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13.47時間前
まだ、世界は揺れていた。
どうやら、店の外には出ているらしい。
周囲に視線をめぐらせる。
ホテルに挟まれた路地のようだ。
ここぞというときに発作が出てしまった。
四つの薬物の禁断症状が、一気に噴き出すようなおぞましさ。
鼻が利くのが、災いしている。
ヤクの味を呼び覚ますのは、大気中に漂う麻薬の匂いは当然のこと、アルコールやタバコの匂いでも誘引する。それ以外にも、多種多様の科学的薬品の臭気にも反応してしまう。
ガソリンや、オイルにも……。
車を運転できない理由が、それだ。
いつ発作にハンドルを取られるかもしれないからだ。
しかし最近は、だいぶ耐性ができてきて、たんに原因となる一つの匂いだけを嗅いだとしても、症状が出ることは少なくなった。気を張っていれば、どうにかなる。
あのクラブのなかは、いくつもの臭気が結集していた。
そして、あの低音のきいたリズム。
大音量の曲が、トリップを容易にする。
「無事か?」
間近に、だれかが立っていた。
こういうとき眼にすると、とても鬱陶しく感じる巨体だった。
「おまえが、ここまで運んでくれたのか?」
「まさか。俺がそういうことをしないヤツだってのは、てめえもよく知ってるだろ?」
犬飼は、迷うことなく言った。
そのとおりだな、と流介も思った。
「じゃあ、だれが?」
「どこにでもいるようなサラリーマン風の男だった」
「で、その男は、どこへ?」
「さあ?」
犬飼は、肩をすくめてみせた。似合わない仕種だった。
「なかで、なにを見た?」
逆に訊かれた。
「覚えてない」
「……まあいい。いずれ、教えてもらう」
こちらからの言葉を、まったく信じる気はないようだった。
「犬飼、おまえ、なにを調べてる?」
そう問いかけたら、答えではなく、腕を差し出してきた。あくまでも、返答するつもりはないようだ。
流介は、それをつかむと立ち上がった。
まだ、足にフラつきが残っていた。
「リハビリには行ってるか?」
「なんのだよ」
流介は感情を殺して、そう答えた。
「てめえ、クスリに追い詰められるぞ」
「もう手遅れだ」
犬飼に肩を借りて、歩き出した。前方に、よく知っている女の姿があった。
「もういい、ここで」
犬飼から離れて、女のもとへ向かった。犬飼がついてくる様子はなかった。
一歩目はつらかったが、歩数を重ねていくうちに、回復していった。
路地の奥、行き止まりに女は立っていた。
「わたしたちの邪魔はしないで」
「おれの知ったことか。だいたい、ここのヒントをあたえたのは、キミ自身だろ?」
「そうだったかしら」
女は、わざとらしく惚けてみせた。
「あなたがわたしを恨む気持ちもわかるけど、みっともないわ。いまのあなたの姿みたいに」
べつに、怒りはわいてこなかった。
「ねえ、ここに入ってみる?」
女は、路地の片側のビルを指さした。
「むかしみたいに」
「そんな過去、あったか?」
「ははは! なんだ、思ったより元気じゃない。さっきは、いつ死んでも不思議じゃないぐらいだったのに」
「あの男……おまえの協力者だな? 六年前、おれはあいつにはめられた」
長髪の売人のことだ。
「それは、あなたがドジだっただけじゃないかしら」
「まだ《白い蠍》を追ってるのか?」
「何年、追いつづけてると思ってるの? あなたがやめたとき、すでに三年経過いていたわ。ということは、かれこれ、九年……もうすぐ一〇年になるわね」
「芸能界に薬物が蔓延している。流してるのは《白い蠍》か?」
「ちがうわ。組織はあれ以来、活動をしていない。いまは、休眠期間よ。富士山みたいなものね。捜査機関が油断をしたころに、一気に噴火する」
ではこの女は、なにを追っているのか……? こんな大がかりな潜入をしているということは、通常の敵ではない。
「近年、押収された薬物……そうね、スピードでもいいし、エクスタシーでもいい。うちの鑑定室のプロファイリング解析でね、おもしろいことがわかったの」
唐突に、彼女は話題を変えた。
薬物と一口にいっても、いくつもの種類があり、同じ種類の薬物とはいえ、不純物の混入量で、その性質はガラリとちがってくる。
高純度のものは高級で、効き目も強い。不純物の多いものは、効き目が弱く、少量でも突然死の原因になりえる。
その不純物の量で、どこで、だれが精製したのか──以前どこで出回っていたかを特定することも可能だ。
プロファイリング・アナリシス──薬物の指紋のようなものだ。
「いま、世間を騒がせてる俳優さんが持っていたMDMAね、あれ正確には、いままでのMDMAじゃない」
「なに?」
「アレンジされてたのよ」
「どういうことだ?」
「まあ、MDMAじゃないっていうのも、語弊があるわね。化学的にはMDMAでまちがいない。分子構造も、同じ。だから逮捕したんだから」
そうか。ニュースをあまり真剣に観ていなかったが、加納正をあげたのは、麻取か。
「でもね、MDMAであって、MDMAじゃないの。効き目が強く出るようにチューンナップされてた。いいえ、ちがうわ。あれが本当のMDMAなのよ。MDMAの潜在効果をすべて顕現させたような」
「デザイナードラッグ……ってことじゃないのか?」
「それに近いかもね」
麻薬というものは、取り締まる側とデザイナーとのいたちごっこの歴史だ。
ある麻薬が摘発対象になったとしたら、その麻薬の成分を少し変えて、新たなものを生み出す。それが摘発対象になったら、またべつのものを創り出す。
もとは、MDMAもデザイナードラッグとして誕生した合成麻薬だ。有名なところでは、チャイナ・ホワイトもヘロインのデザイナードラッグだった。
現在、危険ドラッグと呼ばれているものも、いわばデザイナードラッグである。
「でも、新種の麻薬を創りたいんだったら、分子構造を変えるはずよ。これでは、法の目をくぐれない。というより、脱法ドラッグを創る気なんてないのかもしれないわね。確信犯的に、既存の麻薬を強化している。きっと自分の技術に酔っているんだわ」
「なんだか、身近にいるような口ぶりだな」
そこで、ハッと胸を突かれた。
「わかったようね」
つねに抱くデザイナードラッグに対しての疑問は、こうだ。
いったい、だれが創り出したのか?
大半のものは、その答えを聞けば、なんだそんなことか、とガッカリくる。
新薬の開発段階で、たまたま発見されたものがほとんどだ。そのデータを密造者が奪い、デザイナードラッグとして売り出している。
LSDもMDMA・MDAも、そういう経路で出回ったもの。合成ヘロインであるチャイナ・ホワイトにいたっては、正規の医薬品として認められたフェンタニルを、麻薬として裏で売買するようになったのがはじまりだ。
だから、デザイナー自らが創り出すということは稀だ。デザイナー=新薬データをジャックする者、ということになる。
脱法ハーブとして売られているものも、つくり方は簡単だ。すでに薬品として存在しているものを中国などから輸入して、アパートの一室で乾燥させた香草と混ぜているだけ。
べつに、業者が新しく創作しているわけではない。
いま危険ドラッグとして販売されている化学物質として有名なところでは、ジョン・W・ホフマン博士が九〇年代に実験で発明した『JWHシリーズ』だろうか。博士は当時、百以上もの新種をつくりあげている。それがいま、次々に脱法として出回っているのだ。
──が、ここに、邪悪な意図のもと、新たなる麻薬を創造しうる化学者がいるということなのか!?
「キミらが追ってるのは、そのデナイナーか!?」
新種は、ほぼ海外から入ってくる。
それが、日本発だとしたら……。
「そうか……、『ジュディ』であつかっている脱法モノも、そいつが……」
「察しがいいわね。頭のなかは、まだ腐りきってないんだ」
皮肉を通り越した悪口だったが、流介は聞き流した。
「その店で売られてる脱法モノは、すべてオリジナル。世界のどこにも売ってないものなのよ。で、それだけで満足してくれればよかったんだけど、あきたらなかったみたい。脱法ドラッグのデザイナーが、既成の麻薬のチューンナップまでやりはじめた……そんなところかしら」
「新庄会の人間なのか!?」
「さあ、どうかしら」
「ちがうか……そのデザイナーが、新庄会に自分の腕を売り込んだか……新庄会のほうがヘッドハンティングしたか……」
「これ以上、部外者には言えない」
流介は、それを肯定と受け取った。
「あなたは、手を引きなさい。いまのあなたでは、どうすることもできない。それをわからせるために、ここへおびき寄せたんだから──」
なるほど。それでこのクラブのことを、昼間は口にしたのか。
「おれの受けた依頼について、とやかく言われる筋合いはない」
「たった一人で、なにができるというの?」
「おれにだって、協力者はいる」
「ああ。あなたがまえに言ってた、秋山って人のこと?」
麻取をやめてから、彼女には一度だけ会う機会があった。そのときに、秋山のことを少しだけ話題にしたことがある。
「そんな人が、本当にいると思ってるの?」
「なにが言いたい?」
「秋山という人とは、その後、直接顔を合わせたことがある?」
「……」
「いつも、電話なんでしょ? それは、あなただけに聞こえる幻聴なんじゃないの? あなたの身体のなかには、まだクスリがしみ込んでるのよ」
そんなバカな……そう考える自分以外に、なにも言い返せない自分も存在している。
「あなただって、それを疑ったことがあるんじゃない?」
「ちがう……いまの依頼は、秋山が先方におれのことを紹介してくれたんだ」
アルバトロス社長秘書・赤井は、確かにそう語っていた。
「それは本当に、あなたの言う『秋山さん』なのかしら? 現役時代のあなたのことをたまたま知っていた、べつの秋山さんが、紹介してくれただけなんじゃないの?」
つくづく性格の悪い女だ──そう強く思った。こんな女に、一時だけでも心と身体を重ねたなんて……。
流介は、踵を返して歩き出した。
この女と、これ以上、いっしょにはいたくない。
一〇歩ほど進んだところで、声が届いた。
「ねえ、答えてよ。わたしのこと、まだ恨んでる?」
背中にそう投げかけられたが、流介は答えを口にしなかった。
* * *
『白い蠍』という組織が首都圏を中心に跋扈しはじめたのは、一五年ほど前からだろうか。暴力団や国外のマフィアは直接からんでいない。ヘロイン、覚醒剤、マリファナ、コカイン。のちにLSDやMAMD、マジックマッシュルームなど、時代のニーズに合う薬物もあつかいだした。いうなれば、違法薬物の総合商社のような組織だ。
警視庁でも、組織の尻尾すらつかめなかった。当時の関東信越地区麻薬取締官事務所でも、通常捜査では同じようなものだった。
しかし、警察と麻薬取締官とのちがいで、有名なものがある。
麻取には、おとり捜査が認められている、ということだ。
おもなものでは、客になりすまし、売人に接触することで、現行犯逮捕にもちこむ。もしくは、その逆。多少拡大解釈にはなるが、密売組織のなかに「S」として潜入することも、その範疇にふくまれる。が、あまり危険なことはできないし、されてもこなかった。
潜入捜査とはいっても、アメリカの映画やドラマに出てくるアンダー・カバーのようなことはできない。
中枢にまで潜り込んで、組織の全滅をはかるような規模のことは容易にできるものではないし、その過程で殉職者が出ることは想像にかたくない。ただでさえ、警察の組織犯罪対策部とのちがいを鮮明に打ち出せていないのに、多大な犠牲をはらったとなると、麻取の存続自体にもかかわることになる。
だがあのとき、朝霧流介は組織の中枢に入り込もうとしていた。麻取の総力を結集した捜査だった。
その三年前から、すでに響野千鶴という女性取締官が先行して潜っていた。
響野は、新人のときから潜りつづけている恐ろしい女だった。この世界では《U.A》──アンダーグランド・アクトレス、と呼ばれている。どんな人間にも、たちどころになりきることができる。
三年間で彼女は、《白い蠍》の重要な位置にまでのし上がっていた。組織の内部に協力者まで仕立てあげて。
それが、さきほどの長髪の男だった。名前は知らない。
響野が『我夢』と呼んでいることだけは知っていた。
流介は、響野の紹介で組織に潜入できるはずだった。そうすれば、あと二ヵ月ほどで《白い蠍》の全容を解明でき、摘発までもっていける手筈になっていた。
しかし流介が組織に接触した直後、流介が麻取の人間であることが疑われた。潜入捜査のことが露顕すれば、響野の身も危険にさらされる。
撤退を余儀なくされた。
あの長髪の男──我夢の手引きで、逃げるはずだった。だが、約束の場所にやって来たのは、組織の追手だった。流介は、組織によって拉致されてしまった。
そこで、幹部四人による薬物の拷問をうけた。
大麻の『怠惰』。
コカインの『不死』。
覚醒剤の『高揚』。
ヘロインの『快楽』。
唯一の女性であった『快楽』が、最後につけていた仮面を取った。幹部四人の素顔は、幹部同士でも知らないという。それが、流介にだけ見せたのだ。
いまでも、ゾッとする光景だった。
ほぼ錯乱状態で、頭に残っていた正気の自分は、ほんのわずかだけだった。しかし、その微小のまともな精神が、確かに彼女を見た。
『快楽』の正体は──。
流介は、こう考える。
麻取の潜入捜査官であると情報を流したのは、おそらく我夢だ。流介と響野が麻薬取締官であると発覚した場合、むしろ捜査官である二人より、組織を裏切っていた我夢のほうが、より憎悪の対象になる。
流介を売れば、自分の命を守ると同時に、響野の活動の手助けにもなる。流介が口さえ割らなければ……。協力者としては、ある意味、優秀なのかもしれない。
売られたほうとしては、許せない気持ちが強い。だが、自分が同じ立場だったとしたら、我夢と同様の行動を取っていたかもしれない……そう考える自分もいる。
ふと、そのことで疑問を抱くことがある。
自分を売ったのは、はたして我夢なのか?
もう一人、得をする人間がいるのだ。
それが『快楽』の正体……よく知っている顔だった。短いが、恋人として過ごした時期もある。
はたして、彼女なのだろうか?
いま答えを求めても、明確な回答は得られないだろう。
仮面を取ったその顔は、響野千鶴、本人だった。