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9.尾行中にて
経済ヤクザ(のように見える男)は、車ではなく、電車を使って移動していた。駅までの道もタクシーではなく、徒歩。そこからは電車を何本か乗り継いで、行き着いた先は、霞が関だった。
沢村にとっては、もとの場所に戻ってきたという印象が強い。
男が車を使用しなかったのは、Nシステムを避けるためか……。タクシーも、すぐに足がつく。
電車の場合も、駅には監視カメラがいくつも設置されているが、人込みにまぎれてしまえば、マークされる心配は少ない。
やはり、犯罪の匂いがする。
〈ピーポーピーポー〉
これからが男の正体の核心に迫るときだというのに、音に意識をもっていかれてしまった。通りを救急車が通過していく。つい、そちらに眼がいってしまうのは、人間の性か。
「あれ……」
視線を戻したときには、あとのまつりだった。肝心なところで、経済ヤクザの姿を見失ってしまった。
こうなってしまっては、追跡を断念する以外にない。
見失ってみて、ふと冷静になると、自分がとても無駄で愚かなことをしていたと反省してしまう。
沢村は、身体の向きを反転させた。尾行は中止だ。歩きながら、探偵事務所の電話番号のことを思い出した。
携帯でかけてみる。
一五コールしても、出る気配はなかった。
あきらめて切ろうとしたところで、反応があった。しかし、向こうから声を出す様子はなかった。
「あ、あの……もしもし?」
『依頼か? だったら、ほかをあたったほうがいい』
「え? あ、いえ……そういうわけじゃ」
『なんだ、まちがいか』
ガチャ。
一方的に切られてしまった。
「なんだよ、もう」
けっこうな勇気をもってかけたのだが、それなのに、こんなことって……。
とてもではないが、もう一度かける気持ちにはなれなかった。
(とりあえず、ホテルに戻るか……)
宿をとっているのは、虎ノ門にある有名一流ホテルだった。沢村の給料では、一泊はできたとしても、連泊はできない。会社がとってくれたものだ。日本滞在の経費は想像以上に出してくれている。
はたしてそれは、この日本での売り込みに力を入れているからだろうか。それにしては、自分一人しか派遣していない。やはり自分を切るための布石と捉えるべきだ。
こんなに金をかけたのに、成果が出せないなんて──。
そういう理由で、クビの話を持ちかけてくるはずだ。
ホテルまでは、あと少し。自分とは不釣り合いな威容が、前方にそびえている。時刻は午後三時を過ぎたところだった。
「ちょっとよろしいですか?」
声がした。自分にかけられたものではないようだ。見れば、路上で制服警官が自転車を止めていた。盗難されたものかを調べているようだ。
沢村も日本にいたころは、よく止められていた。が、それは夜遅くだったことが多いような気がする。こんな真っ昼間からやっているなんて、日本を離れているあいだに自転車泥棒が増えたのだろうか。それとも強化月間かなにかで、ノルマ達成が厳しいとか。
そこで、ハッと現状に思い至った。
いま自分は、ヤバいものを所持しているのではないか!?
アタッシュケースのなかには、銃器らしきもの。
封筒のなかには、覚醒剤らしきもの。
こんなところを職務質問でもされたら!
たしか職質の場合、荷物検査は拒否することができたはずだ。だが、きっとそれは建前だけで、一般人が拒否することなんてできないのだ。実際に拒否ができるのは、弁護士とか法律に詳しく、社会的地位のある人物だけなのだ、たぶん。
沢村は一瞬で、数年分の恐怖を感じていた。
スタンガンのほうは説明すれば、どうにかなるはずだ。だが、もう一つのほうは……。
ヘタをすると、薬物所持で刑務所行きだ。
(落ち着け……ぼくは、ただの会社員。あやしいところなんてない……それに、初犯で所持だけだったら、執行猶予がつく……いやいや、それでもダメだ! バカなことを考えてないで、落ち着くんだ落ち着くんだ)
しかし、そう思えば思うほど、なんだかぎこちなくなっていく。
自分はいま、ちゃんと歩けているだろうか。
(あっ……)
ふと、警察官と眼が合った。
洋士は、愛想笑いを浮かべた。
いや、上手に笑えたのか、大いに疑問だ。
このまま、そっと遠ざかろう──そう考えた。
「あ、ちょっと!」
ギクリと、背筋に痛いぐらいの衝撃がはしった。今度こそ、自分にかけられた声だ。
「え、え……な、なんでしょう!?」
どもっているのが、自身の耳に届いた。
「いまあなた、逃げようとしなかった?」
「そ、そんなことありませんよ」
「ちょっと、いいですか?」
警官が、こちらに近寄ってきた。
ヤバい!
とにかく逃げろ!
身の破滅だっ!
「お、おい! こらっ!」
警官の怒鳴りを背中にうけながら、沢村はとにかく駆けた。
会社をクビになるどころか、この日本で自分は犯罪者に仕立てあげられてしまう。
逃げろ、逃げろ、逃げろ!!
10.残り四日
老兵は去る。
自分は、年老いた取締官だ。あと数日で定年をむかえる。
現役バリバリのころは、麻取事務所でも顔が利き、売人からは恐れられていたものだ。それがいまでは、どうだ。もう現場に出ることはない。最後に、おとり捜査に参加したのは、どれぐらいまえのことだろうか?
若き日は、柔道の師範をつとめて生計をたてていたこともあった。あるとき、麻薬取締官という職業があることを知り、高校時代の友人に、どうやったらなれるのかをたずねた。その友人は、厚生省の官僚として出世していた人物だった。
現在の採用基準とはちがい、当時はもっとおおらかだった。薬剤師の資格や、国家公務員試験の合格は、絶対条件ではなかったと記憶している。むかしは、推薦での採用も多かった。
三流だが、大学の法学部を出ていたし、柔道五段の腕前も評価され、友人の紹介で、関東信越地区の所長推薦をとりつけることができた。ちょうどのタイミングで欠員が出たことも幸いした。
それからの自分は、水を得た魚だった。
いくつもの密売組織を検挙し、何キロ──いや、何トンもの違法薬物を押収した。
最強の取締官であることを自負していた。
《背負いの柴田》といえば、裏社会では有名だった。逮捕のさいの乱闘で、つい柔道技が出てしまうのだ。衝撃で失神する人間を、星の数ほど眼にしてきた。
自分の衰えを感じたのは、いつごろだろうか?
たぶん、あの男の登場からだ。
入ってきたばかりのころは、やる気の薄いただの新人だとしか考えていなかった。なにがきっかけだったのだろうか……あるとき、その男は変わった。
麻薬組織を憎むように……ちがうな、麻薬そのものを憎むようになっていったのだ。
頭角をあらわしたあの男に、自分は圧倒された。
世代交代を実感させられた……。
《関越の雷鳥》
あの男が羽ばたくとともに、《背負いの柴田》がオールドネームになっていく。
悔しさや寂しさよりも、嬉しさがのほうが強かった。自分の後継者ができた──と。
自分は、あの男のバックアップに徹した。
取締官事務所の名称が取締部に変更され、それからさらに、中目黒から九段下に関東信越厚生局が移転したころには、もう自分には一線で活躍する気力が無くなっていた。
いや、やろうと思えばやれるだろう。
まだ、何人であろうと相手にすることもたやすい。
だが、ちがう。
そういうことではない。
もう、そこに自分の居場所がないとわかってしまったのだ。あの男がいなくなったことも大きい。無謀な潜入捜査のすえ、あの男は失墜してしまった。
彼は、壊れていったのだ……。
たとえようもない虚無感に襲われた。
後継者を……息子をとられたような気持ちだった。
結婚はしたが、子供はできなかった。
あの男が、息子のようなものだ。
「もしもし、麻薬・覚醒剤相談です」
いまの仕事は、これだ。
麻薬取締部では、通常の捜査業務のほかにも、様々な活動をおこなっている。麻薬や覚醒剤を断ち切るための啓発運動。高等学校などに違法薬物の恐ろしさを伝えにいったり、乱用経験者へのカウンセリングなども。
そして、電話相談もおこなっている。
朝九時から夕方五時までのお役所勤め。
定年間近の自分には、とても合っている仕事だ。身体的にも楽。むかしのことが嘘のように、平穏な業務だった。
「もしもし」
何度か、こちらから呼びかけても、応答がない。
よくあることだ。
いざ電話をしても、どう話しかけていいのかわからないのだ。
「もしもし、自分は柴田といいます。なにか悩み事がおありですか?」
『あの……』
それは、女性の声だった。歳のころは四〇代から、高くても五〇歳ほど。
「どうしましたか?」
つとめてやさしく語りかけることに注意をはらった。
『あの、息子のことで……』
弱々しく、女性は話しはじめた。
彼女の二四歳になる息子は、いままでに二度、覚醒剤取締法違反で逮捕されているという。実刑をくらって、二年近く刑務所にも入っていたそうだ。
出所後、専門医院で治療もし、現在では定職にも就いて、まじめにやっているという。
その「まじめにやっている」というのには、彼女の希望的観測も混入してるようだった。
『ですが……このところ、なんだかおかしいんです』
「それは、どういうことですか?」
『帰りが遅かったり……、貯金をおろしていたり』
「そのお金は、お母さんのものですか?」
『いいえ。わたしや主人のものではありません。あの子が自分で貯めたお金です』
「でしたら、心配しなくてもいいと思いますよ」
親の金に手を出してまで欲しいものなら、この女性の危惧のとおりかもしれない。しかし自分の金ならば、使い道はいくらでもある。違法薬物だと決めつけるのは早計だ。
「それに帰りが遅いのも、もう社会人なんですから、いろいろな付き合いもあるでしょう。恋人だっているかもしれない」
『だ、大丈夫なんでしょうか?』
「なにか、心当たりがあるんですか? 行動がおかしいとか、最近体重が減っているとか」
『い、いえ……でも、息子を信じていいものか……不安なんです』
二回捕まっているということは、すくなくても一度は裏切られているということになる。
心境は理解できなくもない。
有名人でも繰り返し逮捕されている者もいるし、立ち直ったような人間でも、突然のフラッシュバックで、再びクスリに手を出してしまう。それが希有なことではないということを、いまでは多くの人が知っている。
「でしたら、確かめてみてはどうですか?」
『そ、そんな……こわくて、訊けません』
「直接、問いたださなくても、その気になって観察していれば、わかるものです」
『は、はあ……』
「いっしょには、住んでるんですよね?」
『そうです』
「今日、帰ってきたらときから、行動をくまなくチェックしてみてください。タバコを何本吸っているか、お酒を何杯飲んでいるか」
『酒とタバコですか?』
「いつもより吸う本数が減っていたら、かわりのものをやっているかもしれない。アルコールの量が減るのも、同じ原理です。そのほかにも、お母さんが部屋に入ろうとしたら、とても激怒されたとか、暗くなっても電気をつけないとか。あと、眼の動き。やっていると焦点がさだまらない。しゃべるときに、ろれつが回っていないのも典型例です」
素人でも見分けられるいくつかを、矢継ぎ早に伝えていった。
女性は、とにかく気をつけてみます、といって電話を切った。
もうじき、定時をむかえる。
帰り支度をはじめるまえに、もうひと仕事残っているはずだ。
「もしもし、麻薬・覚醒剤相談です」
やはりもう一件、電話があった。
『もしもし』
「鳥山さんですか?」
『そうです』
鳥山、が偽名なのはわかっている。いつも、この時間にかけてくる男性だ。
「身体が、つらくなりましたか?」
鳥山は沈黙した。
彼が、重度の薬物中毒にかかっていることは、よく知っている。
「大丈夫ですか?」
『……わかりません。ただ、こんなところで終わるわけにはいかない』
「そうですね。あなたには、まだ未来があります」
『あるんですかね?』
「ありますよ。明るい未来が」
『だといいですね』
鳥山が、そうつぶやいたあと、電話は一方的に切られた。
むなしげな静寂だけが、そこに残った。