12
12.渋谷にて
ホテルに戻るのは、ためらわれた。
考えすぎなのだろうが、あの制服警官がまだうろついているかもしれない。
どうしようか……途方に暮れた。
どこをどう歩いたのか、どういう交通機関を利用したのか、よく思い出せない。
気がついたときには、朝霧探偵事務所の前に立っていた。すでに夜七時を過ぎていた。いや、もうまもなく八時になる。
直接、ここへ向かったにしては時間が経ちすぎているので、まっすぐここへ来たわけではないはずだ。しかし、よく覚えていない。必死さと恐怖で、ただ逃げていた。逃亡者の心理とは、このようなものなのか……。
朝霧探偵事務所の窓からは、灯がもれていた。いるようだ。
たずねるべきか。
やめておいたほうがいいのか……。
あれほど会いたいと熱望していたにもかかわらず、こうしてチャンスをむかえると尻込みしてしまう。
ダメな性格が、こんなところで色濃く出てしまった。
「ん?」
事務所の灯が消えた。
すぐに雑居ビルの入り口から、男が出てきた。暗がりでも、あの不精髭のはりついた顔は、まちがいなく朝霧流介だ。
朝霧流介は、駅のある方向へ歩いていく。車は使わないようだ。なぜだか、経済ヤクザのことを思い出していた。犯罪に関わりのある人間は、公共交通機関を使いたがる……。
沢村は、朝霧流介のあとをつけた。
また尾行。
今日は、尾行デーだ。
尾行記念日に指定してもいい。
電車を乗り継ぎ、降り立ったのは、渋谷の街だった。
正直、朝霧流介のような男には、若者の街は不釣り合いだと感じた。新宿、もっといえば歌舞伎町のほうが似合っている。
道玄坂のラブホテル街を抜け、男はクラブのような店に入った。ホステスがいて、お酒を嗜む大人の社交場のほうではない。若者が踊ったり、酒を飲んだり、ナンパしたりするほうだ。
沢村には、いままで縁のなかった場所だ。大学時代も真面目だったから、こういうところは敬遠していた。
朝霧流介が入店する。
沢村も、意を決して入ってみた。朝霧流介から遅れること、三分ぐらいだろうか。
自分の存在が浮いてしまうんじゃないかと心配したが、同じようにスーツ姿の男性も何人かいたので、それについては安堵した。大音量で鳴り響く音楽には、自分には合わないと辟易したが……。
入ってすぐに、とても美しい女性と眼が合った。もちろん、そんなことはないのだろうが、一瞬、誘われたような気がした。自分に向けて微笑みかけたような。
沢村は、その妄想に、われながら呆れた。
人をかき分けて、店の奥に進んでいく。
朝霧流介がいた。
ミラーボールの明滅のなかとはいえ、明るい場所での対面。電車のなかでは、あえて遠く離れていたので、ここまで近づいたのは初めてだ。
これまでより、細部までを確認することができた。
写真よりも、荒れ果てた印象がある。
朝霧流介の様子がどこかおかしいことは、すぐにわかった。
まるで酩酊状態のように、足元がおぼつかない。いつ倒れてしまっても不思議ではなかった。
大量の酒を飲んでいると考えるのが普通だが、そんな時間はなかった。これまでは、しっかりと歩いていたのだから、事務所にいた段階で酔っていたわけではない。
どうしても、むかしの経歴や不祥事をおこして解雇されているという過去から、薬物を疑ってしまう。違法薬物なら、短時間でもこうなるのではないか。
朝霧流介が、いかにして薬物中毒者になってしまったのか……その詳細までは書類に記されていなかった。が、沢村は、なんとなくそれを想像することができる。
アメリカでは、そういうことがよくおこる。取り締まる側が、潜入捜査の末に、麻薬を使う側に堕ちてしまうということが……。
マフィアや麻薬組織に入り込むためには、相手から信用されるために、自身でも薬物を使わなければならない状況に追い込まれることもめずらしくないという。そして、そのことを皮切りに、中毒者になるまではまりこんでしまう。
だが、日本の捜査機関──活躍を眼にすることの多い警察では、おとり捜査は禁止されている。アメリカでおこるような、ミイラ取りがミイラになる、という不祥事はあまりない。
しかしそういえば……。
洋士は、けっして鮮明でない知識を呼び覚ました。
日本で唯一、おとり捜査を認められている組織がある。
それが、麻薬取締官──。
朝霧流介が、それか。
ミイラ取りが、ミイラになってしまったのだ。
決めつけなのはわかっていたが、とてもしっくりくる考えだと思った。
朝霧流介は、出入口に向かっていた。
だがその途中、歩く方向を変えた。
いや、ちがうのかもしれない。ただ、酔い(願いもこめて、そう思うことにする)のために、進行が定まらないだけなのか。
そうではなかった。やはり朝霧流介は目的をもって、そちらに進路を変えたのだ。
店の壁際。そこには、二人の男がいた。
一人は長髪で、鋭い眼をした男。もう一人は、沢村のいる位置からでは顔を確認できなかった。服装からは二人とも、いま風の若者というより、派手さのなかにも、もう少し年齢を重ねた落ち着きのようなものが見て取れた。
朝霧流介がめざす壁際に、沢村も近づいていた。
直観的に、あの二人は薬物売買をしている──と、思った。
異常をきたしている朝霧流介よりも、沢村のほうが歩調は軽い。簡単に追いついた。朝霧流介の背中が、すぐそこにある。
壁際にいた長髪の男が、こちらに──正確には、朝霧流介に気がついた。ちょうど、店内に流れる音楽が途切れたところだった。
「まとり……!」
たしかに長髪の男は、そう口にした。
麻取なのか、魔鳥なのか。
《マジック・バード》のほうだと、なぜだかそう考えた。
その名は、朝霧流介が麻薬取締官時代に呼ばれていた異名のはずだ。
すると長髪の男は、やはり売人。しかも、朝霧流介の現役のころを知っている人物ということになる。
「クソッ! うおおお──ッ!!」
長髪の男が、雄叫びのような声をあげた。
店内に響きわたるまえに、再び大音量で音楽が鳴り出したので、男の異変に気づいた者はそう多くないはずだ。
長髪の男は、出入口めがけて逃げていこうとする。それを朝霧流介が、相手の足に飛びついて止めた。それまで酩酊状態だった彼のどこに、そんな反射神経が残っていたのだろうか。
長髪の男もろとも、倒れこんでいた。
そのときになって、ようやくまわりの客たちも、騒ぎに気がついたようだ。
長髪の男は、足をばたつかせ、なんとか朝霧流介の腕をはずそうとこころみる。片方の足が外れ、その足で、朝霧流介の顔面に蹴りを打ち込んだ。
それでも、朝霧流介は放さない。
そのとき、一人の女が、朝霧流介の手に、ハイヒールの踵を当てた。店に入って最初に眼があった、あのとても美しい女性だ。
あきらかに、朝霧流介から長髪の男を逃がそうとしている。
ということは、女性は売人の仲間。
朝霧流介の腕がはずれた。
長髪の男は、すぐに起き上がり、店内をあとにする。
「大丈夫ですか!?」
沢村は、倒れたままの朝霧流介に声をかけた。こちらからの声が届いていないように、彼からの反応はない。大音響でかき消されているというより、言葉の内容を理解できていないようだった。
どう解釈しても、いまの朝霧流介は異常な状態にある。
とにかく、彼を外に出さなくては……。
洋士は、肩を朝霧流介のわきの下に入れ、いっしょに立ち上がった。
朝霧流介の足には、まったく力がこもっていない。ほとんど自分の力だけで、彼を運んでいくしかなかった。サンプルの入ったアタッシュケースが邪魔だ。
重くて倒れてしまいそうだったが、どうにか店の外に連れ出すことに成功した。