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2.70時間前
一階が玄関ロビー。
二階が事務所、三階が衣装の保管庫。
四階が社長室をはじめ、幹部の専用室。仮眠室や休憩室などもある。
五階はイベントスペースになっていて、小さなパーティや、撮影会などができるようになっているそうだ。
「まあ、上はまだ一回も使ったことはないんですが」
赤井から、このビルの説明をうけていた。
二流ホテルの、と形容したことはまちがいではなかったようだ。実際に三年前まで、ここはホテルだったという。潰れたここをアルバトロスが買い取り、三ヵ月前に改装工事を終えたばかりだそうだ。
「あ、そうでした。木曜日の夜に、初めてここでパーティを開催するんです。創立二〇周年と事務所移転記念をかねて。朝霧さんも、どうですか?」
この男は、本気で言っているのか?
流介は、自分の服装をあらためて確認した。
「いや、遠慮しとく」
木曜日といえば、三日後。場違い、という以外にも、調査をその日までに終わらせなければならない。
「そうですよね、忙しいですよね」
なかを案内したいと赤井は申し出てくれたが、人目につきたくはなかったので、避難通路のようなところから出入りはできないか、と流介は提案した。
四階から非常口の外へ連れ出された。
突然、まっ暗闇が襲ってきた。
「驚くでしょう」
赤井の声だけが耳に届く。
ここが東京のど真ん中だということが信じられない。
「となりのビルとの関係で、まったく光が入らない構造になってるんですよ」
非常階段は、剥き出しの鉄骨階段のようだった。改装したばかりなのに、ここだけがやけに時代錯誤だ。
「いや、お恥ずかしい話、ここだけ設計ミスで、むかしのままなんですよ。足元、気をつけてください」
階段を降りていく。コツ、コツ、という寂しげな音だけが、頼り無げに響く。
三階……、二階付近にさしかかったあたりで、階段全体が大きく揺れだした。
「あ、ここから、とくに気をつけてください! かなりガタがきてますから」
どうやら、壊れかけているようだ。避難用の階段がこんな状態だと、どこかのお役所から査察が入りそうだ。
「近々、ここも造りなおす予定です。ちゃんと内部階段もありますから、災害などで逃げるときには、そちらをお使いください」
それでは、避難階段の意味を成していないのだと思うが……。
「ここから入ります」
二階非常口の前で立ち止まった。ただ、うっすらとしか見えないから、ここが本当に二階なのかという確証は、流介にはない。
赤井は鍵を使って、扉を開けた。
「もちろん、これ無しでは、なかからしか開けられませんので、あとでスペアキーをお渡ししますね」
外からくらべると、充分に明るい廊下を抜けていく。
もうすぐ夜十一時になるはずだ。しかし事務所のなかは、まだ人の姿が多く見られた。流介は、隠れるように小さな会議室のようなところへ入った。
すぐに赤井が、この事務所の所属タレントが載っている小冊子を持ってきて、大まかな説明をはじめた。
このアルバトロスは、もともと男性モデル専門の事務所だったという。それが数年前から、テレビの世界にも進出して、いまではそちらのほうがメインになっているそうだ。やはりモデル出身の男性タレントが強く、最近では人気俳優も多く輩出している。
「いま問題になっている加納正……彼は、うちじゃありませんけど、モデル出身の俳優です」
赤井は憂いを隠すことなく、そう言った。
つまり、加納正に類似する「モデル上がりの俳優」を疑っているようだ。
「これが、佐賀亮です」
小冊子のとあるページを開いて、一人の写真を指さしていた。
顔だちはさわやかなのに、むしろ険しい表情をとっていた。そういう路線で売っているのだろうか?
年齢は、二八歳となっている。
「モデル時代、加納正とは同じ雑誌で活躍してました」
「仲はよかったのか?」
「たぶん、よかったと思います。必要でしたら、マネージャーに確認させましょうか?」
「ダメだ」
「え?」
「調査するのは、ここの人間なんだろ?」
その意味を、赤井は理解できなかったようだ。
「それとも、ここに所属しているタレントだけでいいのか?」
「そ、それは……裏方の人間も調べる、ということですか?」
「そこから流れている可能性もある。だれも信用するな──こういう捜査の鉄則だ」
流介は、捜査、という単語が自分の口から出たことに、軽い驚きをおぼえた。まだ麻取時代の感覚が、心のどこかにわだかまっているのか……。
「おれを雇ったことを知っている人間は?」
「ま、まだ社長と私だけです……」
「なら、だれにも言うな」
「は、はあ……」
「ほかに、あやしいのは?」
「か、彼も……注意が必要です」
赤井が新たに指さしたのは、佐賀亮とはちがい、明るい笑顔で写っている人物だった。
「バラエティ番組を中心にブレイクしている、ショージです」
「おれでも見たことがある」
「でしょ。バラエティは単価が安いんですけど、そのぶん、ショージは数をこなしてますから」
なるほど。テレビなんて環境ビデオのように、ただつけているだけなのに、それでも知っていたのはそのためか。
「元、不良少年だったとか?」
「いえ、とても真面目な青年です。大学も出ています。ですが最近、とくに忙しくて、休みも三ヵ月以上ないんですけど……マネージャーの話によれば、まったく疲れてる姿を見たことがないそうなんです」
「アッパー系をきめている、と?」
「せ、専門用語はよくわかりませんけど、とにかく薬物をやっているんじゃないかと……」
流介は一瞬、吹き出しそうになった。麻取が使う専門用語でもなんでもない。若者が言いそうなことを、それらしく口に出しただけなのだ。
薬物は、気分が高揚するものと、逆に落ち着くものの二種類、そしてさらに、幻覚作用を重視したものの計三種類に大別できる。
アッパー系、ダウン系(もしくはダウナー系)、サイケデリック系という分け方を、その世界に浸っている人間はしているようだ。
興奮を誘うもの──アッパー系は、覚醒剤やコカイン・クラックなど。鎮静効果のあるダウン系は、ヘロインやモルヒネのようなケシから精製されるものがあげられる。
サイケデリック系の代表格は、LSDだ。
そのほかの有名どころでいえば、MDMAはアッパー系という見方と、サイケデリック系だと主張する派閥に分かれている。が、興奮作用を実感できても、幻覚を見ることは稀だ。
もう一つの超メジャーどころ、大麻は、ダウン系ではあるが、サイケデリックの側面もある。ただしどちらにしろ、その他の薬物よりも効果は薄いので、体調の変化を感じる度合いは少ない。マリファナでもハシシでも、個人差はあるが、ほのかに陶酔する程度だ。
疲れているときに、そのテの人間から「栄養剤だから」と、すすめられるのが、アッパー系。
精神がすり減っているときに、そのテの人間から「安定剤」と言ってすすめられるのが、ダウン系。
若者が、おもしろ半分でやってみるのが、サイケデリック系──ということになる。
「要注意人物は、それだけか?」
「あ、いえ……」
赤井は、さらにページをめくっていく。
そこには、女性たちの写真が載っていた。
「うちには女性タレントも所属しています」
赤井の説明では、社長がいま一番、力を入れているのが女性タレント部門だという。しかし男性部門とはちがい、ノウハウがないために、かなり苦戦をしているようだ。
「そのなかでも一押ししてる子が、彼女です」
杉浦梨花という女性だった。清潔感のある美女だ。
「見た目とはちがって、素行に問題があります……あ、これは、ここだけの秘密にしておいてください」
言われるまでもなかった。
「何度も注意してるんですが、タバコは吸うわ、酒は飲むわで」
プロフィールの欄を見て、酒やタバコで、うるさく言う理由がわかった。一七歳。まだ未成年というわけだ。
「プライベートでも、ガラの悪い連中とつきあっているという噂も……」
流介は、三人の顔と名前を頭に焼きつけた。メモを取るようなことはしない。調査をした痕跡も残さないのが流儀だった。
佐賀亮。
ショージ。
杉浦梨花。
偶然にも、さ、し、す、と続くので覚えやすい。隠語としてそのまま、さ、し、す、と呼ぶことにするつもりだった。
では、まず『さ』からだ。
『さ』のマネージャーは、この時間でも忙しそうに、次から次へと電話をかけていた。デスク上の固定電話を使ったかと思えば、今度は携帯でかけはじめる。こんな時間に連絡を取り合う場所など、そんなにあるものだろうか。
遠目からそれを眺めていると、赤井が耳元で囁きかけてきた。
「この業界、時間はとても不規則ですから、打ち合わせが深夜になることもザラなんですよ」
「彼は『さ』以外に、担当している人間はいるのか?」
「いいえ。まだ駆け出しの子はちがいますけど、売れっ子になったら、うちでは専任のマネージャーがつきます。佐賀亮クラスで、かけもちということはありません」
赤井は、そう答えた。隠語の呼び名のことは事前に伝えてあるので、会話はスムースに進んだ。赤井にも『佐賀亮』ではなく、『さ』と呼んでもらいたいところだが、そこまで望むのはコクだろう。
携帯を耳にあてていた『さ』のマネージャーが立ち上がった。
カバンを手にすると、話しながら部屋を飛び出していく。帰宅するためなのか、それともまだ仕事があるのか。
「案内は、ここまででいい」
マネージャーのあとを追うつもりだった。まずは本人よりも、一番身近な人間の素行を調査するつもりだ。
「わかりました。なにかあったら、いつでも電話をください。二四時間、いつでもいいです」
赤井の言葉を背中にうけると、非常口へ急いだ。社員と同じようにエレベーターで降りるわけにはいかない。できるかぎり、人目を避ける。
不安定すぎる非常階段を降りた。そこは表通りではなく、人影のない路地だった。ビルの裏から出るようになっているらしい。階段上のように暗すぎるということはなく、ちゃんと街灯の光が照らしている。
流介は路地を進み、表通りに出た。