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プロローグ
白い世界……。
ただ一羽の鳥が飛んでゆく。
白い鳥。
どこへ──。
街灯の輝きから急かされるように、男は弾丸を込めていた。
この明るさは、幻覚か?
一発。
特殊なサングラスをかけているのに、光がダイレクトに眼を刺しているかのようだ。たんに、まぶしいからなのか、禁断症状が出ているからなのか……。
二発。
「おい、止まれ」
そう声をかけられた。狭い路地に、数人の護衛が待ちかまえていた。政治家の口約束のように、予想どおりだ。
護衛といっても、まともな人間を守っているわけではない。
彼らは、男が手にした拳銃に気づいたようだ。緊張を表情にはしらせる。
「こ、こいつ、チャカもってるぞ!」
三発。
「おい! 来るなっ!」
男は、無視して前進を続ける。
四発。
拳銃の形をした「これ」の名前は、知らない。聞き忘れた。リボルバーを模したものだということと、基本操作しか聞かされていない。込めている弾丸も、特殊なものらしい。
五発。
「それを地面に置け!」
護衛が特殊警棒を抜いた。格闘術におぼえがあるようだ。かまえが堂に入っている。
六発──すべての弾丸は込められた。
あとは撃つだけ。
〈ドンッ〉
引き金を絞ると、炸裂音が轟いた。
本物に近い響きがあった。
警棒を振りかざしていた護衛の身体は、おもちゃのように崩れ折れた。
「ほ、本当に撃ちやがった!」
同じように特殊警棒を握った二人。
サングラスに、標的が映りこむ。
ドン、ドン、と立て続けに銃弾を放った。
おまけに一発。さらに加勢しようとしていた一人──計四人を戦闘不能に追い込んだのだ。
「や、やめろ!」
切羽詰まった声が、かなり前方からあがった。
路地の入り口付近。銃口が、男を狙っていた。この状況では、法律を遵守する見せ掛けなど役に立たないと踏んだのだろう。
ためらいはなかった。男は、生理現象のように弾丸を撃ち込む。
勝算はあった。むこうの本物よりも、こちらのほうが、絶対に速い。
簡単な物理法則だ。
案の定、敵は瞬く間に倒れていた。
路地に邪魔はいなくなった。
男は前進を再開する。表通りへ向かって。
その途上、これまでのことを回想した。長いようで短い数日間だった。
1.72時間前
夜九時。その日は朝のワイドショーから、ある芸能スキャンダル……いや、ある事件がトップニュースで報じられていた。昼、夕方のワイドショー、さらに夜のニュースでも同様の騒ぎだった。
若手人気俳優の加納正が、通り魔傷害事件をおこしたのだ。逮捕された加納からは薬物反応があり、自宅からは覚醒剤と合成麻薬MDMAがみつかっていた。
このところ、芸能人による違法薬物事件があとを絶たなかった。数日前には、元アイドルが大麻所持で捕まり、一週間前には、中堅クラスの芸人がコカインの所持容疑で逮捕されている。
芸能界全般に、種類を問わず、薬物が蔓延しているといえた。
「勝手にやってろ」
テレビを観ながら、朝霧流介はつぶやいた。狭い事務所に置かれた小さなテレビだ。リモコンを手にして、流介は電源をオフにした。
テレビ画面から、視線を窓の外に向けた。
窓ガラスに、自分の容姿が反射していた。
ずいぶん、落ちぶれたもんだ──そう素直に思えた。
むかしは、もっと小綺麗にしていたものだが、いまでは不精髭が肌に貼りついている。髪形もボサボサだ。
どこからどう見ても、犯人顔だった。
電話が鳴り出したのは、自分の風貌に苦笑いを浮かべたときだった。すぐに出たのは、ベルの音が鬱陶しかったからだ。自分からは語りかけなかった。
『もしもし? 朝霧さんですか?』
声は、三〇代ぐらいの男性のものだった。
「そうだ」
無愛想に、流介は答えた。
『あの、依頼をお願いしたのですが……』
「うちは、高いぞ。悪いことは言わん、ほかをあたれ」
『あ、い、いえ……』
相手は困ったように、どもってしまった。当然か。こんなことを言う人間は、商売人としては失格なのだから。
『ぜ、ぜひ、朝霧さんにお願いしたいのです! 直接、お会いできないでしょうか!? こちらから出向くべきなのは承知しているのですが……できれば、こちらのほうにいらしていただきたいのです。も、もちろん料金は、充分にお支払いしますから!』
「本気か? うちは調査員もおれ一人、上等な依頼を引き受けるような探偵事務所じゃない」
『そ、そんなことはありません! あなたの経歴は調べさせてもらいました。秋山さんの言ったとおりでした。朝霧さんこそが、ベストの人選だと思います』
「秋山?」
なつかしい名前が出た。
『はい、そうです』
「会ったのか?」
『いえ……電話です。いろいろ、そっちの世界に詳しい人をあたっていたら、秋山さんに行き着いたんです』
用心深いあの男のことだから、素性を明かして人と会うことはないはずだ。
『お、お願いできませんでしょうか!?』
「いつがいい?」
『ひ、引き受けてくれるのですか!?』
「話を聞いてからだ」
『あ、ありがとうございます!』
声は、まったくもって気が早かった。話を聞いてからと言ったのに……。
『今日、これからというのは、ダメでしょうか!?』
「いまから?」
『はい! そちらの都合がよろしければ』
そんなに切羽詰まった依頼なのだろうか。
秋山からの紹介ということは、「アレ」についてか。流介の脳裏には、いま消したばかりのニュース映像が浮かんでいた。
予想が当たっていれば、依頼主は、芸能事務所のどこか……だ。
「わかった。場所を教えてくれ」
声が告げた住所は、やはり、とある芸能事務所だった。
一時間ぐらいかかる、と伝え、流介は電話を切った。
それから五分ほど、立ち上がることはなかった。ようやく腰をあげると、重い足取りで歩き出す。
白い鳥。
飛んでゆく。
一瞬、そんな幻が見えたような気がした。
『アルバトロス芸能事務所』は、青山の一等地に自社ビルをもっていた。外観も立派で真新しい。大きさも、二流ホテル並だ。
回転扉を抜けると、広々としたエントランス。高さも二階分はあるだろう。外から数えたところ、六階建てのようだったから、ここを差し引けば、実際は五階建てということになる。
場に合った美しい受付嬢に名前を告げても、すぐには通してもらえなかった。あきらかに、うさん臭そうなものを見る眼差しで睨まれてしまった。清楚な顔だちが台無しだった。
「あ、朝霧さんですか!?」
受け付けに、一人の男がやって来た。さきほどの電話の声だった。最初に聞いた印象どおり、三〇半ばの真面目そうな男性だった。公認会計士か司法書士の事務所にいけば、こんな外見の男ばかりだろうと、くだらないこと考えた。
流介は口には出さす、うなずいた。
「私は赤井といいます。詳しいことは社長から話がありますので、こちらにどうぞ」
電話でも感じていたことだが、依頼主は彼ではなく、ここの社長のようだ。三基あるエレベーターの右端に乗り、四階の社長室に案内された。
応接用のソファに座ると、赤井と名乗った男が、お茶をすかさず運んできた。男性秘書ということだろうか。
「社長は、まもなく戻ってまいりますので」
三分ほど待たされた。その間、赤井と二人きりだったが、とくに会話を交わすこともなかった。
「ごめんなさい、お待たせしました。朝霧流介さんね? 社長の恩田よ」
入ってきた人物は、女性だった。女性社長だから、秘書が男なのか──そんなどうでもいい考えが頭をよぎった。ほかに男性秘書といえば、政治家を連想してしまう。これも、どうでもいい考えだ。
歳を重ねると、オヤジギャグを言いたくなるのと同様に、思考力が幼児化していくようだ。
いや、原因はべつにあるか……。
「朝霧です」
「ぜひ、お会いしたかったわ」
女社長の年齢は、四〇前後。ただし、見た目がそうというだけで、実際はもっと上──五〇前後だろうと推察できる。そうでなければ、これだけの事務所の社長はできないだろう。
芸能界で生きているだけあって、洗練された美貌をもっていた。若いころは、相当な美しさだっただろうことは容易にわかる。
「元麻薬取締官。《関越の雷鳥》と呼ばれていたんですってね?」
自分の格好を見ても、戸惑いや驚き、もしくは落胆を表情に出さないということは、事前に秋山から、現在の落ちぶれ具合を聞きおよんでいたのだろうか。
「朝霧さんが適任なのよ。武道の心得もあるそうじゃない」
たしかに空手をやっていたが、もう完全にさびついている。
「あなたも、最近の芸能スキャンダルは知ってるでしょう? 毎日毎日、麻薬だの、覚醒剤だの」
「そっちに顔が利いたのは、もうむかしの話だ」
「いいえ。あなたしかいないわ。元麻薬取締官……滅多に、そんな肩書の人なんてさがせない」
それはそうだろう。流介は思った。
麻薬取締官の絶対数が、そもそも少ない。
しかも経験豊富であり、それなりにまだ若い年齢で退職する者はさらに少ない。
麻薬取締官になるには、薬剤師の資格を有しているか、Ⅱ種の国家公務員試験(行政、または電子)を合格するかのどちらかだ。
双方とも、机上の勉強だけが重要であり、危険に対処するための護身術や射撃の訓練などは、取締官になってから習得するしかない。
警官希望者の場合、射撃はないにしても、もともと柔道の有段者だったり、空手の黒帯だったりと、「腕におぼえのある者」がめざすこともめずらしくない。が、麻薬取締官では、そういう人間はごく少数だ。なぜなら、薬剤師の資格も、Ⅱ国の合格も難関だからだ。
警察官でⅡ国を受かっている者のことを『準キャリア』と呼ばれることからも、それは想像できるだろう。最近は、国家公務員試験の形態が変わって、Ⅰ種・Ⅱ種・Ⅲ種という区分けがなくなり、総合職・一般職試験になったそうだが、とどのつまり、体育会系では厳しい。頭でっかちのガリベンが、どうしても多くなる。
そういう下地のなかで、腕におぼえのある優秀な取締官というのは、非常に貴重だ。当然、捜査活動をするということは、頭だけではだめだ。体力も度胸も必要になる。麻取としてのスキルを積むためには、現場で鍛えるしかない。警察官のように、警察学校で手取り足取り授けてくれるわけではないのだ。
もちろん、初任研修はある。射撃に逮捕術、道場も完備している。取締官が少林寺拳法を習っているのも有名な話だ。が、それで修羅場をくぐり抜けられるようになるかと問われれば、経験者はそろって「NO」と答えるだろう。
だから、優秀な麻薬取締官というのは、とても希少価値がある。それを中途でやめるということは、そもそも優秀でなかったか、過酷な捜査活動で精神をやられたか、取り返しのつかない不祥事をおこした……そのいずれかだ。
自分のやめた理由は、不祥事になるのだろうか?
流介にも、それは判断できなかった。
「なにを調べさせたい?」
「そうね、まずはうちの事務所に違法薬物をやっている人間がいないか……」
「いそうなのか?」
「いないと信じているわ。でも、いまの芸能界には、そんな親心は通用しない。最近のニュースを見ていれば、だれだってそう思ってしまうわ」
女社長──恩田は、ため息まじりにそう語った。
「もしいたとしたら、どういうルートで流れているのかをつきとめて。できれば、芸能界にはびこっている、そういう連中を一掃してもらいたいわ」
「期限は?」
「急がせて悪いけど、うちの事務所については三日間でやって。そのかわり、やり方はあなたの自由。料金も、あなたの言い値でいいわ。必要経費も、好きなだけかけてもらってかまわない」
時間についてはたしかに厳しいが、こんな怪しげな探偵に言うセリフではなかった。それほど、麻薬撲滅を本気で考えているということか。
「どう? やってくれる?」
「この事務所の調査だけはやってやる。だが、芸能界から一掃する、みたいなのは勘弁だ」
「わかったわ。それでかまわない。さっそく開始してちょうだい。知りたいことがあったら、赤井になんでも聞いて」
「荒いな、人使いが」
「じゃなきゃ、社長なんてやってられないわよ」
秘書の赤井が、その会話を困ったような作り笑いで眺めていた。