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14.再び、霞が関にて
夜の官庁街は、とても寂しく感じる。
朝霧流介をクラブの外に出したあと、沢村洋士は、ある人物の姿をみつけて、ここまでやって来た。なぜ、あんなところに?
あの、経済ヤクザだった。
思い返してみれば、今朝、ここで何者かが落としていった書類を拾い上げてから、奇妙な調査がはじまった。「調査」といっても、書類に記されていた朝霧流介の探偵事務所を訪れて、そこで遭遇した事務所荒らしを尾行し、さらにその事務所荒らしが会っていた経済ヤクザを尾行しただけなのだが。そもそも、だれかに依頼されたわけでも、この調査の果てに目的があるわけでもない。
興味本位であり、成り行き上、探偵のような行動をとったにすぎない。
経済ヤクザは、やはり車ではなく、電車を使って移動していた。今度は見失わないようにと、沢村は慎重にあとを追っていた。商品の入ったアタッシュケースと拾った書類は、渋谷駅のコインロッカーに置いてきた。だから、現在は手ぶらだ。こうなったら、男の正体を見極めてやる──そういう意気込みがあった。
地下鉄の出口を上がってから、経済ヤクザは桜田通りの歩道を進んでいく。こんなところに、男のアジトがあるというのだろうか。
さきほども、ここまでは来た。が、一瞬、眼を離したすきに見失ってしまった。もう、そんな失態はおかさない。
ふと気づいた。官庁街というと、日本のエリートたる官僚たちが働いている場所なのは説明するまでもない。少しイメージを変えてみると、経済ヤクザに見える男が出入りしそうな場所が、この街にあることに思い至った。
警視庁……?
そうだ。たしかに、男は警視庁の本庁舎へと向かっている。
まさか、自らの犯罪を悔いて自首しに行くわけではないだろう。では、なぜ男は警視庁へ足を運ぶのか。
答えは、すぐに出た。
男は、経済ヤクザでも犯罪者でもない。
警察官だ。
警察官である男が、朝霧流介に興味をもっている。事務所荒らしは、あきらかに仲間だった。もし男が、事務所荒らしを逮捕でもしていれば、むしろ職務に忠実な警察官と解釈することもできる。だが、二人の間柄はちがっていた。
この男が、事務所荒らしを命じたのではないだろうか?
ということは、なにかを盗み出したにしても、金目のものではない。例えば、顧客情報とか、秘匿義務のあるデータなどと推理することができる。
盗むのではなく、なにかを仕掛けたということも考えられる。
(盗聴器とか……)
沢村は、ゾクゾクと背筋が凍えるのを自覚した。
これは、単純な事件ではない。
なにか陰謀が進んでいる……そんな予感があった。
朝霧流介をめぐって、なにが進行しているというのだろう。自分は、ここで手を引くべきではないのか。
自分は、部外者なのかだから……。
(いや……)
部外者だからこそ、この陰謀を追うことができるかもしれない。何者かは、まだ自分の存在を知らないだろう。
ならば、そこがつけいる隙になるのではないだろうか?
どうしてだろう。
このままアメリカへ帰ることが、負けだと思っている。仕事としての出張は、完全に失敗だ。だが、このことをうやむやにして、ただクビにはなりたくなかった。
どうせ、日本に滞在できる期間は決まっていない。会社からは、契約が取れるまで帰ってくるなと言われている。
望むところだ。
もはや、警察庁との契約など考えていないが、このままでは終われない。
この日本で、朝霧流介を取り巻く事件を追いつづけてやる。
15.35時間前
午前一〇時には、あと数分たりない。
朝の陽光(流介にとっては)がまぶしく、瞳をいじめる。
流介は、とある病院に向かっていた。薬物中毒者への本格的な治療がおこなわれている日本ではまだめずらしい病院だ。
薬物中毒の人間が、麻薬を断つために医療機関へ救いの手を求めようとしても、そこには刑法の壁が立ちはだかる。病院に来る患者は、すでに法的なペナルティを受けている者がほとんどだ。捕まるリスクを覚悟して、治療を受けにくる人間が、どれだけいるだろうか。
それが、中毒者から医療機関を遠ざけてしまう唯一にして、最大の要因。
実際には警察への通報は、病院よってまちまちである。
専門の医院でなければ、ほとんどのところは、検査で陽性反応が出た時点で、警察へ届け出る。検出されなかった場合でも、医療機関によっては、あきらかに常習性があると判断できたら、通報するところもある。
専門の病院であれば、軽率に警察へ患者を売ったりはしない。そういう病院であると知れ渡ったら、来ようとしている者も来なくなるからだ。
しかし薬物中毒者のほうは、病院のことなど信用していない。どんなにうちの病院は警察へ届け出ない、と前置きをしても、その言葉に耳を貸してくれない。これも、中毒症状の一つだ。猜疑心が強くなり、だれも信用できなくなる。
あるとき、ある事件が発生した。
ヤク中の暴力団員が錯乱状態になって、敵対していた組織(敵対はしていたが、抗争中ではなかった)の人間を殺してしまった。
それにより抗争がはじまり、世間は混乱した。原因をつくった犯人は逃走し、警察も躍起になって、その犯人を追った。
逃亡した暴力団員が逃げ込んだのは、とある病院だった。
薬物中毒治療の専門医院で、絶対に警察へ通報しないと患者に誓っていた。殺人犯であっても、病院の方針は変わらなかった。捜査機関には知らせず、暴力団員の薬物治療にあたっていた。
だが、そのことが警察に知られてしまった。当然、令状を持った捜査員が、病院に押しかけてきた。
院長がとった行動は、周囲を驚かせた。
警察を追い返してしまったのだ。
令状は犯人への逮捕状だけであり、病院への家宅捜索令状は所持していなかったのだ。
同時に院長は、こう世間に発表した。
わが医院は、薬物中毒患者を広く引き受ける。警察への引き渡しはしない。薬物五法に違反している者だけでなく、すべての犯罪においてである。麻薬をやめたい人々は、安心してここへ来院してほしい──と。
問題の暴力団員は、後日、病院への令状も持ってきた捜査員によって逮捕されてしまったが、この事件を契機に、病院のことが中毒者たちに知れ渡った。いつしか、ジャンキーたちの「かけこみ寺」のような存在になっていった。
警察機構、行政、マスコミ、一部市民団体は、それに反発した。
薬物五法──麻薬及び向精神薬取締法。覚醒剤取締法。大麻取締法。あへん法。麻薬特例法──それだけならともかく、その他の犯罪者でも通報しないというのは行き過ぎだと。ついには医療機関としての認可を取り消され、院長自身も医師免許を剥奪されてしまった。
だが、そこまで話がこじれたころには、院長の考えも世に浸透しはじめていた。高い志があるというのに、認可取り消しや免許剥奪は行き過ぎではないか、と。
世論は、くっきりと二分した。
その騒動に仲裁の手を差し伸べたのは、意外なところだった。アラブの石油産出国──近年、新たな油田をいくつも発見しており、日本としても、むしろ米国よりも親密にしておきたい国がある。
そこの王子は、だいの日本びいきで学生時代は留学もしていた。日本語も流暢で、この騒動をたまたま日本滞在中に聞きつけた。
王子は、世界的にも問題となっている薬物問題に強い関心を示した。大好きな日本を、麻薬で埋もれさせてはならない。
国王を動かし、日本政府にある提案をもちかけた。その病院を、わが国の大使館内に移転するわけにはいかないか──と。
その国の新しい大使館を都内某所に建設中だったのも幸いした。莫大なオイルマネーを駆使して、広大な敷地を所有していたのだ。
急遽、そこに病院も建設されることになった。油田一つの優先契約権で、日本政府は手を打った。
こうして、治外法権の病院が誕生した。
日本の医療機関ではないために、保険の適用はできなかったが、そもそも治療内容からいって、保険のきくケースは少ない。それに、そういう心配をする必要もなかった。
治療費は、無料。すべての運営費を王家のポケットマネーでまかなっている。
敷地への出入口には、厳重なチェックが待ち構えている。高い門扉がそびえ立ち、何台もの監視カメラ、警備員も二人が常時任務にあたっている。
病院関係者は専用のパスをそこでみせると、門を通過することができる。患者も診察券を提示するか、初診の者は、事前の予約と身分証をみせることで、なかに入ることができるのだ。
流介は、警備に診察券をみせた。
この病院に初めてかかったのは、例の事件の直後だった。重度の中毒だったので、何ヶ月も入院した。
普通の生活を送れるようになってからも、いつ起こるかわからないフラッシュバックに悩まされていたから、通院を続けていた。
最近は、あまり通っていない。
ここに来ると、自分がひどくみじめに感じるからだ。
任務に失敗し、薬物中毒にまで堕とされた哀れな男だと……。
門をくぐって、正面の壮麗な建物が大使館になる。まるで、どこかのきらびやか国の迎賓館のようなたたずまいだ。
病院へ行く者は、そちらへは近寄れない。
表には日本人の警備員がいたが、こちらは一目でアラブ系とわかる男たちが護衛についていた。
左手に続く脇道を進む。
ささやかな緑の庭園を抜けると、瀟洒な建物にたどりつく。
ここが、『病院』だ。
日本の統治下にはないエリア。もし、ここで事件がおこったとしても、日本の警察は介入することができない。
どんな犯罪者でも大手を振って通院することができる。門の前で警察が張ることもできるが、ヘタなことをすれば、石油利権の絡んだ国際問題に発展するだろう。日本の公務員に、そんな勇気のある者はいないはずだ。
はたして自分が現役のころだったら、どうしていただろう?
ふと、流介はそんなことを頭に思い浮かべた。
やめた。不毛なことを考えるのは……。
流介は、院内に足を踏み入れた。
ロビーは閑散としている。さすがに、一般の病院ほど患者はいない。地上三階建てで、上は入院施設になっており、閉鎖病棟として重度の禁断症状が出る者が収容されている。
一階ロビーにいる人間は、軽度であるか、リハビリのカウンセリングに来た者だ。
流介もそれにあたるが、少しほかの患者とはちがう。
長椅子で一五分ほど待つと、自分の番がおとずれた。
診察室には、歳のころ二〇代後半のまだ若い女性がいた。
「御無沙汰でしたね、朝霧さん」
静かな病院の雰囲気からは、とても穏やかな女性の声が響くかと思われるが、とくに「御無沙汰」のところに強い棘があった。
「どこかで野垂れ死んでるのかと思ってましたわ」
女性の言葉には、遠慮がまるでない。
彼女が、担当の女医。名を藤川めぐみ、という。
「あなたは、ヤリ逃げ、っていう日本語を知ってますか?」
むしろ丸くて女性的な眼が、キッとつり上がったような気がした。
「……」
流介は、返す言葉もなかった。
「わたしは医者ですから、どんな無責任な男でも治療しますけど。で、ここに来たということは、また重い症状が出たんですね?」
「めまい、耳鳴り、幻聴、幻覚、それらが全部集まった感じだ」
「幻覚は、あれでしょ、ヤリ逃げした女に刺されたんでしょ」
「……悪かった、もう根にもつなって!」
思わず、声を荒らげていた。
「責任はどうするの、責任は?」
「責任、って……たったの──」
「三回よ、三回! 一回だけだったら、一時の迷い。二回までは、まあ、それでもよしとしましょう。でも、三回からは責任が発生します!」
これだから、生粋のお嬢さまは……流介は心のなかだけで、そう愚痴を言う。
「お父さまにも、紹介するはずでした……」
そう言って彼女は、診察室の壁上部に飾られた額入りの写真を眼で追った。この病院のいたるところに、同じ写真がある。
「何度も会ってるって」
「婚約者としてです!」
ピシッと声が鞭を打った。
院長は、昨年亡くなっている。いまでは「娘」である彼女が、ここの責任者ということになる。
ただし、院長の席は空いたままだ。彼女の肩書は、院長代理。
トップの座は、永久欠番のようなあつかいにするらしい。
六年前、流介がここへ運び込まれたとき、院長と、当時女医になったばかりの彼女に診察された。
彼女とは、そのとき以来の関係だが、父である院長とは、さらに逆上ることになる。
この病院が移転するまえ──暴力団員事件が起こるまえのことだ。警察への通報はしていなかったが、患者の体内から薬物が抜けきったころ、病院は麻薬取締部に連絡を取っていた。
もちろん、逮捕させるためではない。
麻薬を本気でやめさせるためには、ある種のプレッシャーをあたえるのも必要なことなのだ。やれば捕まる、というあたりまえのことをわからせるのも、大切な薬物治療の一貫。
薬物反応が出ない以上、逮捕はない。が、麻薬取締官におまえはマークされた。もし次にやったら、捕まえにくるぞ──そう思わせるだけで、抑止力になる。
麻薬に手を出した人間が、どんな悲惨な人生を歩むことになったのか。そういう話を聞かせるだけで、わずかばりでも心のブレーキになってくれるかもしれない。
いくつかの病院は、麻薬取締部とそういう提携を結んでいる。流介も現役時代、それで何度か院長とも仕事をしたことがあったのだ。
そんな親子に、今度は中毒になった自分が治療されている。
おもしろい因縁だ、と感じだ。
「なに笑ってるんですか!?」
「い、いや……」
ほんのわずかの笑顔を見抜かれた。
ある意味、医者としての適正は天才的だ。
彼女は、流介が麻薬取締官だったという経歴も、当然ながら知っている。
かつては捕まえる側だった男と、治療する側の女──立場の相違はあっても、薬物中毒者にたずさわる二人は惹かれあった。
患者と医者の関係を越えて、おたがいを求めた。
まちがっていたと、流介は後悔している。
あれは、クスリにやられて、自分が弱くなっていたからだ……。
彼女に対しても失礼だし、禁断症状を少しでも軽減させるための、ただの逃げでしかなかった。
逃げていては、いずれ自らの意志でクスリに手を出してしまうだろう。
もとは強制的に植えつけられたものでも、いずれ……。
「最近、動きの激しい種類はなんだ?」
彼女が少し落ち着いたところで、流介はそう切り出した。
「ほかの患者に関することは、秘密です」
キッパリと言われた。
だが流介の調査が、むしろ麻薬撲滅に少しでも役立っていることは、彼女もよく知っているはずだ。
思い起こせば、流介の探偵への転職も、彼女のすすめだった。最初の依頼者である、元受刑者の母親を紹介してくれたのも彼女だ。
「べつに、患者をどうこうしようってんじゃない。それは、知ってるだろ?」
「あなたの治療の話をしましょう」
「芸能界に出回ってる噂は聞かないか?」
「そういう依頼をうけてるんですか?」
「そうだ」
ほかの人間になら──とくに犬飼──、こうもあっさり肯定はしないだろう。しかし彼女には、言葉の駆け引きを挑む気持ちがおきない。自分でも不思議なほどに、素直だ。
どうしてだろう?
「芸能界のことは、知りません。でも最近、動きが激しいのは『バッズ』ですね」
「バッズ?」
「大麻です。あなたが現役のころには、まだなかったものです。幻覚作用の強い花の部分だけを集めたもの。大麻は、どちらかといえば抑制系の麻薬に分類されていますけど、でも成分的には幻覚系なんですよ」
その知識は流介も知っている。
「その『バッズ』は、まさしくそれを象徴しています。通常のものよりも、四倍以上も幻覚作用が強化されていますから」
それも、デザイナードラッグと呼んでいいのだろうか。
「なんだか、時代が進めば進むほど、麻薬の効き目も強くなっていく……きっと、試練ですね」
「試練?」
「そう。人間が、怠惰から抜け出すための」