覚醒剤中毒者だった。ただし当時アメリカでは、まだ覚醒剤は違法ではなく、むしろ映画会社の人間から、すすめられていたほどだ。だから、彼女に非はない。非はなくても、その後、輝かしい女優人生を送るも、つねに薬物からは苦しめられ続けた。最期は、睡眠薬の多量摂取で死亡している。

 リバー・フェニックスのほうは、比較的最近の人物なので、語るまでもないだろう。ヘロインとコカインに、最期は殺された。

 皮肉のつもりでつけたのか。元麻薬取締官という立場では、とても楽しめるような気持ちにはなれなかった。

 場所は、新庄興業からも『ジュディ』からも、一〇分圏内にあった。

 ゆっくりと、入り口へ近づいていく。

 店内へ入り込むのに、止められることはなかった。

 こういう若者が集まる場所には、それなりの格好をしていく必要があるはずだ。バブルのころのディスコみたいに極端な判別はしないだろうが、店にふさわしくない服装だと、入店を拒否されるところもある。

 三〇代以上の人間が入るとしたら、無難にスーツでいくのが得策だ。ラフで、まちがった方向性の服を着たオジサンだと、そもそも行くのもはばかられる。流介は、薄汚く感じる身なりでも、臆することなく踏み込んでいた。入り口で呼び止められることがなかったということは、裏の匂いがする人間でもウェルカムということか、ドレスコードという概念がまったくないかのどちらかだろう。

 これで、裏の商売をしている率が格段に上がった。

 あたりを見回すかぎり、店の外も内も、昼間会ったスジ者はいないようだった。

 客の入りは、それなりだ。満員というわけでもないが、すきすぎるということもない。

 やはり一〇代後半から、二〇代前半の男女が多かった。しかしなかには、流介よりも年上の四〇代以上と思われるサラリーマン風の男性、IT企業の幹部風の男などもいる。

 一階が大きなホール。カウンターバーとテーブル席も設置されていた。

 二階がVIPルームになっているようだ。階段の前には黒服が厳重に立ちはだかっている。

 流介は、売人らしき人物を眼でさぐった。あの女──貸金業の事務員は、わざとここの話を自分に聞かせた。

 パーティというのが開かれる場所。

 しかし、今夜はパーティの日ではない。とはいえ、なにかしらの動きはあるはずだ。そうでなければ、わざわざあんな会話をするはずがない。

 カウンターにいるバーテンダー。

 左耳に薬莢型のピアスをつけた店員。

 首筋から幾何学模様のタトゥーが覗いている男性客。

 そういうつもりで見れば、みなそう映ってしまう。勘が鈍ったことを素直に認めざるをえなかった。

 匂いをたどれ。

 集中しろ。

 芸能人ばりにきめた女性たちも人目を惹いている。そのうちの一人と視線が合った。

 おたがいが、次には瞳をそらしていた。

 日中、新庄興業の下で経営している金融会社で会ったばかり。

 白い鳥……。

 見えたような気がした。

 幻覚か?

 アルコール臭、タバコの煙。

 女性客の香水も、ヤバい。

 鼻に意識を集中させすぎたのは、失敗だった。

 大音量で流れる音楽。DJが客を乗せる。トリップする材料はそろっている。ここは、危険だ。正気をたもつのが厳しい。

 外へ出なければ……。

 どうにか倒れ込みそうになりながら、おぼつかない足取りで、流介は出口へ向かう。

 そのときに、視線がとらえた。店の隅。長髪の男から、なにかを受け取っている光景。受け取っている人物は、『し』だ。

(まだだ)

 流介は、足に力を込めた。

 まだ出ていくわけにはいかない。

 踵を返して、『し』に向かっていく。

(これは、現実なのか……?)

 流介には、もうわからなくなっていた。

 いつのまにか、怒号が店内に響いていた。

 なにが起こっているかを、理解することはできない。

 発作だ。わかっている。

 だが、自分ではどうすることもできない。

 こうなってしまったら、おさまるのを待つしかない。

 くらくらと頭が歪む。

 世界が反転したようだ。

 白い鳥が、飛んでゆく──。


        * * *


 六年前──。

 流介は、手足を縛られ、椅子に座らされていた。

 暗い室内。窓はなく、湿気が重い。

 眼の前には、四人の男女。男が三人に、女が一人。全員が仮面のようなものをつけているので、性別しかわからない。まるで、アステカの神話に出てくる神のようなマスクだった。

「なるほど、あなたが《魔鳥マトリ》さんだったとはね」

 女の声が言った。

「ねえ、ほかにも仲間がいるんでしょ?」

 流介は、首を横に振った。

「嘘。ま、いいけど。本当のことを言いたくないのなら」

 女は、後ろに控えていた三人のうちの一人に視線をあずけた。

 すると、その男が前に進み出る。

「これから、わたしたちの『味』をたっぷりと教え込んであげる」

「最初は、僕だよ。名前は『怠惰』とでも呼んでくれ。これを吸ってごらん」

 それは、パイプに仕込まれたマリファナだった。すでに体力を奪われ、抵抗することはできなくなっていた。

 強引に、口につめられた。一気に流れ込んできた煙で、むせかえりそうになった。

「フフ、わたしたちの使うものは、純度も効き目も最高ランクよ。売られているような安物じゃないわ」

「次は、俺だ。名前は『不死』。鼻から吸わせてやるよ」

 口のパイプが取られた。まだ喉に煙が残っているのに、鼻と口を手でおさえられた。息ができないだけではない。マリファナの煙が突き刺さるように、口内と喉、肺までもをえぐっていく。

 鼻だけが解放されたとき、流介は思い切り煙を吐き出し、そして吸い込んでしまった。

(コ、コカイン!)

「オーライ、やってやるさ、次はミーだよ。『高揚』って名さ。打ってやる、打つべし! 打たねば、打つべし!」

 注射器が、左の肩口に突きたてられた。

 覚醒剤。おそらく、メタンフェタミン。

「最後は、わたしよ。そうね、わたしのことは『快楽』とでも呼んでちょうだい」

 女も、注射器を手にしていた。

 今度は左の肩口に刺し入れられた。

「純度100%のヘロインよ。ヘロインは、最も素晴らしい麻薬といわれているわ。あなたにも、そのよさがすぐにわかるはず」

「バ、バカな……」

 もう声を出すことも億劫になっていた。ヘロインは素晴らしいどころか、最低最悪の麻薬と呼ばれている。

 いや、そんなことはどうでもいい。

 世界が歪んでいる……!

「これが、《白い蠍》の力よ」

 それは、薬物による拷問だった。

 肉体ではなく、精神を極限まで蝕む。

 大量の虫が出現したかと思えば、これまでに体感したことのないような快楽が身体を駆け上がっていく。天まで昇りきり、地獄まで突き落とされる。その繰り返しが、永遠に続く。

 本来、クスリが切れたときの禁断症状としてあらわれるものまで、体内を暴れまわっていた。

 自分が何者なのかも、理解不能だ。

 上下左右、東西南北が、ごちゃ混ぜに。

 黒、赤、青、黄、緑、紫──色彩感覚までが狂っていく。

 鈴の音、風の音、鐘、サイレン、だれかの絶叫、それらがランダムに鳴り響く。

 叫びは、自分の声か!?

「フフフ、いまあなたは全能の神になった」

 女の声が、耳元で囁いた。いや、それすら幻聴かもしれない。

「もう苦しむことなんてないの。あなたは、楽園の住人になれたのだから」

 その言葉は、とても蠱惑的で、蜜の味がした。このまま身をゆだねてしまえば、どんなに楽だろう。

 そうだ、このままでいい。

 もういいんだ……。

 流介は、かろうじて残っていた思考の片隅で、安息の日々がやって来たことを予感した。

 そしてそれは、自身の終わりを意味することも──。


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