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29.9時間前
探偵事務所は、警察に張られていた。昨夜の連中の一派だろう。発表とはちがい、死体はみつかっていないはずなので(あたりまえだが)、彼らも生きている可能性を考えているはずだ。
次に、めぐみの病院へ向かった。が、そこにも警察の眼があった。めぐみとの関係は、調べられているようだ。
強攻突入をして敷地内に入ってしまえば、むこうは手を出すことができない。しかし、わざわざ生きていることを知らせる必要もない。
仕方がないので、アルバトロスへ行った。ここと新庄会が密接な関係であった場合、警察へも情報が筒抜けになる可能性がある。念のため、すぐ前にはつけず、少し離れた路上に車を停めさせた。
道のことは知らないと自信なさげだったにもかかわらず、沢村はそつなく運転をこなしてくれた。
「悪いが、頼まれてくれないか?」
運転手としてだけでもありがたかったが、流介はさらなる仕事を依頼した。
沢村は、それも快く承諾してくれる。
「本当にいいのか?」
「まかせてください」
「いや……沢村さん、あんたは、無関係の人間だ。おれといっしょに行動する義務はない」
「乗りかかった船です。それに、どうせ日本での仕事はありませんし、暇なんですよ」
仕事の内容はこれまでの時間で聞かされていたので、そうなんだろうな、と思うことしかできなかった。
「じゃあ、頼む」
「はい」
屈託のない返事を残して、沢村は車を出た。アルバトロスのなかへと向かう。
彼には、社長の恩田か、秘書の赤井に会って話をしてくるよう、お願いした。朝霧探偵事務所の人間だと嘘をついて、死んだ朝霧流介のかわりに、自分が調査を受け継ぐ──と。
あくまでも生きていることは、伏せておくつもりだった。
そのほうが動きやすい。そして、身の危険を少しでも減らすためだ。
こうなったら、なんでも利用してやるつもりだった。
沢村の協力もそうだし、敵がつくってくれたこの状況すら、こちらの有利に使わせてもらう。
流介は、アルバトロスの自社ビルを眺めた。この芸能事務所には、なにかある。
なぜ、犬飼はここを見張っていた?
なぜ、ショージはここに潜入した?
犬飼は不良警察官とはいえ、拉致をしかけてきた刑事たちの一派であるという可能性は、極めて低い。
秋山の調べあげた一連の事件の流れは、沢村から耳にしている。自白剤で虚ろだったが、刑事たちとのやり取りからも推し量ることができる。
それを真実だと仮定しよう。
そんなことをする警官は、本来の一般感覚からいえば、許すことのできない汚職警官ということになる。しかし警察組織の常識からすると、正反対の見解となってしまう。
警察のために裏金を稼いだのだから、それは正義となる。つまり彼らは、組織に忠実な模範警官ということになってしまう。
犬飼は上司を上司とも思わないし、同僚も仲間だとは考えない。たとえ犬飼がそういう一線を越えたとしても、それは警察組織のためではなく、自分自身のためのはずだ。
では、アルバトロスには、なにがあるのか?
ショージが潜入先に選んだとなると、麻取も眼をつけていたことになる。
(デザイナー……)
響野千鶴とショージが同じものをターゲットにしていたのかまでは不明だが、麻薬取締部は警察のように大所帯ではない。おそらく同じものを追っている。ということは、デザイナーはアルバトロスの近くに……。
事務所の前には、人だかりができているようだった。人気のタレントでもいるのだろうか?
沢村は、三〇分ほどで戻ってきた。
「どうだった?」
「いやあ、なかに入るのも大変でした。なんだか、ワイドショーのリポーターが大勢押しかけているみたいで」
流介の脳裏に、佐賀亮の騒動が思い起こされた。
きっと、あれが表沙汰になったのだ。
「社長には会えたか?」
「社長さんは、不在みたいです。赤井さんという人に会うことができました。言われた通りにやりましたけど、あまり自信ありませんよ」
「反応は?」
「朝霧さんが死亡したことに、とても驚いていました」
「信じてたか?」
「そうだと思います。なんせ、警察から発表されていることですから」
「いや、あんたが探偵だってことを」
「……どうでしょう」
不安げに、沢村は声をあげた。
「このあとは、どうしますか?」
「千代田区役所に向かってくれないか」
「いいですけど、区役所になんの用があるんですか?」
「用があるのは、役所じゃない」
「では……?」
「関東信越厚生局麻薬取締部」
九段にある区役所も入った合同庁舎の一七階に、麻取はある。
「わ、わかりました」
昨日の捕り物で、ショージの潜入が解けている可能性がある。
どこまでやるつもりかわからないが、徹底的にやるタイプの取締官ならば、整形で顔を変えることもありうる。いや、そうする覚悟がなければ、芸能人になるというような前代未聞の真似はしないだろう。
ならば、こちらから見分けられるうちに、会っておきたかった。
30.7時間前
ビルに近づく男。内堀通りの歩道。
スーツ姿。髪を七三に分け、まわりの通行人たちに溶け込んでいる。風貌から、区役所にでも行くのだろう──普通は、そう発想するものだ。
「ショージだな?」
朝霧流介は、男の前に立ちふさがった。となりには沢村もいる。
「……やっぱり、生きてたんですね」
「幽霊かもしれない」
「そうかもしれないですね……背筋が、ゾクリとしてきました」
丁寧な言葉づかいで、男は冗談に応じた。クラブ『フェニックス』で会った印象とはちがう。これが、本当の彼なのかもしれない。
「悪いが、つきあってくれないか。おれは、あまり人に見られたくない」
男──ショージを、車まで案内した。後部座席に招き入れると、流介自身は助手席に座った。沢村は運転席に。
スポーツカータイプなので、とても窮屈そうだったが、ショージからの不平は出なかった。そういう空気でもない。
「もう潜入は終了か?」
「私のほうは……。昨夜の段階で、あなたにバレたことがわかりました。いっしょにいた杉浦梨花さんと佐賀亮くんに話をされたら、もうショージとしてはいられません」
「杉浦梨花に容疑をかけようとしたのは、失敗だったな。それをしなければ、おれはだれにも言わなかった」
「元取締官だからですか?」
それには、答えなかった。
そう言われればそうだし、ちがうともいえる。
彼らの仕事の邪魔だけはしたくない。とくに、おとり捜査というものは、つねに危険がつきまとう。自身でも苦い経験がある。元取締官という経歴でなくとも、事情さえ知っていれば、その判断をくだすだろう。
が、なんの落ち度も(ああいうパーティに行くということはべつにして)ない人間が無実の罪でおとしいれられようとしているのなら、黙ってはいられない。
「彼女には悪いと思いました。しかし、いい社会勉強にはなったでしょう?」
「ふざけるなよ」
「あなただって、わかるはずだ。ああいう大がかりな捜査で、いざ踏み込んで、なんの成果もなかったら、それまでの苦労が無駄になってしまう。いえ、本当になにもなければ、それでいい。ですが、『検挙できる人間がだれもいなかった』なんてくだらない理由で、そんなことになってしまったら!」
ショージ……だった男は、七三分けが似合わないほどに激昂した。
「で、どうだった?」
「テレビを観れば、わかるでしょう!? やってるのは、あなたのニュースと、佐賀の騒動だけですよ」
「空振りか」
「そうです。生贄にできそうな人間はいませんでした……おかげさまで、みんな『大物』ばかりでしたよ」
「売人や店の従業員は?」
「それは、今回の標的ではありません」
「どういうことだ?」
すぐに、思い至った。
「千鶴か?」
「そうです……千鶴さんの手引きで、みんな逃がしています」
それはつまり、昨夜の捕り物が使用者だけにしぼられたものだということだ。クスリを流している側への検挙を目的としていない。ということは、まだ潜入は継続されているということになる。
ショージが最初に、私のほうは、と言った意味がわかった。
「デザイナーか? そいつを追い詰めるためだな?」
「ええ。店の連中や売人を逃がしたことで、千鶴さんへの信頼は、ゆるぎないものとなりました。本丸への道も開けます。正体すらわからなかった相手への道が……」
本丸──千鶴が追っているドラッグデザイナーとは、いかなる人物なのか?
そこまでの仕掛けをしなければ正体すらわからなかったとなると、恐ろしいほどに巧妙で狡猾、用心深い人間なのだろう。
「これで千鶴さんは信用され、必ずやデザイナーまでたどりつけるはず……」
確信をもっているように、ショージは言った。
「おまえは、どうするつもりだ?」
「どういう意味ですか?」
「顔を変えるのか?」
「そうなると思います。いいですよ。この顔に愛着はありません」
それは嘘だと、直観的に感じ取っていた。
「そこまでする必要があったのか?」
「あなただって、ずいぶん無茶なことをしてきたんでしょう? 千鶴さんから聞いていますよ」
「あの女ほど異常じゃない」
本音だった。
「それもそうですね」
ショージも驚くほどあっさりと、それを認めた。
額に浮いている汗が、外からの陽光に照らされていた。どこか、落ち着きもない。身長の高いショージにとっては狭い場所だから、閉所恐怖症とも疑うことができる。
しかし流介には、その変調の原因がよくわかった。
「話は終わりですか? でしたら、もう降ろしてください」
流介は助手席のドアから外へ出て、シートを前に倒した。ショージが続く。そのまま歩き去ろうとしたショージの肩を、流介はつかんだ。
「まだなにか?」
「おまえ、やってるな?」
「……」
「いい病院を紹介してやる」
「知ってますよ、あなたの恋人がいる病院ですよね」
「そこへ行け」
「私なら、大丈夫ですよ。自分でなんとかできる」
そう言って、できなかった人間を、何人も知っていた。
「顔を変えたら、きっと転勤です。べつの厚生局で、のんびりやりますよ。もう、あなたに会うこともない」
一つのおとり捜査を仕上げた者は、ちがう局へ移動するのが通例だ。だが、たとえ地方に行ったとしても、忙しさや危険度が消えるわけではない。関東信越地区よりはマシだったとしても、ストレスが無くなるわけではない。日本全土が麻薬に汚染されている現状では、取締官が休める場所など、どこにもありはしないのだ。
去っていくショージの後ろ姿を、流介はただ見送った。
それは、かつての自分の姿であり、もし麻取を続けていたとしたら、まぎれもなく現在の自分自身なのだ。
木菟引きが、木菟に引かれた。
潜入の過程で、薬物を摂取しなければならない状況がないともかぎらない。そこで拒絶したり、ためらったりしたら、命の危険にさらされる。ときには自分だけでなく、仲間の取締官におよぶことも……。ショージは、まさしく自分の身を犠牲にしている。
一度、中毒に陥った者に、安息のときはない。治ったと思っても突然のフラッシュバックで、また薬物を求めてしまう。完治はしない。重く、禍々しい爆弾を抱えながら生きていくしか……。
一生を──。
「朝霧さん?」
沢村の呼びかけで、われを取り戻した。
流介の胸中に去来したのは、ある思いだった。
(おれも、いっしょか……)