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3.69時間前
表通りに出た『さ』のマネージャーは、タクシーを拾おうとしていた。が、なかなかつかまらないようだった。深夜一二時に近い時刻では、そんなものだろう。
かなり苛立っている様子がうかがえる。もう携帯はしまわれていた。急ぎの用事でもできたのだろうか。
流介は、尾行方法に考えをめぐらせた。
あのマネージャーがつかまえられないのなら、自分も同じようにつかまえられないだろう。彼が出発してからタクシーを拾うのでは遅い。さきに乗車しておく必要がある。
流介は、マネージャーから──通りの進行方向とは逆へ距離を取った。理想をいえば、自家用車で調査できればいいのだが、いまの流介に運転は不可能だ。とある事情で、つねに危険がつきまとう。
白い鳥。
飛んでゆく。
「よお、久しぶりな、ヤク中野郎」
ふいに、声をかけられた。
聞いたことのある声だったから、あえて振り向くことはしなかった。
「あのビルで、なにしてた?」
「おまえには、関係のないことだ」
「おい、てめえはもう、一般人なんだ。一般市民は、われわれに協力する義務があんだよ!」
わざとチョイスしたのだろうが、「われわれ」という言葉づかいに違和感があった。
「おまえのほうこそ、一般市民を守り、いたわる義務があるんじゃないのか?」
そこではじめて、声のほうを向いた。
大男が、そこにいた。身長は、二メートル以上あるだろうか。幅も太い。体重は、ゆうに一〇〇キロを超えているだろう。だが、肥満体系ではない。鍛え上げられた凶器のごとき巨漢だった。
「てめえは、善良な市民じゃねえだろうよ、朝霧!」
「おまえも、善良な公務員じゃねえだろ、犬飼?」
巨漢の名前は、犬飼甚八といった。
こんな乱暴な男が公務員としてやっていけるのなら、その職業はおのずと限定されてしまう。
「いまは、どこの署だ?」
「うっせえ! 落ちぶれ探偵にとっちゃ、どうでもいいだろ」
流介の知っている最後の赴任地は、八丈島だった。
「また、飛ばされたのか?」
「戻ってきたんだよ!」
この男は、警視庁所属の警察官だった。
おもに、生活安全課や組織犯罪対策──むかしでいうところの、マル暴に配属されることが多かった。本庁にいたこともあると記憶している。
しかし、どこに配属されても問題をおこし、そのたびに、いろいろな場所に飛ばされている。同じところに半年間いたためしがない。短いときには、一ヵ月で勤務先が変わる。
通称、渡り鳥ならぬ《渡り犬》と呼ばれるほどだ。
僻地に飛ばされても、懲りない。
もう飛ばすところがない、と上司が嘆いていたという冗談を、警察関係者から聞いたことがある。
ここにいることを考えれば、どうやら二三区内にはいるようだ。
「いまは、白と黒、どっちをやってる?」
流介は訊いた。
「グレーだな」
犬飼は、二択以外を答えた。
それはつまり、二つが混ざり合っている。
『黒』であって『白』でもあるということなのか……。
「一人で張ってたのか?」
わかりきっていることだが、そう問いかけた。この男とコンビを組みたがる刑事などいない。
本来、警察組織というところは、単独捜査をよしとしない。だが犬飼の場合、例外がつねにつきまとっている。
「おい! 質問してるのは、俺のほうだ」
苛立ったように、犬飼は声を荒らげた。だが気をつかっているのか、まわりには聞こえないように声量はしぼっている。『さ』のマネージャーの耳には届いていないはずだ。
チラッと、流介はマネージャーのほうに視線をはしらせた。やはり、こちらには気づいていないようだった。
「まだ調査をはじめたばかりだ。話せるようなネタは持ってない」
瞳を戻して、正直に告げた。
「つきあってやってもいいぜ」
犬飼が、気持ち悪いことを言い出した。
「てめえは車、転がせねえだろ? タクシー代わりに乗せてやるよ」
「なにをたくらんでる?」
「いいのか? 行っちまうぞ」
犬飼の言うとおり、マネージャーは、ようやくタクシーをつかまえたようだ。いままさに、乗り込もうとしていた。
「どうするよ、おい」
「わかった。乗せてもらおう」
犬飼の乗る覆面パトカーで、タクシーを追った。車内は、はち切れんばかりに窮屈だった。
しばらく、心地の悪い沈黙が続いた。いや、その時間は、ほんの一分ほどだったかもしれない。
「てめえは、俺よりも鼻がきくからな」
沈黙を嫌ったからとも思えないが、犬飼のほうから口を開いた。
犬飼──『犬』である自分よりも鼻がきくという冗談を言ったのだ。この男は、おもしろくもないジョークをよく飛ばす。
「『白』に吸い寄せられる」
「おまえは『黒』だな。限りなく『黒』に近い警官だからな」
流介は、皮肉を返した。
白と黒を意味するのは、簡単な連想ゲームだ。
白は薬物。
黒は裏社会。
白と黒は密接に関係している。いまもむかしも、暴力団やマフィアなどの黒い世界においては、薬物売買が最も安定した収入源だ。
「どこの組織を追ってる?」
「腐りきったところだよ。ヘドが出るほどにな」
心の底から、そう思っているようだった。
「あつかってるのは、スピードか? チャイナ・ホワイトか?」
「いろいろだ。マリファナぐらいなら、まだかわいいんだが」
「それは、聞き捨てならないな」
流介は言った。大麻は、麻薬のなかで一番手軽に使用されるものだ。ゆえに、一番手軽に売りさばける。
外国では、合法のところもある。大麻を使う人間の言い訳で、よくこういうのがある。
『大麻なんて、タバコと同じ。むしろタバコのほうが有害かもしれない。大麻を禁止にしている日本のほうがおかしいんだ』──と。
それを認めるわけにはいかない。
日本のほうがおかしいのではなく、容認している諸外国のほうがおかしいのだ。
かつてアメリカは、大麻解禁令を出したことがある。大麻を認めることで、それ以上のハードドラッグの乱用を抑えられると主張して。結果は、大失敗。大麻を入り口にして、より重いドラッグに人々はハマっていった。米国の薬物汚染は、さらに深刻化してしまったのだ。
タバコのほうが有害、という論理も、そもそもアメリカが言い出したことだ。一九六〇年代、政治家やその家族にも大麻は広がっていて、容認せざるをえなかったというだけにすぎない。
大麻がタバコと同じ?
だとしたら、タバコも禁止にしたほうがいいのだ。
流介は麻取時代に、よくこういう願望的主張を繰り広げていたものだ。
おれがこの国の独裁者になったら、真っ先に『禁煙法』を施行するんだ、と。
「その組がさばいたブツが、アルバトロスに流れているのか?」
「アルバトロス?」
犬飼は、アルバトロス、という名を知らないように言った。とぼけているのか、本当に初耳だったのか。
「あの芸能事務所だ」
「そうか、そんな名前なのか」
「おまえはどういうルートで、アルバトロスに行き着いたんだ?」
「それは言えん」
犬飼がブレーキを踏み込んだ。前方でタクシーも停車していた。表参道駅にほど近い。どちらかといえば、裏通りになるだろうか。この時間では人の姿はほとんどなく、店のネオンだけが煌々と灯っている。
『さ』のマネージャーは、一棟の雑居ビルに入った。表参道に似つかわしく、洒落たデザインの外観が印象に残りそうだった。雑居ビル、と呼ぶのもためらわれる。かわりに、なんと呼べばふさわしいのか、流介には思い当たる言葉がなかった。
「行ってみようぜ」
犬飼のほうが、むしろ乗り気だった。
わきに車を寄せると、運転席の犬飼のほうがさきに降りた。流介が車外に出たときには、ビルの入り口に踏み入れようとしていた。
マネージャーは、エレベーターで上がっていったようだ。
何階で止まるのかを表示灯で確認した。
五階。最上階だった。案内板を確認する。五階はバーになっているようだ。
「どっちで行く?」
犬飼に訊かれた。
「おれは、階段で行く」
「じゃあ、俺はエレベーターだ」
そこで犬飼と別れた。
こういうビルの場合、エレベーターを降りてすぐに店があり、調査対象者と鉢合わせをする可能性がある。いや、最悪のケースは、店のなかに直接つながっているタイプだ。ここのように尖鋭的なデザインビルならば、充分ありえる。
心の準備ができていない状況で対象者とかち合えば、わずかな表情の変化から、相手の記憶に残ってしまうかもしれない。そんな人間が二人いっしょにいれば、なおさらのことだ。
それぞれが別行動をとれば、到着する時間がちがうし、どちらかの顔を覚えられても、もう一人は記憶には残らない。
自分の顔は、もしかしたら事務所にいるときに見られているかもしれない。それでも不用意に接触するのは避けたほうがいい。今後の調査のためにも。
流介は、意識して急ぎすぎないように、ビルの外をつたう非常階段を昇っていった。
五階。扉を開けて、ビル内に入った。
すぐそこがエレベーターホールになっていた。店のなかに直接通じているタイプではなかった。バーの入り口が眼に入った。犬飼の姿はない。エレベーターを待つ二人組の若者がいるだけだ。
犬飼は、さきに入店しているはずだ。
と、入り口扉に、会員制と記されていることに気がついた。
犬飼には警察手帳という伝家の宝刀があるから、こういうときには困らない。しかし流介の持つものといえば、探偵、と明記された頼り無い名刺ぐらいだ。
思わず、不精髭を指で撫でていた。困ったときの癖だ。
すると──店内から、ガシャン、という甲高い破裂音が響いてきた。男の怒声も聞こえた。
流介は、扉のノブに手をかけた。