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24.これまでのこと
警視庁近くで、沢村洋士は、ある人物に呼び止められた。
「あれを返してもらう」
「は、はい?」
それは、女性だった。
初めて見る……いや、どこかで見覚えのある?
どちらにしろ、整った顔だちの女性だ。
しかし淑女というよりも、男勝りなイメージが強い。
おそらく長いであろう髪の毛を束ね、美貌を隠すようにキャップを目深にかぶっている。
どうやら勘違いのようだ。この女性とは、初めて会う。記憶をさぐりだしてみても、みつけられなかった。こういう女性なら、必ず覚えているはずだ。
「とぼけるな、おまえに預けた」
しゃべり方まで、男性のようだった。声質だけが、美しい。玲瓏と響く鈴のような。
ただ、わざと低く出しているのか、聞きようによっては、声の高い男性のようにも感じてしまう。不思議な楽器のようだった。
「あなたは、だれですか?」
当然の言葉が、口をついた。
「おまえ、リュウさんに興味をもったな?」
女性は質問には答えず、逆に問いを返してきた。
リュウさん……。
だれのことを言っているのか、すぐにわかった。
「朝霧……流介さんのことですか!?」
そして理解した。
書類と、覚醒剤のようなものを落としたのは……!
いまのいままで、男だと信じて疑わなかった。たしかに落とし主の人相がわからなかったのだから、それが女性であっても不思議ではない。
「事務所まで行ったな?」
まるで男のような口調のまま、そう詰問された。まさか、あとをつけられていたのだろうか。
男勝りな女性は抱いた疑問をあざ笑うかのように、不敵な笑みを浮かべながら身体を密着させてきた。
スーツのポケットをまさぐられた。
「ほら」
彼女が取り出したのは、一本のボールペンだった。これが、なんだというのだろう?
「見覚えあるか?」
そう訊かれても、よくわからない。文房具類なんて、知らないうちに、いつのまにかポケットのなかに入れてしまうこともめずらしくはない。それが自分のものなのか、そうではないのかなんて、はっきりしないことのほうが多いのではないか……。
洋士は、首を横に振った。というより、そう行動するように誘導されたようなものだ。
「これには、GPSが仕込んである」
「これも、あなたが?」
「そういうことだ」
どうやら、自分のいる位置を完全に把握されていたようだ。
一つの疑念が浮かんだ。
こんなものまで仕掛けたとなると、書類を落としたのは意図的だったということになる。
自分に拾わせて、あとで回収するために──。
(なんだか、ヘンな話だ……)
そうだ、不可解だ。
「なんで、こんなことを……?」
これもまた、当然の疑問だ。
「場所が場所だから、移動しよう」
彼女に先導されるように、夜道を歩き出した。横断歩道を渡り、めざしているのが日比谷公園だと予想できた。公園に入ると、眼についたベンチの前で立ち止まった。おたがい、腰掛けることはしなかった。
「あなたは、何者なんです!?」
沢村のほうから、言葉をぶつけた。
「オレは、リュウさんの友人だ」
「なぜ、ぼくにあれを拾わせたんですか!?」
「べつに、だれでもよかった。たまたまだ。オレが警視庁をはってたときに、何度か見かけていた。おまえ、ここ何日か、ここらあたりをうろついてるな。気をつけろよ、たぶん公安あたりが警戒しているはずだぞ」
彼女にそう言われて、少しゾッとした。
たしかに、自分の行動は挙動不審だ。警視庁(実際には、となりの警察庁だが)の周辺をうかがうようにさまよっていたのだから。
そのスジの者が眼にしたら、テロリストだと疑われても、やむをえないことだ。
「ある刑事から隙をはかって盗み出したんだが、さすがにデカが相手じゃ、こっちもヤバくなったんで、おまえを利用させてもらったんだ」
「あれを……警察官が!?」
「そうだ」
「あれは……なにかの違法薬物ですよね!?」
「そういうことになる」
「なんのために……警察官が、あんなものを」
「リュウさんをハメるためだ」
「どういうことですか!?」
「それを聞けば、おまえも狙われることになるぞ」
そう言われて一瞬、躊躇したが、自分のなかでも、もう引き返せない、という思いが強いことを知った。
「かまいません」
その答えを聞いて、彼女はわずかに笑みをみせてくれた。
すぐに消えたが。
「リュウさんが、元麻取なのは知ってるな」
「は、はい」
事務所まで足を運んだことがバレているのなら、書類を読んでしまったこともバレているはずだ。
「警察の内部に、いろいろと膿がたまっていることは、おまえでも想像がつくだろう。不祥事の隠蔽、証拠のでっち上げ、不法捜査。だが、そんなものはまだかわいい」
「……?」
女性がなにを言おうとしているのか、皆目見当がつかなかった。
「いまのあそこは、もっと腐りきってる」
彼女の視線が、上がった。
ここからでは、最高検などが入る中央合同庁舎に阻まれて眺めることはできないが、きっと彼女の眼は、そのむこうの警視庁本庁舎に向けられているのだろう。
「何年かまえに大きく取り沙汰された裏金問題……そのこともあって、最近では、なかなかむかしのようにはつくれないらしい。外からの監視もあるからな。経理を操作するのも簡単にはいかない。そこで上の幹部連中は、どうしたと思う?」
突然、疑問形にされても、沢村には、ただあたふたと答えに窮することしかできなかった。
「経理の不正操作ができないのなら、資本主義の原理にのっとればいい。商業活動をして儲ければいいんだ。つまり、自分たちの『働き』で金を得ようとした」
その『働き』というのが、まともなものでないだろうことは、話の流れから容易に推測できた。
「警視庁管内で押収される違法薬物は、多いときでは年間一〇〇キロを超える。ヤツらはそれを少しずつ市場に流しているんだ」
「そんなバカな……」
「本当だ。いままでにも、警察官がそういう不祥事をおこしたことはあった。が、それは、ごく少数の不良警官による突発的なものだった」
そういう内容の警察不祥事は、たしかに沢村が日本にいたときから、たびたびニュースで報じられていた。アメリカでも、そのたぐいは多い。
「しかし、いまあそこから流されている薬物は、まったく意味がちがう。警察組織が、組織の活動資金を得るために、押収麻薬を市場に流しているんだ。それはあたかも、マフィアや暴力団がシノギを得ているのと、なんらかわらない」
「……」
「信じられないという顔をしてるな。だが、そんなバカ面をしている人間ばかりだからこそ、ヤツらは私利私欲のために肥太っていくんだ」
「あ、ありえません……警察が、そんな不正を……」
沢村は、呆然とつぶやくことしかできなかった。
「真実だ」
「警察が悪事をはたらいているとして、それがどうして朝霧さんを?」
「オレが、この情報をキャッチしたのは、一年ぐらい前だった」
女性は語りだした。何度耳にしても、オレという言葉づかいがしっくりこない。
「いつの時代にも、そういう警察機構の黒い噂はあるものだ。オレも最初は、そのたぐいだと考えた。だが取材するうち、じょじょに確信へと変わっていった」
不覚にも、そこでゴクッと唾を飲み込んでしまった。その音は、彼女にも届いたはずだ。
恥ずかしさより、話の続きのほうが気にかかった。
「まちがいないんですか!?」
「ない」
揺るぎない自信をもって、彼女は断言した。
「オレに察知できたのだから、ほかの記者たちでも真相に近づいた者はいる」
これまでの彼女の口ぶりから、その職業はジャーナリストやルポライターといった職種が浮かび上がってくる。
「警察にまつわる黒い金の流れ……いや、白か」
その『白』が麻薬を指していることは、すぐにわかった。不謹慎だとは思わなかった。
「いつしか、その白い金の流れのことは『パウダーマネー』と呼ばれるようになっていた」
「パウダーマネー……」
「警察もバカじゃない。そろそろ気づく者が現れるころだと悟ったんだろう。ここらが潮時だと。だからヤツらは、撤収をはじめようとしている。ここで決定的な確証をつかまなければ、すべては隠滅され、永久に疑惑は闇に葬り去られてしまう」
警察が本当に犯罪をおかしているとして、その犯行の痕跡を消されてしまったら、もうほかのどんな優秀な組織が調べあげようと、真相を明らかにすることは不可能になる。
いや……そもそも、そんな組織など存在しないのではないか。
(ちがう)
すぐに思い直した。
ことが薬物に関する犯罪というのなら、もう一つ捜査機関があるではないか。
「そこでオレは考えた。麻取を使うことを」
麻薬取締官──朝霧流介が、かつて勤務していた厚生労働省所管の捜査機関。
「……が、麻取に情報は流してみたものの、麻取が権力に押しつぶされないという保証はどこにもない」
たしかにそうだ。警察のどのあたりまで関与しているのかわからないが、もし相当上までいくとなると、警察官僚たちとの全面戦争ということになる。
そんな事態になる危険性を無視して、厚生官僚がそのまま突っ走ることを許すとも思えない。
「そこで、保険をかけることにした」
「それが朝霧流介ですか!?」
やっと、彼へと話がつながった。
「リュウさんなら、警察の中枢へも食いつける。いや、そんな人間は、あの男しかいない」
かつて《魔鳥》と呼ばれた最強の取締官。
「だがリュウさんでも、まともに正面からぶつかれば、簡単に消されてしまうかもしれない。なんせ、相手は警察そのものなんだからな」
その意味は、よくわかる。警察がその気になれば、ひと一人排除することぐらい造作もないことだ。
「だから、リュウさんに情報を教えるのではなく、敵である警察のほうに情報を流した」
なにを流したというのだ?
いまとなっては、完全に彼女の話の虜となっていた。
「朝霧流介は、まだ裏で麻薬取締部と通じている。しかも警察への捜査をかなり深くまで進めているぞ、と」
再び、ゴクリと喉を鳴らしてしまった。
「そうなれば、ヤツらは簡単には消せない。消すには消すだろうが、リュウさんがなにを知っているか確認してからのはずだ。案の定、ヤツらは動き出していた」
「あの書類は、警察が?」
「そうだ。いっしょに入っていた覚醒剤は、書類を持っていた男の懐から、オレがスリとったものだ」
警察官が、朝霧流介に関することが記された書類と、少量の違法薬物を持っていたのには、どんな意味があるのだ。覚醒剤は、たんに自分で使用するために所持していたのだろうか。
警察の人間でも、薬物に汚染された者はいるだろう。が、不用意に持ち歩いたりするだろうか?
(もしや……)
洋士のなかで、あの事務所荒らしの一件が思い起こされていた。
あれは、なにかを盗んだのでも、盗聴器を仕掛けたのでもない。
違法薬物を、朝霧流介の事務所に隠したのではないか。
そうすれば、薬物所持で、朝霧流介を立派な犯罪者に仕立てあげることができる。
沢村は、その推察を女性に伝えた。
「……たぶんな。そしてこれが、おまえが持っている覚醒剤のかわりだ」
女性が手のひらを広げると、そこには小さなビニールに入れられた、なにかがのっていた。
顔を近づけて、凝視する。公園灯に照らされて浮かび上がってくるそれは、いまではコインロッカー預けてある結晶体よりも、ずっと細かくて白い。
小麦粉のような……。
「同じものを用意できなかったからなのか……ヘロインだ」
「事務所に仕掛けられてたものですか?」
彼女が自分で嗜む趣味がないのなら、仕掛けられたものを彼女が回収した──と、みるのが妥当だ。
「仕掛けてる現場を目撃したのか?」
「いいえ、事務所から出てきた人間を見ただけです」
「そいつが、警察関係者から依頼されたんだろう。リュウさんの事務所が家宅捜索されたら、これが出てくるという寸法だ」
「そして、逮捕……ですか?」
「そうだ。あとは、好きなように取り調べできる。拷問しようが、自白剤を使おうが、どうせ消そうと思ってるんだからな」
「そ、そんな……」
「もし、なんの危険もないと判断したときは、一般の犯罪者と同じように刑務所へ入れるだけだ。取り調べで手荒なことをしていたとしても、ジャンキーの言うことなんて、だれも耳を貸さないからな。まあ、そんなわけだから、突然、拉致するような真似は避けるはずだ。あくまでも、通常逮捕で引っ張るだろう」
「じゃあ、朝霧さんは……」
「ああ。近いうちに身柄を拘束される」
「でも、仕掛けられていた麻薬は、あなたが取ってしまったんですよね?」
「些細な問題だ。ヤツらは、どんな手段を使ってでも、リュウさんの身柄を確保する」
沢村が、三たび唾を飲み込んだ。
彼女の話だけを一方的に信じるわけにはいかないが、警察が悪の側だったとしたら、これからの自分の取る行動にも注意が必要だ。
沢村は、決心した。
「あの……書類と覚醒剤は返します。でも、ぼくにもなにか手伝わせてください」
「本気か?」
「本気です」
「死ぬぞ。へたしたら」
「……覚悟の上です」