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7.古びた雑居ビルにて
沢村洋士は、封筒に入っていた書類を頼りに、ここまでたどりついた。
警察に届けようかとも思ったが、なぜだかそれができなかった。落とし主が、それを望んでいないと予感したのだ。それに、違法薬物らしきものもある。不要に疑われることはしたくなかった。
紙に記されていた内容は、朝霧流介という男性の経歴に関することが大半だった。
読んでみて、正直、沢村も興味を抱いてしまった。
元麻薬取締官。
それだけで、どこかシビれるものがある。
六年前に従事した案件において、不祥事を起こし、懲戒免職となっている。
あろうことか、麻薬を取り締まる側の人間が、薬物中毒になってしまったという。ただし、その不祥事さえなければ、最強の取締官として名を馳せていた。
彼には二つの異名がある。
一つが、《関越の雷鳥》。関東信越地区に長く勤務していたことから、関越。雷鳥というのは、もう一つのあだ名にもかかってくるそうだ。
というよりも、そちらのほうが真に恐れられている。
麻薬取締官を『麻取』──と略称するところから、魔鳥──《マジック・バード》と呼ばれていた。
マジックの名は伊達ではなく、まさしく魔術のような捜査技術で薬物の匂いをたどり、いくつもの密輸・密売ルートを潰してきたという。その魔法の捜査手腕が、まるで稲妻のごとき衝撃をもたらしたのだろう。そこからの《雷鳥》だ。
薬物中毒に陥ってしまったことを考慮しても、なんと魅力的なキャラクターなのだろう。映画のなかに出てくるダーティーヒーローそのままではないか。
現在は、眼の前の雑居ビルにおいて探偵事務所をひらいている。
会ってみたかった。
この書類が、なにかしらの犯罪に関わる可能性は高い。朝霧流介の経歴からしても、同封されていた結晶体は、おそらく覚醒剤だ。
いったい、これをなんに使うつもりだったのだ。使おうとしていたのは、書類の落とし主か、はたまた朝霧流介なのか……。
緊張をはらんで、沢村は階段を昇っていく。
朝霧探偵事務所、と書かれた扉をノックした。
反応はない。開けようとしたが、鍵がかかっていた。
扉には電話番号も記されていたので、それをメモして、沢村は探偵事務所に背を向けた。残念なことに、記されていた番号は携帯のものではなく、固定電話のものだった。携帯なら、すぐにも連絡できたのに。
時間をあらためて、連絡をとるつもりだった。
ビルの外に出ると、いま一度、探偵事務所を見上げた。
と──、窓に人の影が見えた。
「え?」
いるのか?
居留守をつかわれたのだろうか。
沢村は、眼を凝らした。
影は一瞬、窓を横切っただけで、もう見えなくなっている。
戻ってみようか、それとも出直そうか……二分ほど、その場で考え込んでしまったかもしれない。
どちらにするか決めかねていたが、ビルの階段付近には近づいていた。上から、駆け降りてくる気配があった。
咄嗟に沢村は、身を隠してしまった。
本能のようなものだ。
階段を降りてきたのは、五〇代……もしくは六〇代になろうかという歳を重ねた男性だった。作業着のようなものを着ている。
探偵事務所から出てきたはずだが、朝霧流介でないことはあきらかだ。
慌てた様子で逃げるように出ていく男に、沢村は犯罪の色を感じ取っていた。
空き巣。事務所荒らし。そんなところだろう。
事務所に行って確認しようとも思ったが、沢村は男を追いかけることにした。
早足で街中を突き進んでいく男。
少し距離をあけ、沢村は尾行していく。
自分が探偵になった気分だった。サンプル商品の入ったアタッシュケースが、邪魔に感じた。
次第に、男の歩調はゆるくなっていく。まさか、あとをつけている人間がいるなどと、夢にも思っていないのだろう。
ついには、完全な徒歩に落ち着いていた。
男は繁華街を抜けると、細い路地に入り、住宅街のなかにひっそりと存在する小さな公園に行き着いた。
ジャングルジムと砂場しかない。
その公園の中央付近には、男が一人立っていた。二〇代後半から三〇前半。スーツ姿だが、どこか剣呑な雰囲気が漂っていた。まるで、経済ヤクザのような翳がある。
どうやら、事務所荒らしの男を待っていたようだ。
二人は、なにやら話し込むと、経済ヤクザのような男が、事務所荒らしに封筒を手渡した。給料袋に使われる一般的なやつだ。
それを受け取ると、事務所荒らしは公園を出ていった。
沢村は、出ていった事務所荒らしについていくか、それとも公園にいる経済ヤクザをさぐるかを、短い時間で選択した。
(よし、こっちた)
経済ヤクザのほうにした。
8.56時間前
渋谷の合法ハーブ店『ジュディ』は、道玄坂のラブホテル街近くに位置していた。
合法ハーブ──。
かつて警察や行政機関などの取り締まる側は、合法ではなく「脱法」と呼んでいた。現在は『危険ドラッグ』という名称に統一されていることは、周知の事実だろう。ここであつかっているブツは、ほとんどがいずれ違法薬物に指定されるものである。
いうなれば、合法的な麻薬売買所。
建前では、お香として販売している。薬事法の抜け穴をくぐり抜けているつもりなのだ。
もちろん、お香として買っていく人間はいない。お香を手に入れたいのなら、こんなところに来なくても、アロマテラピーの専門店にでも行けばいい。
ある者は、タバコのように紙を巻いて吸うジョイントで。ある者は、パイプを使って。流行時は、店のなかでも楽しめるようなっているところが多かった。
当然、捜査機関は、つねにこういう店には眼を光らせている。薬事監視員が、定期的に査察にも入っているだろう。
法律の改正で違法になったとしても、そのころには、次の新たな脱法ドラッグが入荷している。包括指定制度によって大半のものが違法になったはずだが、店が存続しているということは、いたちごっこが続いているということだろう。
時間は午後一時。陽光真っ盛りのこの時間では、とても健全に見えるが、夜に訪れれば、それなりの陰鬱さがあるのかもしれない。
外観は、洒落た雑貨店のようだった。窓は見当たらないので、なかの様子はわからない。
あたりまえのことだが、クスリの売りがおこなわれるような店は、そういうものを求めるアンダーグランドな人間が出入りできる場所が望ましい。
極論を言えば、もし平和な遊園地で麻薬の売買がおこなわれたとする。警察からはノーマークになるだろうから、発覚しづらいという側面は確かにあるだろう。が、本来の遊園地に似つかわしくない人相の者がうろうろと徘徊してれば、いずれ噂が広まり、早期に商売は破綻する。
捜査機関からの警戒をうけていたとしても、まわりに同じような外見・雰囲気をもっている人間が大勢いる店や街のほうが、結果として長続きするものだ。
流介は、扉に手をかけた。
やはりこの時間では、鍵がかかっている。
開店時間などはどこにも記されていないが、おそらく夕方過ぎからだろう。
まだなかには、だれもいないようだ。
迷わずに、流介は足を出した。鉄製かステンレス製だと思われる扉に蹴りを入れた。
もう一発。ドンッ、という耳障りな雑音が、あたりに鳴り響く。
その後も、三〇秒に一回、蹴りを続けた。
五分ほど経ったころ、三人の男たちが駆けつけてきた。
「て、てめえ、なにやってんだ!?」
一目で、カタギでないことがわかった。さきに警察へ通報される危険もあったが、思惑どおり彼らが来てくれたようだ。
「わりい、わりい、なんでもないんだ」
そう言って流介は、男たちに背を向けた。
「ふざけんな! そんなんですむかよ!」
威圧的な声が背中に突き刺さる。
三人とも、まだ二〇代前半の若者だった。
正式な構成員なのか、組員にかわいがられている非正規のチンピラなのか。どちらにしろ、この店が彼らの縄張りになっていることは確かだ。
「べつに、扉はヘコンでないだろ?」
音をたてるようには蹴ったが、へこますようには衝撃をあたえていない。現に、足跡はくっきり残っているが、それ以外のダメージは見て取れない。
「すまなかった。ちょっとムシの居所が悪くてな」
「お、おい!」
「それとも、いま売ってくれんのか?」
「なに言ってんだ、てめえ!?」
「以前、ここでアシッド買ったんだが、最高にトリップできたんだよぉ。兄さんたち、持ってんのか? だったら、売ってくれよ」
「チッ、こんなとこで、そんな話するな! ここは、合法モノしかあつかってねえんだからよぉ」
流介のことをただのジャンキーと悟ったからなのか、チンピラたちは、すんなりと行かせてくれた。
彼らの言うことを正直に受け止めるわけにはいかないが、彼らの所属する「団体さん」が、クスリの売りを取り仕切っているとはかぎらない。本当に、彼らは合法だと信じているのかもしれない。
犬飼は、この店のことを教えてはくれたが、そのバックにどこの組がついているかまでは口にしなかった。そっちの世界を熟知している犬飼ならば、調べることも簡単なはずだ。
言わなかったということは、薬物売買に、背後の「団体さん」は関係していないと見ているのか、それとも流介自身に調べさせるため、あえて言わなかったのか……。
路地の曲がり角で、流介は身を潜めた。
三人が帰っていく。彼らをつけていけば、どこに所属しているのかわかる。
チンピラは、店から五分ほど歩いた場所にある雑居ビルの三階、新庄興業という事務所に入っていった。
名前からしても、マル暴でまちがいないだろう。
二階は、金融会社になっているようだ。たぶん、上が経営している高利貸しだ。
このご時世だから、店舗をかまえている以上、ヤミ金ということはない。流介は、二階の扉の前に立った。一応、都の認可は得ているようだ。だからといって、まともな商売をしていることにはならないが。
三人のチンピラたちは、直接三階に入っていったのだから、ここに客の素振りで入店しても、三階から隠しカメラなどで監視でもしていないかぎり、大丈夫のはずだ。
流介は、安っぽいドアを開けた。
すぐのところに窓口があり、そのなかの女性事務員と眼が合った。ほかに客はいない。一応、事務員のような格好はしているが、濃い化粧と水商売が似合いそうなたたずまいが、あばずれ感を印象づけていた。
どうして犬飼が、バックの組について語らなかったのかを理解した。
やはり、流介自身に調べさせる意図があったのだ。
「いらっしゃいませ~」
女性は顔色一つ変えず、応対していた。
ならばこちらも、平静を崩すわけにはいかない。
「初めてですか?」
「ああ。いくらまで貸してくれるんだ?」
「はい。ご説明します」
女性職員の話を五分ほど聞いた。また今度来ると断って、事務所を出ようとした。
そのとき、店内に一人の男が入ってきた。
チンピラ風だ。客ではなく、ここの関係者のようだった。ただし、さきほどの三人組ではない。
「シンちゃん、元気~?」
女性事務員のほうから、親しげに話しかけていた。
「おう、ヨウコちゃん」
チンピラのほうも、まんざらではないようだ。
「ねえ、約束してたじゃない。パーティにつれてってよ」
「お、おい……お客さんの前で、そんな話」
チンピラは、咎めはするものの、彼女には強く出られないようだ。どこか、デレッとしている。
「今日、いいでしょ?」
「今日は、やんねえんだよ。毎日やってるわけじゃねえんだ。パーティやるクラブだったら、今夜つれてってもいいけど」
流介は店から出るのを、わざとゆっくりもたついていた。
チンピラは、こちらに話を聞かれることを気にしているようだが、彼女の気も惹きたいようだ。
緩慢すぎる動作で、流介は扉を開けた。
「いくいく! そのクラブつれてって!」
そこで、店を出た。
(あいつらも動いてるのか)
渋谷駅に向かいながら、思考をめぐらせる。
犬飼。
あいつら。
新庄興業。
合法ハーブ店『ジュディ』。
パーティのあるクラブ。
アルバトロス。
三人のタレント。
(おかしい……)
単純な調査のはずなのに、次から次に事が大きくなっていく。
そのさきにあるものは──。
(《白い蠍》か)
失敗した……依頼を引き受けたことを。