20
20.26時間前
響野千鶴とは、なんの会話もなく、ホール内で別れた。
「知り合いですか?」
佐賀に問われたが、流介は曖昧に返事をしただけだった。
昨夜とは内部の雰囲気が、だいぶちがっていた。
騒がしい若者の社交場──というよりも、大人が集う秘密の会合という趣がある。大音量の曲が耳を刺すこともなければ、リズムに急かされることもない。BGMは流れているが、ほどよい量で、しかもゆるやかだ。
一〇代の姿をさがしても、見当たらない。若い女性はいるが、一番下でも二〇代前半のように見受けられる。男の年齢も、本来のこの店には似つかわしくない。あきらかに、初老の紳士風も多い。
これが、『貴族会』の姿か。
ざっと見回してみたが、目的の二人の姿はない。ホールの人数は五、六〇人といったところだろうか。多いといえば多いが、通常営業のときとは桁がちがう。
「あの人……」
佐賀が、耳元で囁いた。
流介にも見覚えがあった。たしか、よくテレビに出ている弁護士だ。有名なIT企業の社長の顔もある。
それだけではない。若手議員の姿も、ちらほら。
「あの人は、俳優です。グラビアアイドルもいます」
流介が知らないと思ったのか、佐賀がほかの人物のことも教えてくれた。
「あら、亮じゃない」
とある女性に、佐賀が声をかけられた。
「あなたも入ったんだ」
佐賀は愛想笑いを浮かべて、その女性をやりすごしていた。
「けっこう有名な女優さんです」
やはり、そう補足してくれた。
「そんなヤバそうな雰囲気じゃないですね……」
「そうだな」
佐賀の言葉に、流介は感情を込めずに応じる。みな、アルコールは口にしているようだが、マリファナの煙がフロアを満たしているようなことはない。ホール内は禁煙になっているのか、タバコの煙すらない。
「上じゃないですか?」
流介も、見上げた。
二階部分は、VIPルームが設けられている。
たしか昨日は、厳重に黒服がガードしていたはずだが、階段前にはだれもいない。
昇ってみることにした。
佐賀と二人、慎重に上がる。
部屋は一〇室ほどあるようだ。
各部屋をまわってみたが、そこでは普通に酒を飲んでいたり、会話を楽しんでいたりするだけだった。
突然覗き込めば、なかの人間は不快感をあらわにしそうなものだが、そういう素振りもない。むしろ笑顔で挨拶を返されたほどだ。
「ちがい……ますよね?」
戸惑いがちに、佐賀はつぶやいた。警戒するべき集まりでないことを、彼自身も実感しているようだ。
『し』と『す』の姿も無さそうなので、ホールに降りた。
「梨花は、どこに……」
テーブル席にも、カウンター席にもいなかった。
一階にも二階にもいない、と結論を出した。
では、どこに?
「もう外へ出たってことですかね?」
その可能性もある。VIPルームから直接外へ出られる構造なのかもしれない。
まださがすか、あきらめるか……そう思案しながら視線をさまよわせる。
「ん? あそこ」
「どうしたんですか?」
流介の瞳がとらえたものは、『STAFF ONLY』と掲げられた立て看板だ。そこから先へは、一般客は通れないようになっている。
が、あきらかにスタッフでない人間が通過していくのが見えた。
「行ってみるか」
流介は足を向けた。佐賀もあとに続く。
短い廊下の先には、地下へ降りる階段があった。
「どうします?」
佐賀の問いに、流介は歩みを止めた。
階段の下、地下扉の前には、ゴツい体躯の男が一人立っていた。入り口にいた男たちよりも、さらに戦闘能力が高そうだ。
とりあえず、進むことを選んだ。
二人が近づくと、警護の男は両手を広げて、これ以上はダメです、と告げた。
「このなかは?」
質問をぶつけても、男は答えてくれない。
流介は、背後をうかがった。階段を降りてくる人間はいない。
一分以内に始末をつければ大丈夫だ。
流介は、問答無用に正拳突きを男の胸部に放った。
ゴツンと、硬質な響きが拳に伝わった。
なんと硬い骨なのだ。
男が笑ったような気がした。
一瞬で組まれた。襟と袖をつかまれる。
このままでは投げられる! 足をからめた。
だが、凄い力で持ち上げられた。
肘を振り上げて、思いっきり叩き落とした。
男の両手が離れた。
なんとか距離を取り、蹴りを打つ。
下半身に一発。脇腹に一発。
顔面に突き。
右、左、右。
屈み込んだところに膝を合わせる。
メキッ、とイヤな感触があった。頬骨か鼻が折れたはずだ。
男の身体が崩れた。
その隙に扉のなかに入り込む。
もしこの店が、なんの犯罪にも……麻薬の流通とはなんの関係もないのだとしたら、彼には謝らなければならない。
「す、すごく強いんですね」
いまの格闘を目の当たりにしたショックなのか、恐れをふくんで佐賀が言った。
だが結果はこうなったが、タイミングが一つずれていたら、扉の外で寝ころんでいたのは、自分のほうかもしれない。流介には、それがよくわかる。
地下のエリアは、部屋が五つほどあるようだ。廊下は薄暗く、空調の音しかしない。
一番手前のドアに近づいた。
背筋がゾワゾワと、騒ぎだした。
空気がちがう。なにかが、心を不安にさせる。
ドアは木製。手をかけた。
佐賀に、開けるぞ、という視線を送った。
佐賀は、ただうなずく。
開けた。
眼に飛び込んできたのは、数人の男女が全裸で抱き合っている光景だった。みな、ドアが開けられたことにも気づかない。情事に集中しているというだけではなさそうだ。
なにかしらのクスリをやっている。
部屋の臭気に異常はないから、服用するタイプの薬物だろう。
「いないな?」
『し』と『す』がいないかを、佐賀にも確認を取った。
「はい」
いまの自分は、取締官ではない。自分の依頼に関係のないことまでは、かまっていられない。
だがこれで、ここが「まとも」なところでないことが、決定的となった。上は健全な集まりなのかもしれないが、この地下が本当の『貴族会』の姿なのだ。
流介は、扉を閉めた。
次の部屋へ行く。
開けた瞬間、むわっと煙にまかれた。
大麻の臭気。
精神をもっていかれそうだ。
かなり、ヤバい。
まだ耐えらるか!?
佐賀に二人の確認をまかせて、流介は部屋から遠ざかった。
ほのかに甘さがあるのに、草っぽくて、独特な匂いがする。好きという人間もいるが、流介には臭く感じる。
それにしても、大麻にしては、かなり濃すぎるような……。
これが、めぐみの言っていた『バッズ』なのかもしれない。
「いませんでした。なんですか、この匂い?」
二つ目の部屋から、佐賀が出てきた。
流介は、それに答えなかった。もう余裕はなくなっていた。
三つ目のドア。
躊躇せず開ける。
二人が、そこにいた。
この部屋には、『し』と『す』の姿しかない。
「佐賀さん!?」
驚いたように、『し』が振り向いた。
最初の部屋のように、裸で抱き合っているということもなかったし、となりのように、大麻の煙に包まれているということもなかった。
「亮ちゃん……」
『す』も、顔を向けた。
「おまえ、こんなところに連れ込んで、なにをしようとしてた!? クスリか!? セックスか!? 目的はなんだ!?」
激昂した佐賀が、声を荒らげる。
「落ち着け」
「でも、朝霧さん!」
流介は、『し』と視線を合わせた。
「あんた、だれだ?」
「この人は、ピーちゃんよ。わたしのこと、つけまわしているみたいなの」
『ピーちゃん』呼ばわりには、もう慣れていた。
それに、いまはそれどころではない。
精神を張っていないと、あれがはじまってしまう。
「ショージ! おまえ、クスリやってんじゃないのか!?」
「それがどうしたんだよ。いまどき、だれでもやってんだろ」
佐賀の詰問に、『し』は悪びれもせず答えた。
「梨花、いいから来い! こんなところにいたら、ダメになるっ!」
佐賀は『す』の腕をつかみ、強引につれていこうとした。
「痛い! 放してよっ」
そのとき──流介の瞳に、一羽の鳥が映りこんでいた。
もちろん、幻覚だ。
白い鳥。
飛んでいる。
来る……発作が。
しかし、流介にはわかっていた。
この変調は、特殊だ。なにかがある……。
声が聞こえる。
部屋の扉は開いたままだが、それにしても鮮明に一階の騒がしさが伝わってくる。そんなはずはない。地下への扉は閉じているのだから。
それは、幻聴であり、幻聴ではない。
普通の人間の聴力では聞こえないはずのものが、この耳に届いてくる。
感覚が……五感すべてが、研ぎ澄まされていくのがわかる。
眼。漂う埃の一塵までをも、目視できる。
鼻。体臭、汗、床に塗られたワックスの匂いはもちろんのこと、外気に混じる汚染物質のわずかな腐臭まで。
肌。空気中で放電する、わずかな静電気の刺激。
舌。鉄サビを連想させる味。聞いたことがある。雷が落ちる寸前に、そういう現象がおこるものなのだと。微細な静電気を、落雷のように感じているのだ。
耳。佐賀の、『す』の、『し』の鼓動が激しく脈打っている。暴走したバスドラムの叩き、叩き、叩き!
体温が上昇する。
精神のタガが、はずれていく……。
狂う。
人間の領域を超え、べつのものになっていく。
この全能感は、罰だ。
あたえられた罰。いけないことには、罰があたえられる。
池の鯉が、宇宙を浮遊する。
ヒマラヤの頂上では、セミが拷問をうけている。
ミーン、ミーン!
蝶の羽化は、神が残した啓示。
遺跡のなかから、角を生やしたトカゲが叫んでいる。
世界の終わりだ──ッ!
いや、宝物はカオスにあるぞ!
異形の黙示録!!
(な、なにを……)
なにを言っている!?
なにを考えている!?
支離滅裂な思考に、流介は震えた。
「朝霧さん!? 朝霧さん!?」
異変を、佐賀にも気づかれたようだ。
必死に名前を呼ばれていた。
上で、なにかしらの騒ぎがおこっているのは確かだ。さきほど倒した護衛が立ち上がり、緊急事態だと告げているのか?
いや、たぶんちがう。
流介は、様子をうかがいにいこうとした。
「やめたほうがいいですよ」
止めたのは、『し』だった。
「なに言ってる、ショージ!」
佐賀が、そんな『し』に突っかかる。
「ここにいたほうが安全です」
意味深げに『し』は、そう言った。
「千鶴か……」
流介はつぶやいた。
わかった。ここに、響野千鶴がいる理由を──。
「行くぞ!」
佐賀に指示を……いや、命令を発した。
それからのことは、自分では覚えていなかった。あとになって、佐賀から教えてもらったことだ。
一階では予想どおり、警察による手入れ(実際は、警察ではなく麻取であろう)があったそうだ。
二階に上がって、VIPルームから通じている非常階段から逃げようとしたそうだが、そこもすでに捜査員によって固められていた。が、その捜査員を流介自身が、ぶちのめしたらしい。
そういえば、拳の感触がいまでも残っているような気がする──幼い日の曖昧な記憶を思い出すように、流介はつい数十分前の過去を逆上る。
現実と夢との境が、あやふやだ。
……だれにでもある。頭のすみに残っている記憶が、はたして本当にあったことなのか……。
たとえば、小さいとき……たぶん、二、三歳の幼年期に、見知らぬ公園で遊んでいる映像が脳裏に浮かぶことがある。夢のようでもあるが、実際にあったことなのかもしれない。
いまでは確かめることができない。
その、ぼんやりとした感覚に似ている。
だがそれは、佐賀によって真実だと告げられた。
自分が、捜査員(おそらく麻取)に暴行をくわえ、現場から逃走した。
「大丈夫ですか?」
そこは、見知らぬ路地だった。
眼前に、心配げに見つめる佐賀がいる。その後ろには、少女の姿もあった。佐賀がつれてきたのか。
「ちょっと! わたしまで、なんで……」
抗議の眼差しが佐賀にではなく、自分に向けられていることに、流介は戸惑った。もしかしたら、彼女の手を引いていたのは自分なのかもしれない……。
なにもかも、覚えていなかった。
かわりに、思い出したことがある。
(そうか……)
彼女を見返した。
燐とした美少女と重なるように、もう一人の姿が見えた。幻覚ではない。それは、彼女の母親の在りし日の姿……。
「どうなってるんですか?」
佐賀の問いが、幻想のときを終わらせた。
「ここは、どこだ? 落ち着ける場所に行こう」
流介は言った。声が、かすれている。
「恵比寿に近いと思います。だいぶ逃げてきましたから」
それを聞いても、身に覚えがなかった。
「タクシーをひろえるか? おれの事務所へ行こう」