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        18.残り三日


 老兵は去る。

 自分がいなくなるまでの時間は、もう残りわずかだ。

 それまでに、自分になにができるのか……。

 いや、ここでやるべきことが、もうないことを知っている。

 惰性の時が進んでいるだけだ。

 それでも、ここを去るまでのあいだ、この職業に就いたケジメをつけなければならない……自分なりの。

 麻薬取締官として働いた数十年間の結論を──。

「もしもし、麻薬・覚醒剤相談です」

『あの……』

 昨日、かけてきた女性だった。

「柴田です。どうでしたか、あれから?」

『は、はい……言われたとおり、息子の様子に気をつけてみました』

 どこか、それをしたことに後ろめたさがあるのか、女性の声は重く淀んでいた。

『柴田さんが言われていたことは、とくになかったんですけど……タバコもお酒も、いつもどおりで……。それでもなんだか、すべての行動があやしく見えてしまうんです』

「具体的には?」

『部屋には入れてくれるんですけど、眼つきが威嚇するようで……はやく出ていけ、って言われるみたいに』

「それは考えすぎじゃないですか?」

『あと……真っ暗じゃないんですが、テレビの明かりだけで、携帯電話をいじってるんです』

「それも、べつにめずらしいことじゃありませんよ。覚醒剤の禁断症状が出ていると、わずかな光もまぶしく感じてしまうことがあるんです。テレビと携帯の光に反応していないのなら、神経質になることはありません。視線とかは、どうでしたか?」

『それについては、とくに変わったところはありませんでしたが……』

「でしたら、大丈夫ですよ」

『そうでしょうか……』

 この母親のほうも、精神的にまいっている。

 薬物中毒に陥った人間は、猜疑心が強くなり、だれの言葉も信じられなくなる。もしかしたら、それは本人だけでなく、その家族からも信じる心を失わせてしまうのかもしれない。

 なんと罪深い。定年間際になって、あらためてクスリの恐ろしさが身にしみた。

「昨夜も、帰りが遅かったんですか?」

『いえ……昨日は、普通でした』

 それを聞いて安堵した。やはり、この母親の取り越し苦労なのではないか。

『飲みに行くつもりだったらしいんですけど、汗をひどくかいてしまったので、着替えるために帰ってきたようです。ですが、そのまま面倒になったみたいで、結局、家にいました』

 その告げられた内容に、突き刺さるものがあった。

「汗?」

『あ、息子は汗っかきなんです』

 麻薬は、異常な発汗を引き起こすことがある。

「息子さんが汗を拭いたタオルを、こちらに提出できますか?」

『は、はい?』

 突然のことに、母親は戸惑いを隠しきれない。

「下着でもいいです。とにかく、汗を吸い取ったものを」

『で、できますけど……で、でも、それでなにを?』

「尿検査をしなくても、汗さえ検出できれば、薬物検査はできます」

『じゃ、じゃあ……息子は、やっぱり……』

 落胆する母親の声が、ずしり、と心に穴をあけた。

「こちらに来れますか? あ、いや、どこかで待ち合わせをしましょう」

 ここへ足を運ばせるのは、コクと判断した。

「とにかく、タオルか下着を用意できたら、こちらに連絡をいただけますか?」

『は、はい。昨日の洗濯物は、もう洗ってしまいましたので、今夜用意します』

「べつに明日でなくても、お母さんの気持ちが整理できたらでいいですよ」

 まだそうと決まったわけではないが、もしやっていたとしたら、息子を捜査機関に売ることになるのだ。

 この女性の精神的負担は、相当なものになる。

 電話を切ろうとした直前、

「あ、じつは自分は──」

 あと数日で辞めてしまうんですよ、という言葉を飲み込んだ。

「いえ、なんでもありません。では、よろしくお願いします」

 自分の都合で、この母親を急かしていけない。

 自分に残された時間の少なさに、はじめて焦りを感じた。せめてこの親子の問題を解決できるまで、辞めたくはないと思いはじめている自分がいる。

 時計を見た。

 もうすぐ定時だ。

 今日も、あと一仕事だけになった。

「もしもし、麻薬・覚醒剤相談です」

『もしもし』

 鳥山だった。

 しかし電話機に表示された番号は、いつもとはちがう。固定電話ではなく、携帯のものだった。

「大丈夫ですか? だいぶつらそうな声ですよ」

『ダメだと思います』

 彼は、力なく言った。

「鳥山さんは、いまなにをしているんですか?」

『白い鳥を追いかけています』

「捕まえられそうですか?」

『わかりません……限界は近い』

「まだ大丈夫ですよ。あなたなら、やれますよ」

 それに返事はなく、通話は切られた。




        19.27時間前


 取材は、アルバトロスにほど近い喫茶店でおこなわれていた。

 喫茶店といっても、どこの街中でも見かける普通の店ではなく、雑誌の編集者や小説家、放送作家などが仕事場として使うことのできる特殊なところのようだった。コーヒーや紅茶の値段が、通常の店よりも三倍ほど高くなっているのは、そのためだ。

 店内は、各席がパーテーションで区切られていて、客のプライバシーが守られている。『し』──ショージは、奥の席で取材を受けていた。

『す』──杉浦梨花の姿はない。確認はできていないが、おそらく車で待っているのではないか。アルバトロスの所有している駐車場にはなかったので、どこかのコインパーキングか有料駐車場に入庫しているのだろう。

 流介と佐賀の前に、バカ高いコーヒーとオレンジジュースが運ばれてきた。男性店員は迷わずにオレンジジュースを佐賀に、コーヒーを流介のもとに置いた。店員が去ってから、おたがいの飲み物を交換する。

 佐賀のイメージもオレンジではなかっただろうが、流介から想像するよりは、妥当な判断だ。

「なんで、ジュースなんですか?」

 よほど似合ってないと感じたのか、佐賀がそうたずねてきた。

「カフェインはダメだ」

「え?」

「おれだけの事情だ。気にするな」

 覚醒作用があるので、精神に変調をきたすおそれがある。香りもキツいが、発作を起こすほどではなかった。

 佐賀はそれ以上、詮索するような素振りをみせなかった。こちらの事情をくみ取ってくれている。これまでの交流で、かなり思い描いていた印象とちがうことは薄々わかっていたが、それが確信に変わった。

 彼は想像よりも常識人で、むしろ自分のほうが反省すべき点が多い──流介は、素直にそう感想をもった。

『し』の取材は、三〇分ほどで終了した。インタビュアーとカメラマン、マネージャーに続き、『し』が店外に向かう。流介たちも姿を見られないように、それを追った。

 店の外で彼らは解散し、取材記者たちが見送るように、マネージャーと『し』が歩き去っていく。しかし、すぐに『し』がマネージャーとはちがう方向に進み出した。マネージャーに呼び止められたが、いくつか言葉を交わしたあと、そのまま行ってしまった。

 流介は、『し』のあとをつけた。表から裏通りに出て、すぐ近くにあるビルの地下駐車場へ入っていった。

 佐賀には、タクシーをつかまえておくように頼んである。流介は踵を返すと、表通りに戻った。

 道路わきに停まっているタクシーが、眼に飛び込んできた。佐賀は、すでに乗り込んでいる。流介も続いた。

「運転手さん、ちょっと先の路地あたりまで行って」

「は、はい……わかりました」

 数十メートルしかない距離だから、戸惑った声が返ってきた。

『し』が使用した駐車場の出口は一方通行で、そのまま細い路地を進むこともできるようだが、大きな通りに出るためには、ここから合流するしかない。

 すぐに一台の赤いスポーツカータイプの乗用車が、左折して通りに出てきた。

「あの車のあとを追ってくれ」

「は、はい……」

 ドライバーの人相や、助手席にいた女性が『す』だったかまでは断定できなかったが、赤井から『し』の運転する車種と色を事前に聞いておいたから、まちがいないはずだ。

 二人は、渋谷方面に向かっているようだった。一〇分ほど走り、道玄坂付近で路地を左折した。

「ここでいい」

 流介は、タクシーを停車させた。

 となりで、佐賀が不思議そうな顔をしたのがわかった。

 料金を支払うと、歩道に降り立った。

「ここでいいんですか?」

「行き先は、わかってる」

 おそらく、あのクラブだ。

 名前は……忘れた。

 すれ違った通行人の男が着ていたTシャツの鳥の絵を見て、思い出した。

『フェニックス』だ。リバー・フェニックスのフェニックス。

 路地のすぐ先にある。

 早足で店に近づいたら、表扉から二人の男女が入店しようとしているところだった。

 だが、店の様子がおかしい。

 看板や電飾などはついていない。外観からは、あきらかに閉まっている。

 なるほど、秘密の集まりがある証拠ともいえる。『貴族会』というネーミングセンスは眉をしかめたくなるが、真っ当なことからはずれた蜜的なフェロモンを感じさせる。

「どうするんですか?」

 かたわらで、佐賀亮が問いかけてくる。

「入り込む」

 見張りはいない。入り口まで迫り、扉の取っ手をつかんだ。鍵はかかっていない。

 なかへ侵入した。

 一度来ているから、内部構造はわかっている。

 照明は暗めだったが、外の様子から連想できるようには休業していない。

 通路からホールに出る扉の前に、黒いスーツの男たちが二人。通常いるような、チャラい店員ではない。むしろ無骨で、こういうところが似合わない固さがあった。柔道家に無理やりスーツを着せたかのようだ。総理大臣のSPになら、こういう男たちがゴロゴロしているだろう。

「お名前は?」

 男の一人に、訊かれた。

 感情のこもっていない、機械のような声音だった。後ろからついてきている佐賀に、どう答えようか、と顔を向けた。いま入ってきたばかりの玄関扉が開いたのがわかった。しかし細かく観察している場合ではないので、視線を黒ずくめの男たちに戻した。

「佐賀亮」

 もちろん、答えたのは佐賀亮自身だった。

「招待リストにはありませんが」

 男たちは『リスト』に該当しそうなものは、なに一つ持っていなかったが、そう応じた。

「オレのこと知らねえのか!? オレをだれだと思ってる」

 佐賀が、わがままな芸能人、そのままのイメージで声をあげる。

 このほうが、しっくりくるな──と流介は内心、思った。

「ですが、リストにない人間を入れるわけにはいきません」

「彼らは、わたしの連れなんです」

 背後で声がした。

 女性だ。よく知っている声。

「あなたは?」

「東城です」

「承っております。どうぞ」

「彼らもいいでしょ?」

「わかりました」

 男たちが道をあけてくれた。

「人気俳優さんにお会いできて嬉しいです」

 女性は悪戯っぽい笑みを佐賀に投げかけると、男たちの開けた扉から、なかへと入っていった。

 今回は、東城という偽名なのか。

 貸し金業の事務所ではヨウコと呼ばれていたから、『東城ヨウコ』。

 昨夜よりも一段と、美しく謎めいた女を演じているようだ。事務所で見かけたときのような、あばずれ要素は消している。

 いる場所いる場所で、最も的確な人間になりきる天才だ。

《U.A》──アンダーグラウンド・アクトレスの名は、伊達ではない。

 流介は、響野千鶴のあとに続いた。


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