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        4.68時間半前


 店内は、まるで歌舞伎町の路地裏のように殺伐としていた。

 男の怒号、女の悲鳴。

 物が壊れる音。

 それらが腹の底から不快感を生じさせていた。

 だれも、流介の入店に注目した者はいないようだった。係の従業員も、騒ぎに意識をとられている。

 店は想像よりも広く、高級感があった。会員制というのもうなずける。入り口すぐのところにカウンターが設けられ、奥の広いエリアがテーブル席になっていた。こういう秘密の隠れ家的な店にしてはめずらしく、個室のたぐいは見当たらない。

 アルコールとタバコの匂いが、わずらわしかった。意識が遠のいてきそうだが、精神力で正気を維持する。いまの流介にとって、酒場は鬼門だ。

 騒ぎは、テーブル席の中央付近でおこっていた。

 一人の男が、床に倒れている。

 それはまぎれもなく、『さ』──佐賀亮だった。

 倒れた『さ』のまわりを、数人の男たちが取り囲んでいる。一目見た印象では、男たちは、みな同じグループに属している。

 服装は、それなりに普通だが、そのほかの客とくらべれば、年齢が若く、会員制の店に来るには似つかわしくない軽さがある。

「や、やめてください!」

『さ』のマネージャーが一生懸命、男たちに許しを請うていた。どうやら『さ』とグループのあいだに、なんらかのトラブルがあったようだ。

 事務所でしていた電話は、このことを知らせるものだったのかもしれない。たしか、マネージャーのほうからかけていたから、本人から助けを求めたのではないだろう。おそらく連絡事項などがあってかけてみたら、電話の様子から『さ』が騒動に巻き込まれていることがわかったのではないか。

 流介は店内を見回して、犬飼の姿をさがした。

 犬飼は、店の隅で、とても目立たないようにたたずんでいた。とはいえ、見慣れていない人間には、どうしても注目をひいてしまう巨体だ。

 流介は、ゆっくりと犬飼に近づいた。

 その間にもグループの数人が、いきり立った怒声を発している。店員も不用意には近づけない状況だった。しかし彼らのなかにも穏健な者がいるようで、いまにも馬乗りになって襲いかかりそうな仲間を、その穏健派が制していた。

「あいつら、知ってる」

 となりに立ったら、犬飼のほうから声をかけてきた。

「まえは、渋谷でたむろしてた連中だ」

「おまえに眼をかけられてたんなら、相当な悪ガキどもだったんだろうな」

「殺人以外、あらかたのことはやってたんじゃねえか」

 どこまでが本当なのか、犬飼は言った。

「どう収束させるつもりだ?」

「店から、110番してるだろうよ」

「いや、おまえがどうにかしろ」

「なにかたくらんでんな?」

 その問いに、流介は答えなかった。

「わかった。貸しといてやる」

 そう口にすると、『山』が動きだした。

「おい、そのへんでやめとけよ、兄ちゃんたち」

「なんだ、すっこんどけよ、オッサン!」

 声をかけた犬飼に、グループの一人が声を荒らげた。

 だが、べつの一人が、その突っかかろうとしていた仲間に囁きかけた。顔には、おびえがふくまれている。

「ジ、ジンパチ……《刃八》か!?」

 犬飼甚八のジンという字を『刃』に見立てて、そう呼ばれることがあった。《渡り犬》よりも、犯罪者やそれに近い者にとっては、有名なあだ名だった。

「まあよ、ここは穏便にすまそうじゃねえか! 俺は、非番でな。そこのヤラれたほうの兄さんもよ、あんまり表沙汰にはしたくねえだろう?」

『さ』の表情は、倒れたまま険しく固まっているのでよくわからないが、マネージャーの顔は、そのほうが助かると告げていた。

「よお、店の責任者はいるか? 相談なんだがよ、警察への通報は取り消してくんねえか?」

 そう言われた店員は、判断に困ったようだ。

 流介は、みんなの眼が犬飼に向いている隙を狙って、倒れている『さ』に肩をかして立たせた。

 そのとき、通報で駆けつけてきた制服警官が店内に入ってきた。

「どうしましたか!?」

「いやぁ、なんでもねえんだよ」

「い、犬飼さん!?」

 だれからも嫌われているが、警視庁管内で最も有名な警察官だ。ほぼすべての署を渡り歩いているし、交番勤務だろうが、内勤の女子職員だろうが、警察の人間で知らない者はいない。

 ますます騒がしさが増したところを見計らって、流介は、入ってきた警官とすれちがうように、『さ』といっしょに店外へ出た。

 犬飼のインパクトのまえには、容易なことだった。

 あとは、うまく犬飼が、警官や若者グループを引きつけておいてくれるだろう。



 バーのあるビルから遠ざかり、ベンチの置かれているバスの停留所までたどりついた。この時間だから、当然ながらほかにだれもいない。

「あ、ありがとうございます」

 礼を言ったのは、ビルを出たところで追いついてきたマネージャーだった。犬飼が見事に混乱させたところを抜けてきたのだろう。

「なにがあった?」

『さ』をベンチに座らせて、流介は問いかけた。

「あ、あの……あなたは?」

 すかさず、マネージャーが訝るような視線を向けてきた。

「おれか? おれは、あのビルの四階で貿易会社を経営している。見た目はこんなんだが、あやしい者じゃない」

 四階がなにをやっているのか確認していないが、それは『さ』とマネージャーも同じことだろう。すくなくとも、この場でバレる嘘ではなかった。

「そ、そうなんですか?」

「ああ、よく飲みに行くんだ。同じビルのよしみで、会費を安くしてもらってる」

 会員制とはいっても、会費を徴収しているとはかぎらない。だが、おそらくあそこの会員であろう『さ』からは、なにも声はあがらなかった。

 こうして間近で見ると、顔の腫れがよくわかる。それとも時間が経ったことで、目立つようになったのか。

「あんた、有名な俳優さんだろ?」

「こ、このことは、内緒にしてもらえませんでしょうか!?」

 マネージャーからの申し出だが、それは現実的ではなかった。

「おれは、だれにも言わない。だが、おれが言わなくても、ほかのだれかが絶対にふれまわる。あのバーにいた、だれかがな」

 それを聞くと、マネージャーの表情がこわばった。

「口止めをするよりも、これからの対応を考えたほうがいい」

「そ、そうですね」

 力なく、マネージャーは返事をした。

「あの連中とは顔見知りなのか?」

『さ』が、首を左右に振った。どこか、ふて腐れた態度だった。投げやりな感情が伝わってくる。

「あいつらが一方的にからんできたのか?」

 それには反応がなかった。悔しそうに歯を噛みしめていた。

「私が明日の予定について佐賀に電話をしたとき、因縁をつけられていた真っ最中だったんです。急いで駆けつけてみたら、あんな寄ってたかって暴行を!」

 マネージャーは、怒りを押し殺すように言った。どうやら、流介のことを親切な貿易会社の経営者と信じたようだ。

「怪我はないか?」

 流介は『さ』の身を案じるふりをして、彼の眼をみつめた。

 酒には酔っている。

 だが、それだけだ。

 ほかのものに酔っている様子はなかった。

 肩を貸して歩いているとき、さりげなく袖をめくって腕を確認した。注射の跡はなかった。

 匂いもチェックしていた。

 タバコ臭はしたが、それはまわりの移り香だろう。利き腕と思われる右手の指からは、タバコの匂いがしなかった。

 以上のことから、『さ』はやってない。

 薬物の摂取には、大まかに四つの方法がある。注射で直接体内に入れる方法。パイプなどの吸引具でタバコのように煙を吸う方法。粉末をそのまま鼻から吸引する、もしくは火で熱した蒸気を吸う方法。もう一つが、あらかじめ錠剤やカプセル錠になっていて、市販薬のように服用する方法だ。

 静脈注射、タバコ状、鼻、口──。

 おもなものでは、注射は覚醒剤とヘロイン。

 ただ最近は、覚醒剤やヘロインも火で熱した蒸気を吸い込む「アブリ」が主流といえる。パイプはマリファナ。クラックもタバコのように吸う。コカインは粉末吸引が多い。LSDやMDMAは薬のように経口摂取するが、これはどの薬物もそうすることが可能だ。

 瞬時にそれらを佐賀亮に当てはめていく。

 腕に注射の跡はなかったが、腕では発覚しやすいので、べつの箇所に打つ者もいる。しかしそれをする人間は、かなりの常習者になるので、『さ』の場合、素直に受け取っていいだろう。

 煙を吸うタイプの薬物を常習する者は、タバコに対して抵抗がない。というより、タバコをやらない人間が、それよりも飛躍してマリファナ等を吸うことは考えづらい。

 鼻の炎症はみられないので、粉末吸引もない。

 アブリの可能性はゼロではないが、煙もそうだが、強い匂いが残る。そういう臭気は感じなかった。

 経口摂取の可能性は残るが、口臭も正常。LSDのように無味無臭の薬物でも、流介には感知できる。

 犬飼が「俺よりも鼻がきく」と言った意味は、ここにある。

 流介の特殊能力ともいえるものだ。

 薬物の臭気──残り香、口臭、汗に混じった匂いも逃さない。

 麻薬取締官としての、最大の武器。

 それが「シロ」と告げている。

 マネージャーの心配具合からも、佐賀亮に薬物をすすめるような人間とは判断できない。『さ』──佐賀亮は、調査対象からはずしていいだろう。


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