ママチャリとわたしたちの冒険
「どうしよう、リコちゃん。俺、マルエツでリコちゃんのママチャリのカギをなくしてしまった」
ナオ君はどうやら絶望しているらしい。どの角度から見ても今のナオ君は絶望のかたまりのように見える。「大げさな」。私はそう思う。私がそう思うのは一つにはもしかしたら理由があるのかもしれない。つまりスペアキー。男性の絶望には長く付き合ってはいられない。男性の絶望は動かないからだ。自転車の鍵をなくしてしまった。どうしよう。自転車の鍵をなくしてしまった。どうしよう。女子の絶望っていうのは、やたらと眠る。時差ボケ、イソフラボンの不足、最初の絶望の根源はいそいそと移り変わり、滑り、運ばれ、その繰り返しの中で絶望は別な何かに変わっていく。時にそれはポテトチップス一袋一気で見えなくなることさえある。それが変化しないとしたら、それはリストカットという形になってしまう。初めは、「最近、トイレ掃除をできなくなったのってどうしてだろう?」というただの疑問だったかもしれないのに。ただ去っていかないそれが、かたまりになって重くなってしまっただけかもしれないのに。けれど男性の絶望っていうのは、とても強固だ。とてもじゃないけれど人が運べるような石じゃない。それくらい重く、動かないものだ。もしかしたら男性にとってひげを剃るのはルーティンだけれども、生理はルーティンではないことと関係あるのかもしれない。ナオ君は泣きそうだ。私だってもう30。そんな時の振る舞いを体得しているって思う。それほど自信があるわけでもないけれど。
「そんなもの大丈夫よ。絶対に。だってスペアキーだってあるもの」
そう言ってから、自分自身に自信がないことだって気づいている。もちろん、自転車に関しては「絶対に大丈夫」って思う。けどナオ君に言った、スペアキー、ものすごい速さで、思いをめぐらせてみるけれど、どこに置いたか、どこにしまったか覚えていない。
「ナオ君、今日どこのスーパーに行ったの?」
「マルエツだ」
「なにそれ、私知らない。どこにあるの」
「ここからほとんど一本道だけど、10キロくらい離れてる。今日は月が妙にでかかったんだ。それに向かって自転車を漕いだ。そして帰り際、自転車の鍵をなくしたことが分かって、そしてどうしようもなかった。帰りは歩いて帰ったんだ」
「そう、10キロ。よく頑張ったじゃない」
「うん、そうだな。俺はよく頑張ったのかもしれないな」
なぜなんだろう。私はこのマンションに住んで、もう8年ちょっと経つ。けれどいつも行くスーパーと、ドラッグストアくらいしか行くことができない。それほど付き合いも長くない、そして週に1回くらいしか来ないナオ君の方がこの街の地理に詳しい。
「ただね、私は今、ちょっとだけ思い出せないの。もう少しで思い出せるところまで来ている。でも今じゃない。私はね、どこかの引き出しにスペアキーをしまったの。引き出しっていうことは確実なのよ。でもね、どの引き出しにしまったっていうことが、ちょっと思い出せないの」
本当のことを言えば、私は果たしてどこかの引き出しにしまったのだろうか?とさえ思う。けれどそんなことをナオ君に言うべきじゃなかった。それは別のタイミングだって思った。
私のマンションは2DKで、群馬から就職のため引っ越してきて、もう8年になる。8年も都内に住んでいるのだから、どこで服を買うべきかとか、どこで人と待ち合わせるべきだとか、どこにタバコを吸いながらコーヒーを飲める場所がるのかだとか、美容院や、医者だって、もちろん歯医者だって、知っている。どこのケーキがおいしいのか、バイキングならどこで、お酒をこういう風に飲みたい時はこういうお店でっていうことも知っている。けれど、それらは歯医者以外は、バスに乗って、電車に乗っていく場所にあって、歩いたり自転車に乗っていける場所じゃない。それがどうしてなのか自分でも分からない。
ただ駅までバスに乗って行った先に気に入っている喫茶店が商店街にあって、その店のオーナーは年寄の女性で、一人で切り盛りをしていた。その女性店主は、私には「いらっしゃい」と言うけれど、私をいつもいないみたいに、何でもないように扱う。「いらっしゃい」それだけ言って、アイスオーレと灰皿を私の前に置く。でもそれは決して拒絶じゃない。本当に冷たい人っていうのは辺鄙なところで暮らしている人たちだっていうことも知っている。そして店の奥には衝立とダイニングテーブルみたいなものがあって、その奥でオバサマたちが世間話をする場所を与えてもらう代わりに、江戸切子や、大理石の花瓶を買わなければいけない。女性店主は、初めから、私のことをそれに巻き込まれていくようなタイプじゃないって思ったらしくって、奥のダイニングテーブルにも招かれたことがない。そんな風な、切れ切れに聞こえてくる、そんな距離のあるところに人が集まって、何かを、たまにどっと笑い声がおきながら、そんな風にしゃべっているっていう雰囲気がとても好きで、通っていた。そしてその女性店主の、私にはやけに冷たいけれど、拒否や迷惑そうな顔もしないっていうところが、とても好きだった。
「引き出しか。それはどの引き出しなのか分からない」
ナオ君はそう言って、困ったような顔をしている。
「大丈夫。すぐに見つかるわ。私の予言は時によく当たるの。そうなの。高校だって、大学だって先性たちがやめとけと言っても受験して、受かるような気がしていたらやっぱり合格した。ただ『時に』って言ったのは何故かっていうと、いつも当たる気が満面でパチンコに行くのに、当たらないことが多いの。だからの『時に』ってわけ」
私は正確に話したつもりだ。つまり私の予言は「時に」しか当たらない。そういうことだ。けれどナオ君は少しほっとしたような顔を見せる。この先永遠にナオ君を「がっかりさせたくないな」って思う。でもそうはいかないのが世の常だ。私は私に言い聞かせる。たとえナオ君が落胆してがっかりして、しょぼくれても、何か冗談みたいなことを言えればいいなって。ナオ君と夕べ一緒に作った、レアチーズケーキを食べて笑ってくれたらいいなって。ナオ君は初めてケーキを作ったとかで、昨夜はとても楽しそうだった。上手に作れたらいいな。リコちゃん明日の夕飯の後に一緒に食べようよ。
「あのさ、リコちゃん、俺も手伝っていいのかな。その引き出しを調べるっていうこと」
「もちろんよ。ウェルカムだわ。じゃあ、取りあえず、寝室の方の引き出しをお願い」
寝室には引き出しって言ったら、カサがピンクで、透明な水色の円形のドロップみたいなのが連なった柄のランプが置いてある猫足のアンティーク家具しかない。しかも大したものは入っていなくって、服を買うとついてくるような、生地の切れ端とか、ボタンとか、もしくは爪切りやホッチキス、そんなものしか入っていないことを私は知っている。あとはベッドと桐たんすがあるだけだ。
この桐たんすは私が実家を出るとき持たされたものだ。そしてもう一つ持たされたものがあった。それは仰々しいドレッサーだった。私は桐たんすはうれしかったけれど、ドレッサーがすごく嫌だった。お母さんはその時こう言った。
「里子がお嫁に行くときも、このタンスとドレッサーは持って行くのよ」
私はそのタンスよりもドレッサーに重たい意味を感じた。私はいつも母親に何かを期待されたり、その通りにならないと母親ががっかりし、そしてその母親のがっかりに今度は私が苦しめられた。そういった無限のループのような「意味」が重たくついているドレッサーがとても気持ち悪かった。別に肌の手入れをしないわけでもないし、毎日メイクはする。すそして引っ越して数日でリサイクル家具屋に電話して、引き取ってももらった。けれどどうしてなのか、部屋から2人がかりでドレッサーが運ばれるとき、少しのさみしさと、捨てられたような気分になった。
私はリビング係になった。リビングにある引き出し。それもそう多いわけじゃない。イケアで買ったテレビ台に少しの引き出しがあって、パソコンや化粧品を置いてあるデスクにも引き出しはついている。それだけだった。でもやっぱり、自転車の鍵は見つからなかった。
「どーお?」
私は寝室のドアを開けたとき、多少のめまいを感じた。ナオ君は桐たんす中にしまわれた服を部屋中に投げては鍵を探している。
「多分そこにはないと思うの」
「いや、これも引き出しだろう?リコちゃんに残っている引き出しっていうキーワードを考えると、このタンスもあながち無視できないと思ってさ。つまり、リコちゃんのイメージの根源を考えてみたんだ」
そうね、確かにそうね、引き出しっていうキーワードから導き出される、引き出しのイメージの根源を探ってくれたってわけね。ありがたいわ。でもね、私はちょっと前に衣替えを済ませたばかりでね。つまりナオ君と8月海に行ったけど、その時、翌日支障なく仕事にも行ったけれど、でもね、そんないろいろあったし、暑かった、その夏の疲れがね、今一気に私を襲うの。
私は病的に服が好きだった。リビングと寝室、どちらにもクローゼットがついているんだけど、そのどちらとも満杯で、桐たんすに秋の服をしまうのだって、畳み方とか並べ方に注意を払わなければならなかった。この間、模様替えをしたときは、それほど疲れなかった。こんな服私持ってたんだな、なんて発見もあった。けれど、今はめまいがした。それはこんな時間にっていうこととあまり関係がないように思えた。ただ、もう一回、再び同じことをやるっていうことは、あんまりにも厳しいルーティンを私に迫ってくるように感じた。飽きた。それはもちろんルーティンではないことくらい私にだって分かってる。けれど飽き飽きだったし、もう一回「繰り返さなければならない」っていうことはとても厄介なことに思えた。
「ナオ君、作戦を練り直しましょう。今日ナオ君が持ってきてくれた、中国茶でも飲みましょうよ」
私をやかんに水を入れて、ガスにかけた。私のやかんにもお湯が沸くとピーって鳴る機能はついている。けれどあのお湯が沸いたっていうピーっていう音は嫌いだった。私もっとのんびり生きていきたいの。やかんが私を焦らせるなんて馬鹿げてる。ティファールにしようかっていうことも考えた。けれどあのすぐに鳴るカチッという音。それはきっと私を慌てさせるにきまってる。慌てて人生を歩まなけりゃならないなんて馬鹿げてる。
私は以前、ナオ君に30歳の誕生日にもらった、急須を洗おうと思った。普段は棚の上に飾っている。ナオ君は上野の蚤の市でそれを中国人から買ったらしい。よくわからないけれど、なんだかかわいかった。ナオ君と互角なほどかっこよくてかわいい急須だ。私は洗おうと、急須のふたをとった。そして洗おうと、お湯を出してから、いきなり気が付いた。私はスペアキーを、この急須の中に入れておいたんだっけ。その瞬間、スペアキーは、勢いよく急須からこぼれ落ち、排水溝の中に消えていった。
ナオ君と私の分の中国茶を入れる。明らかにナオ君は落胆し、がっかりし、しょんぼりしているように見える。私はナオ君のお茶に氷を一つ入れた。
「ありがとう」
とナオ君が言う。ナオ君は猫舌すぎて、暑い飲み物には氷を1個入れないと飲めないのだ。
「あのね、大事なものが大事過ぎて、そしてそれを大事過ぎるものにしまっておいて、過去のカプセルをどこに埋めたのかわからなくなることってあるでしょう?つまりナオ君が私の30歳の誕生日にくれた、急須の中にスペアキーは入っていて、お茶をいれようとして洗っていたら、ふいに思い出し、その瞬間を逃すまじとスペアキーは無言のままさよならを表現したわ。お別れは、そう、突然だった。つまり排水溝の中に勇気をもって飛び込んだってわけ。その果敢なスペアキーは。私が忘れちゃうほどに大事な急須だったわけ」
「じゃあ、自転車はどうなる?マルエツに置きっぱなしの自転車は」
「そんなの、大丈夫よ。絶対に。それは絶対によ」
「そうかな、そうだよな。俺はリコちゃんが、絶対って言ってくれるとなんだか絶対に思えるんだ」
「そうよ、だいたい絶対に大丈夫なのよ。そう、たいてい絶対なのよ。そしてね、これから始まるのよ。今日のお月様は真ん丸なんでしょう?だったら、冒険の旅に出るべきよ。さあ、パーカーを着て。勇気を出すのよ。私はダンガリーのシャツを着て、首にスカーフを巻くつもり。それが私にとっての、冒険のユニフォームよ」
・上田直樹
昨日は土曜日で今日は日曜日だった。その二日間を二人で過ごした。というかもう午前0時を回っているから、今日は月曜日だ。お互いに今日仕事がある。俺が、へまをしてリコちゃんの自転車の鍵をなくした。リコちゃんは昨日、駅に着いた俺を、その赤い自転車に乗って迎えに来てくれた。俺は常々リコちゃんに言っている。リコちゃんは車の免許をとっちゃいけないぜ。どうしてかというと、リコちゃんはママチャリに乗ってだって大爆走なんだ。とても危なっかしく見える。けれどいつもリコちゃんはこう言う。
「私、群馬でも都内でも一回も自転車で転んだ事なんかないのよ」
でも俺は思う。それは今まではっていう話だ。これから先のことなんて、俺にだってリコちゃんにだって見えるはずがないんだ。
けど、リコちゃんの「絶対に大丈夫」は俺を眠たくさせるほど、安心させる。少し俺は寝つきが悪いけれど、土曜の夜、プロレスを見ながらリコちゃんが作った少し甘いフレンチトーストを食べたら、俺はソファで寝てしまった。朝起きると、リコちゃんはベッドで寝ていて、こういう時って、寝ている彼女にキスをするらしいが、俺はそうしなかった。なぜだかはわからない。でも俺はそうしなかった。
リコちゃんと付き合って、もう1年くらいになる。俺は初めから、そして今だって、リコちゃんを「リコちゃん」と呼んでいる。はじめはそこにいた連中が、リコちゃんのことを「リコちゃん」と呼んでいたからだ。そして付き合って一か月くらいの頃、リコちゃんは
「私は本当は、里子って書いて、本当の名前はさとこなの。でもリコちゃんの方が可愛くない?」
と言って笑った。そのリコちゃんの言い方に、俺はリコちゃんの秘密を打ち明けられている、そういうスペシャルで信用された男なんだって思ったけれど、その他大勢の奴も結構リコちゃんは本当は「さとこ」っていう名前だっていうことを知っていて、俺は落胆した。悪い女に騙されたような気分さえした。今リコちゃんは道路傍の植え込みの中を、なぜやら別けてのぞいている。
「何してるんだ?鍵はもちろんそんな所にはあるはずもない。だって、マルエツで俺は鍵をかけたんだから」
「うん。それはね、わかってる。でもね、植え込みの中に何かを探すって、なんていうか、月夜のロマンチシズムって感じがしない?あ、キティーちゃんのパスケースだ」
「なんなんだかなあ、俺が悪いと知っていてもそういう真似をするリコちゃんと俺は気持ちを共有できない気がするな」
「なによ、少しふざけただけじゃない」
「だから、ふざけてるから、共有できないって言ってるんだ」
「はい、はい、ごめんなさいね」
そう言ってリコちゃんは俺の手を握った。
赤い自転車が見えるといつも安心したものだ。あ、リコちゃんだ。そう思ったし、その次の瞬間も、またその次の瞬間も期待した。それは俺の大きな期待と幸せだった。リコちゃんのマンションまで徒歩7分くらいだ。その道に少し坂がある。リコちゃんは、うんしょ、うんしょと坂を漕いで上ってみせて、坂が終わると俺をふりかえり、歯を見せて笑った。リコちゃんの前歯はとてもかわいくて、その次の瞬間が実現したと感動した。
そしてセックスをしてからなんだ。俺たちはどうもかみ合わなくなった。どこがって聞かれたら困ってしまう。そういう種類のかみ合わなさだった。俺はリコちゃんに求めたものを少ししか得られず、リコちゃんが俺に対して求めるものを、俺がそうたくさんは持っていなかったからかもしれない。でも俺はそのかみ合わなさを説明し、リコちゃんに伝える努力したつもりだ。でも自転車の鍵はなくなった。
俺はリコちゃんに握られた手を、大げさにぶるんぶるん振りながら歩く。時折沈黙が訪れるけれど、付き合って一か月っていうわけじゃない。
「なあ、アイドルグループの熱烈なファンっているだろう?」
「そういうの、最近多いわよね」
「俺の職場にもいる。仕事が終われば、そのアイドルグループで一色。休みがあればアイドルグループのイベントのローテーション。そこに何があるんだと思う?そいつにとってそれはなんなんだろう」
「わからない。私は女だし」
「俺はね、そこにあるのはきっと太ももだって思うんだ」
「太ももがきれいなアイドルっていうわけ?」
「違う。太ももだっていう意味だ」
「ふーん」
「どうしリコちゃんは理解してないのに、理解しようとせず、まるでなかったことのように、『ふーん』って言うんだ」
「だって、わかんないんだもん」
「リコちゃんのそんな所が我慢できないんだ。そういう風に言うもんじゃないだろう?それは俺に対して失礼じゃないか」
「でもさ、太ももに100パーセントを向けられる男性って少し憧れちゃうな」
「そうやってテキトーに言う。それだって俺に失礼だ。全くリコちゃんは」
俺はだんだん腹が立ってくる。少しの間話していると、必ずリコちゃんは俺をイライラさせる。そのイライラがどこから湧き出てくるのか俺は最近は分かるようになった。つまり、リコちゃんは、俺に最後まで、付き合ってくれないからだ。俺はリコちゃんに最後まで付き合ってほしいんだ。こっちを向いて。
「あのね、虫の声がこんな風に聞こえるなか、私たちはマルエツに向かって冒険しているのよ。それを忘れないでちょうだいね」
リコちゃんがそう言うので、俺は黙るしかなかった。リコちゃんは怖い。怖いから俺の文句を封じる力を持っている。
月は大きくて、真ん丸い。マルエツの方にあがっているのだから、俺たちは、まるで月に向かって歩いているような気がするし、この世に他の誰も存在しないような錯覚を感じる。けれどリコちゃんが俺の手を握っていることと関係があるのかないのかわからないが、その想像をさみしいとも怖いとも思わない。もしかしたら不思議な幸福を感じているような気さえする。このまま歩いていけば、いつかの瞬間に、二人で空中に浮かぶんじゃないかなんて想像する。そしてふわりと浮いたまま、月にたどり着く。俺の個人的な感想だが、太陽よりは月の方が優しい気がする。丸見えにするとか、焼くとか、太陽は遠慮を知らない。けれどそれに比較して月ってやつは俺たちに優しいんだ。
リコちゃんにその、太陽と月への述懐を言ってみる。言い終わった瞬間に、りこちゃんは
「そうね」
と言う。俺はまたイライラする。
「おい、リコちゃんは俺の述懐を聞いて、それに対して何も考えず、何も思わず、『そうね』と言っただろう。俺はそういうのは嫌なんだ」
「考えたし思ったわよ。ちょっとナオ君って、なんていうかめんどくさいし、うるさいわ」
そんな風におっかないリコちゃんだけど、俺はただ一つ、リコちゃんのルールを知っている。それは、俺を心細くさせない、落胆させないっていうことだ。それがあるからこそ、致命的な破局は訪れなかったのかもしれない。そしてそのおっかないリコちゃんの、その顧みない優しさが、俺をリコちゃんに引き止めるものだった。
「あのさ、リコちゃん。俺の母親ってのがさ、俺にどうしてか、緊張を求めるっていうか、俺を緊張させるんだ。他の奴らの母親への接し方はそうじゃない風に見えた。俺が多少転んで傷ついても、おふくろはどうして転んだかっていうことに、言及し、原因を探るんだ。それは俺にとっての緊張だった。それは今だって続いてる。そういえば、おふくろは寝て起きると、俺のオヤジにこぶしで背中を叩いてくれ、力いっぱい叩いてくれ、そう言ってた」
・柳里子
ああ、めんどくさい。けれど、私のちょっとした仕草や、言葉に妙に絡む、そんな言葉を最初から最後までなんて聞きたくもない。だから、返事も短くなるし、ナオ君の言いたいことに沿うような言い方をできない時だってあるし、うっかりっていう言葉をナオ君は許してくれない。私は本当は「水に流してくれる男性」を求めてる。でもそれでもナオ君と付き合っている。もしかしたら、私とナオ君は、勘違いから付き合いはじめ、いまだに勘違いしたままでいるような気もする。でもそれは私とナオ君、どちらかが間違っていつっていうことでもないような気もする。やっぱり私たちは恋人同士だ。もしかしたら、お互いに今までの女とは、男とは違っていてうまくふるまえないっていう気もする。でもやっぱり私たちは今、恋人同士だ。
冒険にはセットで父がついてくる。群馬に住んでいたころ、私はよく川で遊んだ。川の水はとても冷たくて、夏であっても、そのつま先は凍えそうになるほどだった。けれどもう一歩踏み込みたいな、そう思う。それが私の冒険だった。そして岸の岩に座っている父を見ると、父は手を振ったわけじゃないけれど、まるで手を振るような笑顔で私を見ていた。そして私はもう一歩踏み込み、ぬるぬるした石に足を置くことができた。父親は少し離れた距離で、そう多くは語らず、でも絶対だった。その体のフォルムで父は絶対を表現していた。お前のことを必ず見てるぞ、お前のことを必ず守るぞ、そんな風なことを。そして父は冒険を許してくれた。そのもう一歩、もう一歩は、もしかしたら危険だったのかもしれないのに、それを許してくれた。守ったままで。その踏み込む勇気、父によって育まれた勇気は、確かに今私の中で大きいものだし、大切で人を信じる力を持てた。
そして父は歳を重ねるごとに、寡黙になっていった。そういう父に正比例して、私は父に対して冗長になり、今は私の冒険を見ていてねっていうふうに、ふるまえなくなっている。そういう大人になってしまった。
そして大人ならばこそ、大人になってしまった自分を悔やむべきじゃないと思う。けれど私はそう考えて「でも」って思ってしまう。そしてその後に、「だって」と思う。それは私の弱点だ。そしてナオ君の手を握っているっていうことを意識しながら、そういえば父は安全運転の名人だったな、と思う。父が一人で車に乗っているときは、それはわからない。そしてわからないまま世代交代は進み、父も徐々に世界から忘れられていくのだろう。
私は来月31歳になる。私は秋に生まれているけど、夏に生まれたんだろうって言われることが多い。それならば、ナオ君にいつも夏みたいな笑顔を見せたいなと思う。バカみたいな快活さではなく。私は太陽が好きだから。太陽が朝昇るのを決して怖がらないのだから。窓を開けて太陽を見る。太陽はアホみたいだ。そしてその太陽が今日を始めてくれた。今日私は昨日まで知らなかったことを知るのだろうか。知らないコーヒー店でどんな発見があるのだろうか。そのコーヒー店のマッチには何色だろう?そういう風に私は太陽に期待する。さっき太陽は遠慮がないってナオ君は言ったけど。太陽の醍醐味っていうのは、遠慮しないっていうことだと思う。遠慮なく、とても直截で正直な太陽。私はもともと、結局受け取るもの、例えば医者に渡す封筒に入ったお金であるとか、少しゴージャスな誕生日プレゼントとか、そういうものをとりあえずっていう風に、何回か拒否してみせる、そういう人たちが好きになれない。だってどうせ受け取るんだから。ナオ君は月が好きだっていうけど、太陽の遠慮なさ、直截で素直なところ、それを好きになれないってどうしてなのかしら。
月は隠す。付き合って1年になるけれど、私は月のようにナオ君に接してしまう。まるで彼女なのか他の何かなのかわからないみたいに。だってなぜかナオ君はプンプン怒っているのだもの。怒らせているはもちろん私だ。それを私だってわかっている。だから、私は手をつなぐ。私はここにいて、きっとナオ君も私に気づいているわよね。手をつないでいるから、まだ大丈夫だけれど、今この手を放したら、月は私たちの関係さえもあいまいに、まるで冒険なんかじゃなく、一人の男性と一人の女性が、ただ散歩をしているような感じになってしまうだろう。そして握ったナオ君の手から私にさみしさが伝わってくる。自転車の不在はこんな風に私たちを悲しくさせる。でもそういったって、私のママチャリはマルエツに置いてあるのだし、私たちがさみしくなる必要はないのかもしれない。
「何もかも、ナオ君の言うお通りなのよ」
ふっとそんな言葉が口から出た。
「ん?」
「つまり、いつだって私はね、ナオ君の言うとおりだなっておもっているっていうこと」
私はもう一回、ナオ君の手を強く握ってみた。
私は30歳でもうすぐ31歳になるけれど、30歳になった時、私は30歳の女子はどうあるべきかっていうことをわからなかったし、31歳の私もどうあるべきか、見えてこない。30歳と31歳はわからないけれど、成長したっていうことは分かる。だって私は反抗期ではないし、思春期でもない。あの頃よりは確かに成長している。そしてだいぶ先、私の30歳とか31歳が見えてくるのかなって想像する。
ただ唯一守れそうな約束事がある。誰にも話していない私だけの秘めた約束事。それっていうのは30歳の誕生日から始まるんだけど、毎日ネイルを塗るっていう決め事だ。それをどうやら守れそうな気がしている。ネイルを塗る。簡単なことだ。でもそれが毎日毎日のことで、多少忙しい日でも、飲んでしまった日でも、少し具合が悪かったり、二日酔いだったり、熱があってもやってきた。そういった、つまらない自分との約束を「毎日」続けることが私の30歳の目標だった。
30歳、31歳。それは誰かに私の人生を任せてもいいような年にも思える。
・上田直樹
「ねえ、ナオ君、30歳とか31歳って、どういう意味の歳なんだろう?」
「それは多分、『お嫁に行く準備はできたわよ』っていう歳なんだろうな。やっぱり」
俺は変なことを行ってしまった。そのさっきを猛烈に悔やんでいる。一回口に出してしまった言葉をなかったことにする方法なんて、多分ない。けれどリコちゃんに言いたい気分だ。
「なかったことにしてください」
と。そして俺は付け加えた。
「なんていうか、そういうのは、つまり『一般には』っていう話をしただけで、リコちゃんがそういう歳だって言ってるわけじゃない」
「なあに、それ。私は結婚オッケーっていう意味じゃないって言いたいの?」
俺がうっかり言い、それを取り消したいと心から思った「結婚」という言葉をリコちゃんは身軽に言う。どうやらリコちゃんには結婚する。結婚すべきだっていう気持ちがひとかけらもないみたいな言い方だ。それに俺は救われる。
死んだセミが落ちていた。リコちゃんは
「こんな季節外れに死ぬなんてアポね」
そう言ってセミを拾い上げ、植え込みの中に、放り投げた。セミは「かさっ」とした音をたてただけで、植え込みの中に入ったらしい。そのセミの墓場は、リコちゃんによってつくられた。また、リコちゃんは見せてくれた。その動じない、布団だって軽々と持ち上げる、そんなおかみさん振りを。
「なあ、リコちゃん、今日天気が良かっただろう?なぜ布団を干さなかったの?」
「だって三日前にも干したもの」
「でもすべての条件が揃うっていうことはそんなにあることじゃない。つまり休みであり、お日様が出ていて、空気が乾燥している。そんな条件。リコちゃんは布団を干すべきだったんだ。だけどそうしなかった」
「はい、はい、そうね」
「だから、おかみさんに欠かせないのは、絶対に母性じゃないか」
「あー、もういい。いちいちうるさい」
「なあ、あの正面に見えている、月にはさ、ウサギが住んでいるのかな?」
「ふーん、そんなことはないでしょう」
「おい、リコちゃん、今ふんって言っただろう。それはちょっと許せない」
「ふん、じゃなくって、ふーんって言ったの」
「そうか」
「でもね、本当にウサギが餅つきをしていたら、楽しいわよね」
俺はリコちゃんに太陽が好きか月の方が好きか、聞けなかった。それっていうのは、「とても怖いこと」のように思えたんだ。太陽と月、2人が別々に一票入れたら、俺たちはきっと壊れてしまう。今の俺にはこんな風に思える、つまり、一つの急須を見ても、同じように大切にできなくなるってこと。俺にとって大切でも、リコちゃんにとは、そう大切なものに思えなくなってしまうこと。でも俺だって気が付いている。リコちゃんは朝起きるとすぐにカーテンを開け放ち、ついでに窓も開ける。そして目を細めて太陽を見る。そして俺にとって大事なものが、リコちゃんにとっては、「なんだかかわいいわね」っていう程度だってことも知っている。けれどそれが何かの致命傷になる日がくるのかどうか俺にも、そしてリコちゃんにも分かっていないんだ。 そして俺の母親は、俺をいつも緊張させ、それは恐怖感や不安感に変わる。それなのに、おふくろが盲腸で入院した時、見舞いに行った俺を見送るとき、
「じゃあ、握手して、ね、」
と言って、俺の手を握った。俺はその時大学3年だった。それはとても不愉快なことだった。いつもはあれで今はこうかよ。何度も何度も裏切って、その穴を埋めようと、小さい俺を膝の上に抱く。俺は母親の匂いが大嫌いだった。かといって盲腸で死なれたら、俺は泣くのだ。どんなにおふくろが臭くても。
そして1人暮らしを始めると、無言電話がかかってくるようになった。俺はたまりかねて、電話会社に電話して、ナンバーディスプレーにした。そしてその無言電話はおふくろからだということを知った。一回、その無言電話でおふくろが泣いていた。息を殺すように泣いていた。そしてあくまでも無言を貫き通した。
そういう時、俺は俺におふくろが電話をかけてきていることを知っているという風には、知らせたくなかった。あまりにもおふくろが可愛そうに思えたんだ。おふくろから電話がかかってくると、俺は出ないようにした。それなのに、おふくろは何を考えているのだろう。俺がおふくろからの無言電話に出ないようにすると、おふくろは決まって、50コール鳴らすんだ。それをソファに座って聞きながら、俺は緊張する。おふくろから受け取ったもの。それは、緊張感とそれによる恐怖と不安、そして言い訳だった。そしてそれはとても臭いということ。
隣を俺の手を握って歩く、リコちゃんを見る。ショートカットがよく似合う、きれいで少し背の高い女性。俺はすぐにリコちゃんを好きになったが、付き合って1年、リコちゃんは絶対に俺の過去の追憶を踏んでくれなかった。
俺だって少しはわかっている。それをリコちゃんに求めるべきではないっていうことを。でも俺は頑固に思っていた。こういう女を俺は求めているんだっていう、そこにいない女性を。
・柳里子
うん、うまく答えられたと思う。ナオ君はうっかり「結婚」なんて言葉を口にした。それを私は、私にはそれが、その言葉が、なんの引っ掛かりもなかったわよっていう表現をうまくできたって思う。ナオ君にとってそれは多分私じゃない。私だって気づいてる。ナオ君はいつも探しているっていうこと。付き合うまでのお互いの吸引力はとても大きなものだったのに、この1年、お互いがお互いに求めるものがいつも満たされないでいる。私はそれをいくらでも我慢ができる。それはやっぱり、ナオ君のことが好きだから。でもナオ君はきっと我慢できないだろうなって思う。私だってたまにそういう思いになることはあるけれど、ナオ君は別の誰かっていうわけでもないし、ナオ君がそうであるならば、そうであるように、そのまま愛すことができる。でもナオ君はいつもきょろきょろと探しているし、私を前から見ても、その私に足りないガムシロとミルクを探している。
以前、私はナオ君にめんどくささを見せてしまったことがある。私たちはその時、私の部屋で謎解きのDVDを見ていたのだけど、私はこんなことをナオ君に行ってしまった。
「ナオ君、私のこと好き?」
「ああ」
「私のこと愛してる?」
「ああ」
「ねえ、ああじゃなくって、言葉にしてみてよ」
「うるせえんだよ。なんなんだよ。お前なんなんだよ。そういうことは別に言わなくていいことじゃねえか。しかも俺たちはこういうDVDを見ている最中だぜ。めんどくせえんだよ」
私はただ、甘えたかっただけだった。冒険が終わって、父親のもとに駆け寄り、何も考えずに甘えたときの気持ち。それを再度っていう気持ちだっただけだ。でもナオ君はそれを許さなかったし、そしてその時の私を私だっておかしいと思う。そんなこと言うべきじゃなかったって思う。私はその時は本当に、ごめんね、と小さな声で言ったけど、DVDに熱中しているナオ君には聞こえないみたいだった。
ナオ君、ナオ君が探してる人ってどんな人なの?滅多にいない人なの?それともいくらでもいる人なの?
・上田直樹
俺は昔、2年間付き合った女がいた。その時俺は大学生で、彼女は4歳年上のOLだった、俺は学生で彼女はOLだっていうことで、彼女の誕生日であるとか、そういう日以外は食事も酒だって彼女が金を出してくれた。そういう風に俺は愛されていると感じていたし、疑わなかったし、俺が疑わないっていう自信が、彼女も俺を疑わないでいさせられているような気がしていた。ただただ安心できる女だった。俺はカメラマンを目指していて、彼女も応援してくれた。そして写真を持って、彼女の部屋を訪れる。そこには不幸などなにもなかった。ひとかけらも。彼女は写真を見て、
「そういうのってあまりよくわからないけど、上田君は天才だって思う」
と言ってくれた。俺はその「天才だって思う」っていう言葉にも安心していた。
そして安心したまま2年が過ぎ、楽しくバスケをやっていたら、突然振られた。俺は彼女に1時間おきに電話して「なんでなんだ」と聞いた。バスケのせいか汗をかく。身体が冷たくなっていくのと反比例するように。そんな風に汗は止まらない。3日間俺は眠らずに電話をかけ続け、最後の電話で彼女は言った。
「私はね、上田君の彼女だって思ってたけど違うのね。お母さんだったのね。そしてね、そろそろ私も貯金がしたいの。ほら、将来だってあるでしょう?私にも」
「将来」とOLは言った。そして俺は彼女にお母さんとやらを求めていたのだろうか。俺は将来というのは、特に何かが見えるっていうわけでもなかったけれど、今の幸福と地続きで絶えることなんかなく、その幸せと安心の連続とカメラとバスケが続いていく。それが将来だと思っていた。
その安心が幸福すぎて、俺は退路をその時断っていたのかもしれない。だから1時間おきに電話したんだ。戻れる場所も戻れない場所もそのOLの部屋だったって俺は感じていたし、戻れないとしても、もう一回戻りたいと思っていた。
そして戻るチャンスもないまま、俺の身体は痛い身体にゆっくりと移行していった。身体中が痛くて動けない。もちろんバスケだってできない。痛い。ただ痛い。それは熱が出たり、咳が出たり、そういうものじゃなかった。おふくろはあちこちの病院に俺を連れて行ったが、治ることはなかった。けれどおふくろと病院の食堂でカレーライスを食べながらも、俺はわかっていた。俺は戻りたい所に戻れない。「安心」に帰りたいのに帰れない。目の前にいるおふくろは、俺のおふくろではない。痛みとはそういうことだった。痛くてバスケができない。バスケをやる連中を見ていることしかできない。それはあのOLのせいだ。そして写真も撮れない。あのOLが俺のことを「天才だ」と太鼓判を押さなくなったせいだ。
そして乱雑にいろんな女と付き合ってみたが、そこには大根と豚肉の煮物はなかった。そういう女っていうのはたいてい、エリンギを裂いたり、シイタケやエノキの石づきをとって、炒める、つまり、加熱するっていう料理を出す。そしてそういう女っていうのはほぼ間違いなく、ナルシストなんだ。そして親の前では間違っても煙草を吸わない。携帯で口をとんがらせて自分撮りをする。そんな女は誰も安心なんてさせないんだろう。でも、時が経てばそういう女も、自分撮りに飽きて、おかみさんとしての自覚を持って、座布団に座るのだろうか。俺はお前らのそんな過程を見続けるほど、暇じゃないし、身体だって痛いんだ。
そしてリコちゃんに出会った。本当はサトコなのにリコとウソをつく女と。俺は久しぶりに本当に惚れてしまうかもしれないっていうスリルを感じた。乱雑に付き合った女たちは俺にそれを感じさせなかった。つまりリコちゃんはスリルを与えてくれる女の子で、そのスリルがあるからこそ「本当」じゃないかって思えた。
そして俺はエリンギのナルシスト女たちへとは違って、リコちゃんに「違う。そうじゃないんだ」と言った。それはこの1年の大きな積み重ねで、俺は踏ん張った、踏みとどまったっていう気がしてる。リコちゃんはどうそれを受け取っているのかよくわからないけれど。
いつもの坂道ではないけれど、ここにも坂道がある。赤い自転車。今ここにない。さみしいな。何か足りないな。そう思う。
・柳里子
ここにも坂道があるんだな。住宅街。けれど私のコンバースのハイカットのスニーカーと、ナオ君のナイキはそんなに音をたてるわけじゃない。
いつも駅にいるナオ君を自転車で迎えに行って、スーパーで買ったものをかごに入れて坂道を上っていった。ナオ君を迎えに坂道に差し掛かると、私は一回もブレーキを握らず、一気にナオ君の元へ行き、まるでナオ君を抱きしめるみたいに、ナオ君のすぐ目の前で自転車を回転させ、きゅっと止めた。それはとても贅沢なことだった。
けど、今はここに赤い自転車はない。さみしいな、何か足りないな、そう思う。
大きなお宅の庭にいたドーベルマンが、いきなり私たちに獰猛に吠える。ナオ君はとっさだったんだろうけど、私をそのドーベルマンから守るように両手を広げて、私を背に、ドーベルマンに対した。ドーベルマンは門から出られないって決まってる。そのナオ君に、
「ナオ君って、本物のアポね」
と私は笑う。ナオ君は
「さっきからアポ、アポって、それって何なんだ」
「アホの2段活用。アポはアホよりもっとアホっていう意味。でも愛情もコンソメ一個分くらいはあるってのが、アポなのよ」
小さな公園に差し掛かる。
「あーーー、もう私疲れちゃった。少し休んでいこうよ」
と言ってベンチに座り、タバコを取り出す。ナオ君もそれに倣う。
「つまりは月のそばにマルエツってのはあるわけよね。そうでしょう?」
「そう、月の真後ろ、そして横にマルエツは存在する」
「マルエツっていう響きにはね」
「それは前聞いた。小さい頃近所にマルヤっていうスーパーがあったって話だろ。そしてそこのバナナボートがやけにおいしかったっていう」
「よく覚えてるわね」
「だってバナナボートは俺の好物だ。だからさ、マルヤとマルエツは何か関係のあるスーパーじゃないかって。そしたらマルヤにあった、素晴らしくおいしいバナナボートがあるんじゃないかって」
「そっか」
「うん。マルエツっていう看板を見たとき俺は初恋でもしたのかっていう気分だったのさ」
「ふーん」
本当はナオ君が私に恋したとき、
「まるで初恋みたいな気持ちなんだ」
って言われたらどんなにうれしかったかなって思う。そしてナオ君の目の前にいない、探しているだけの人には、そんな風に言うのかな。
「お前、黙って何考えてるんだよ」
そう言われても考えてみる。今までナオ君は私のことを「リコちゃん」と言っていたのに、今、「お前」って言った。
この冒険の旅、これからまだまだ続くけれど、スタート地点、私の部屋からここまでの間に、何かが変わっていっているって感じる。関係が変化しながらただ歩いている。そんな風だ。歩くっていう行為は人間とか、関係性を変えていくのかな。そうは言っても、関係なんてちっとも変っていなくって、ただ単に寝る予定だった時間をとうに過ぎ、10キロの道のりを歩いているのだから、ナオ君が疲れてきただけなのかもしれない。
「ねえ、私猫飼いたくって」
「俺の実家で猫は飼ってる。けど、猫っていうのは薄情だ。俺が小学生の時に買っていた猫は十分に餌もあったのに、出ていった。おふくろはしばらく泣いてた。だから猫ってのはやめた方がいい」
「じゃあ、犬でも飼おうかな」
「犬?猫よりはましかもしれないけど、犬ってやつは信じすぎる。疑わなさすぎる。窮屈だ。身動きが取れないし、自由を半分くらい犠牲にしなきゃなんなくなる。それは世話をしなけりゃとか関係なしにね。わかるだろ」
私はちょっと頭にきた。
「じゃあ、何を飼えばいいのよ」
「イルカかセキセイインコだな。ちょうどいい。バランスもとれている」
「アポ」
私はそう言って、吸殻をコンバースで踏んだ。ナオ君はというと、ナイキで踏んでいる。
「ねえ、冒険っていうのは、一回座ってもまた立ち上がらなきゃいけないものなのね」
「うん。冒険はそれを内包する」
「アポ」
「なんだよ」
「私は愛情たっぷりにそう言っているっていうわけ」
今のナオ君には私が確かに存在している。それは私が何回もアポっていうからかもしれない。もしアポと言うのをやめたら?もし私に口がなくなったら?そこに私は存在しないんだろうな。もう失ってしまったような気もする。今は確かに冒険の途中だけれど、冒険が終わってしまえば、私たちはどうなるのだろう。冒険の始まりと、冒険の途中でもう、何かが、はっきりとは言えないけど、何かが変わってしまった気がする。そしてそれが気のせいだって気もするし、疲れているだけ、寝不足なだけって気もする。何かが終わるっていうことを私は諦めない。終わらないで、終わる予感もしないで過ごしていた時と同じでいようと思う。私はアホの2段活用なんて普段しない。ナオ君に向けてだけ、アポって言うの。それはナオ君限定でね。そして冒険の後日談だってきっとあるんだ。
・上田直樹
リコちゃんはベンチから立ち上がるとき、大きな声で
「よいしょっ」
と言った。
「よいしょだって。もうそんなに年なのか?」
俺は笑って立ち上がる。
「ナオ君、それはね、当たり前のことなのよ。大人だったら、笑って立ち上がるなんてできない。もう一回立ち上がるときには、必ず、『よいしょっ』っていうものなのよ」
俺はなんだか大人に説教されたような気分になりふてくされた。もうリコちゃんに話しかけるもんかと思う。俺は笑ったのに、それに対してリコちゃんはきちんと答えた。それが気に食わない。
「ねえ、ナオ君、満腹って幸福よね。その対義語は何かしらね」
俺はさっきの怒りが冷めやらず、すぐに答える気がしない。20メートルくらい歩いた後、
「飢餓だろ」
と答えた。
「そうよね、飢餓よね。それはとっても不幸だわ。そしてね、今私はその不幸の中にいるの」
「そういえば、俺もだ」
「ああ、10キロってやつは案外遠い」
「10キロ歩くっていうのは、ある程度の覚悟がないとできないんだ。リコちゃんはそんな覚悟もなく歩き始めたのか?」
「うん。10キロっていうやつのリアリティを私は知らなかった」
「あのね、高校の時なんだけど、私ね、県立の女子高に通ってたのね。その学校には伝統的に、その学校から約16キロ離れた、そこいら辺では有名な公園まで競歩しなければならなくてね、もちろんみんな競歩なんてしてなかった。ただ、歩いてた。すごくつらかった。私とね、もう一人の友人は、途中で通る土手を下りていってね、そこでポッキーを食べた。そのポッキーがね、なんだかすっごくおいしかったの。私あんまりお菓子を食べるっていう方でもないけど、ポッキーだけは買うな。そして、道路に出てタクシーを拾って、その公園まで行ったのね。だから、その時も私、10キロ歩いてなかったかもしれなくて。こんなに歩くのって、久しぶりっていうより、初めてなのかもしれない。その時ね、食べたポッキーはおいしかったなあ」
「そのポッキーはチョコの、普通のポッキーだったのか?」
「うん、そうよ。その頃のアイドルがCMやってたような、そんな普通の」
「じゃあ、マルエツでアーモンドポッキーを買おう。豪華にさ」
「うん」
こういうのっていいなと思う。何か失うかもしれないってことに気づかないそんな時期の話。それを話し、聞いてくれる人が明るい月に照らされて長い影を踏むように歩く。手をつないだまま。こういうのってなんかいいな。
「ねえ、ナオ君、退路を断ってよ」
「え?」
俺が振り向く。
「冗談を言っただけよ。つまらない冗談。聞えなかったらもう一回言えるっていうほどの冗談でもない」
・上田直樹
「鈴虫かしら。コオロギかしら」
「そのどっちもだろ」
虫の音は、必ず静寂を強調する。つまり静けさを作るんだ。
「静かね」
「ああ」
「よい子はみんな寝たわよね」
「ああ」
「サンタクロースが来てくれたらいいのに。私そりに乗せてもらおうっと」
「ああ」
「俺、昔、自信過剰だったんだよ」
「うん」
「疑ったことなんてないみたいにさ」
「うん」
「頭もよかったし、バスケも得意でさ」
「うん」
「その上カメラなんてやってたから、芸術的幻惑に簡単に惑わされる女も多くってさ」
「だよね」
「バスケをしている間に思いがけず、心を翻した奴がいて」
「うん」
「何年も身体が痛かったな。そういう目には、あいたくない。もううんざりなんだ」
「アーモンドポッキー、私大好物よ」
「そうか」
「電車とか車で遠くに行くとき必ず買っていくの」
いつまでもこれが続いてくれと思う。これが冒険ではないと言ってみようか。ただ単に、月夜に誘われて散歩をしているんだって。
「だから猫ってやつは嫌いでさ」
「そっか」
「犬ってやつはたいてい従順すぎて信じすぎるだろう?俺は悲しくなってくるんだ。犬を見ていると」
「そっか」
「お前、見捨てられた時のことを1パーセントくらい、余裕を持って考えとけよってね」
「私は猫にもシンパシーを抱くし、犬にもシンパシーを抱くなあ。きっとね、猫は不安になるのよ。そして出ていく。猫は犬にはなれないもの。でもね、恋をするときは、私は必ず犬になる。退路を塞ぐし、疑わない。山奥に捨てられても戻ってくる。私ね、全然いい女ってわけじゃないの」
リコちゃんの言うことは冒険なのかもしれない。けれど俺はもう月夜の散歩って思っていたんだ。その月夜の散歩に冒険をさしはさまないでほしい。俺はすごく嫌だった。本当に嫌だった。もう戻ろう。温かいココアでも飲んで、仮眠しよう。そういうわけにはいかないのか?新しい自転車を買おう。
「しっ、見て」
リコちゃんの見ている葉の上を見る。一匹の鈴虫が羽をこすり合わせている。あたりはとても静かで、前も思った、この世に俺たちと鈴虫しかいないんじゃないかっていう錯覚を起こす。俺たちはしばらくそうしていて、鈴虫もそうしていた。数分間のことなのか、数十分間のことなのかよくわからない。
「あのね」
リコちゃんが鈴虫を見つめながら、声をひそめて話し出す。
「今、コロッケについて悩んでて」
「うん」
「あれってやつはね、ジャガイモがちょうど火が通った時にひき肉や玉ねぎとフライパンで合わせるのかっていうことでね」
「うん」
「それとも粗熱をとって他のボウルなんかにひき肉も玉ねぎも待機していた方がいいのか、つまり粗熱を取った柔らかいジャガイモをね」
「うん」
「でもひき肉なんかから出た肉汁をコロッケの中に封じ込めるならば、やっぱりマッシュできる程度のじゃがいもをフライパンに入れた方がいいのかもしれないとか」
「後者じゃないか?」
「でもそれって成型するときかなり熱いのよ」
「そうか」
俺は突然、この鈴虫を俺のものにしたい!という突然の性欲のように、そんな気持ちが性急に湧き上がるのを感じた。そして静かに手を出し、羽をつまもうとする。すると、鈴虫は羽をすり合わせるのをやめ、静かに隠れていった。
「運命の鈴虫を逃がしちゃって残念ね。でも冒険には失敗だってある」
「鈴虫を飼いたかったな。鈴虫ほどペットに最適な生き物なんてないのかもしれない」
・柳里子
確かに私はポッキーや高校の競歩やそういうもの、そういうことの話じゃない、冒険の話をした。でもナオ君は嫌な顔をしただけだった。嫌な顔をして、何か言われた方がよかった。ナオ君が怒りだせばもっとよかった。でもナオ君はとても嫌そうな顔をしただけだった。そうして徐々に怒らなくなっていく。怒らないナオ君が、私にとって、こんなにも怖くて不安だなんて思いもよらなかった。ナオ君はまだ見ぬ女性を探しているのかもしれないし、私の中に、そのまだ見ぬ女性の片りんを探してみたり、そうじゃない私がいると、それを矯正しようとしているんじゃないかって気がする。そういう時って、確かに私はナオ君に愛されていて、必要とされていて、それでいて私じゃない他のもの、そういう窮屈さと緊張を強いる。きっとナオ君はナオ君のお母さんの遺伝子を継いでいる。コロッケの作り方。ナオ君と突起も陥没もない話をするときの、ちょっとしたコツを私は身に着けている。
今私たちが歩いているっていうこと。これはもしかしたら、ナオ君は冒険だと思っていないかもしれない。ただの月夜の10キロの散歩だって訂正したいのかもしれない。でも私はそうはさせない。そういう覚悟だって持っている。そこに何かの変化や、一番最悪なものが待ち受けているとしても。
「私ね、ダイアモンドと縁がない一生を送ってもね、ダイアモンドにあこがれ続けたいって思ってる。そういう女性でありたいと思ってる。ダイアモンドっていうのは、ただそれだけのものなのに、キラキラ光っていてとってもきれいじゃない?だからね、そのダイアモンドを目の前にしたとき、『欲しい!』って思って、思わずつかんでしまうようなね、ダイナミズムは失いたくないな」
「そのうち30カラットのダイアモンドをプレゼントしよう。もし、お前が、俺が無防備に冗長に、しつこく話すのを許してくれたなら、だ」
「30カラットのダイヤのためよ。寝ずに聞くわ」
「ねえ、7年前はアスファルトじゃなかった、そんな所に埋まってるセミのことを考えたことってある?」
「俺もそれはよく考える。その時セミはどう思うと思う?」
「『こんなはずじゃなかった!』じゃない?」
「違うな。『こんなはずはない。俺は絶対にこんなはずではないはずだ』だな」
「『こんなはずではないはずだ』のセミはどうなるの?」
「『違う、何か間違ってる。だって俺は何かになるために生まれてきたのだから』そう思って熱くなる身体をどうしようもなく、死んでいくんだ」
違う。何かが間違ってる。私たちは何か大きな誰もいないマンションのの中に住んでいるセミの抜け殻のような、そんな、住人みたいだ。なにもないし誰もいない。何かを失ったのだろうか。そんなことはない。何も失っていない。私の赤いママチャリは、スーパーに止まっている。それを失ったなんて言わない。今、少しそこまで距離があるのよ。そういうものだ。何もないわけなんてない。その高層マンションに誰も住んでいなくても。そんなのおかしい。私たちはただ、ナオ君が置いてきた、私たちの相棒の赤いママチャリを迎えに行っている。そういう目標があって、何かを見たり、聞いたりしながら、胸躍らせるドラマがある冒険をしているだけだ。探している。
それなのに私とナオ君は誰もいない、そして何もない、高層マンションの高層階に住んでいる。
「私の友達でピンク色の髪の毛の子がいるの。ナオ君はどう思う?」
「個性的でありたいと必死になってるんだな」
「うん。そうなんだよね。でもある場所に行けばそういうピンクの髪の毛の子っていくらでもいて、その中に入っていくと、少し目立たなくなって、遠く離れてしまうと、どの子が、私の友達なのかわからなくなってしまう」
「個性的であろうという集団な」
「でもたった一人で個性的であろうとは思わないんだと思う。やっぱり同じ髪の毛の色の子がいるからできるんだって思う」
「チュッパチャップスになりたいんだろうな。同じ形で同じ白い棒がついている、いろんな味の飴。だいたいは同じ。でもね、少し違うのよっていうような」
「それはかなりの確率で任意に選ばれることを知らないのかしら?どれがどの味なんて、そこまでわかる人はそういない」
「そうか、そいつらは、選ぶつもりがないのかな?選ばれることしか考えていないのかな?」
「わからない」
・上田直樹
「なあ、お前さ、昨夜炊き込みご飯を作ったろ?そして『ナオ君、早く食べなきゃ冷めちゃうよ』って言っただろう?でもさ、それって俺にとってどんなに残酷かわからないのか?俺が極度の猫舌だってこと、知ってるんだろう。それなのに、猫舌じゃないお前が、口の中ではふはふほふほふしてるさ、そんな、炊き立ての炊き込みご飯をさ、俺が食えると思ってるのか?はふはふほふほふしながら、言っちゃってさ」
「そっか。ごめん」
「謝らなくても別にいいけどさ、だってさ、お前っていつもナオ君とか俺を呼んでるくせにさ、俺のタイミングをいつも間違えるじゃないか。だいたい俺のタイミングを計ることを放棄しているような気がするんだよ。俺には」
「ああ、ごめんね。ごめんなさいね」
「ほら、そういう言い方をすぐにする」
「あらあ、ほんとね。ごめんなさいね」
俺は少し言い過ぎだって今この瞬間に気づいちゃいるんだ。でもどうもできない。俺はなんだかむしゃくしゃしてきて、
「なんでお前は入ってこないんだよ。そういう風に言い返すばかりで。だってセックスっていうのはそういう意味だろう?」
「いいこと教えてあげるわ。それは女子に特有な気分の問題よ。私たちって機嫌の悪い時もある。それはブルーデーだってそうだし、ほかの条件がそろってもそういうことってある。あなたのお母さんだって、更年期とかあったんじゃないの?」
俺はもう黙って歩こうと思った。それなのに、リコちゃんは泣きながら笑っている。だいたい涙の意味がよくわからない。俺は女の涙で動揺しない。そこまでガキじゃない。そして今のリコちゃんは笑いながら泣きながらうれしそうにしているんだ。笑っているんだ。動揺しない俺でも、涙の意味が分からない俺でも、リコちゃんが笑って、嬉しそうにすれば心が痛む。本当は俺が悪いのだっていうことも知っている。しばらくさみしくさせたのだろう。俺たちの1年の付き合いの中でそれは罪だったのかもしれない。
でかい月ばかり見ているせいで妙な錯覚を起こす。広いワンルームにベージュのカーペットが敷かれている。黒いコードと白いコードが何本も走っている。そのカーペットの上に大きな灰皿があって、そこに向かい合って俺とリコちゃんが座り、タバコを吸っている。その部屋には何もない。あるのは何本ものコードだけだ。俺は部屋を出る。廊下を歩いても誰もいなければ、誰かが住んでいるっていう風でもない。俺はエレベーターに乗る。B2まである。地下には駐車場でもあるのだろうか。俺は1Fを押す。そのマンションを出ても誰も通らない。ただ月がでかいだけの、気味の悪い街だ。俺は少し歩く。でもすぐに俺は後悔して、マンションの隣のコンビニでタバコを買おうとする。俺が吸うタバコはセブンスターだ。どこにだっておいてあるし、セブンスターのない自販機なんて見たことがないくらいだ。けれどそこの禿げた店主は、セブンスターはありませんと言う。本当にないのですか?と聞くと禿げた店主は怒りだし、
「俺にだってプライドはあります。バカにしないでほしい。うちにはセブンスターが置いてないのだから」
と言う。妙な話だと思う。じゃあ、ほかの煙草でもいいけれど、と言うと、
「あなたには他の煙草も売りたくありません」
と言う。俺は店内をぶらぶら歩いてペットのコーラを選び、500円玉を出して、おつりは募金に、と言うとその禿げた店主は人が変わったように愛想がよくなり、
「これはどうも」
と言って、募金箱におつりをいれず、自分のポケットにちゃりんと入れる。マンションへ戻ろうとする。そして大変なことに気づく。俺がリコちゃんを置いて、出てきた部屋は何階かわからない。リコちゃんだってあんなところに一人でいれば、絶対心細いはずだ。俺はコンビニに戻り、また、禿げた店主に聞く。
「俺の部屋は何階でしたっけ?」
すると店主は
「あそこのマンションには最上階しかありませんよ」
と言う。そしてしれっとセブンスターをレジに置く。460円です。俺は今度は1000円札を出し、またお釣りは募金に、と言うと店主の頭は赤くなり、機嫌がいい。
それだって変な話だと思う。あんなにたくさんの部屋があるはずの高層マンションに最上階しかないっていうのはどういう意味なんだろう。俺は、言われたとおり最上階まで登って、通路を通る。やっと明かりがついている部屋があった。俺はドアを回し押す。すると歳をとったリコちゃんがいて、白髪の頭をとかしてもいないようで、
「どこに行ってたの?ナオ君」
と言うので、
「コーラを買いに行ったんだ」
と言うと、歳をとったリコちゃんは笑って、
「ちょうど飲みたかったの」
と微笑む。俺はそれを見て思う。リコちゃんは年を取ったってこういう風に笑うんだな、などと。その町には俺たちとタバコを売る相手を選ぶ禿げた店主しか住んでいなかった。赤い自転車は本当にみつかるんだろうか?いなくならないのだろうか?
「ナオ君、ナオ君」
俺はリコちゃんの声で呼び戻された。リコちゃんはショートカットの似合う大人できれいでかわいい子だ。少し照れたように笑う癖も俺は大好きだ。時にはまるで任せっぱなしのように、げらげら笑うこともある。決してゲラゲラだと言っても、それは下品なものではなくて、遠くの晴れた空に突き抜けるように「それってなんかおかしい」と言って笑うんだ。
「ねえ、ずっと先に黄色っぽくて暖かい、にじんだ灯りがあるでしょう?あれがマルエツなの?」
「うーん。どうかなあ。多分そうだと思うけど」
「近くまで来たのかな」
「よくわからない。まだ少し遠いだろうな」
「そっかあ」
・柳里子
それにしても大きな月。私の人生の中で、こんな大きな月を見たことがあるかしら。ジェット機が右から月を横切る方向で通る。それって、赤いランプがそのジェット機の正体なんだけど、月を横切っているとき、それは透明になり、月から左に出たときにまたジェット機になっていく。そういう風な光景。なんだか初めてだ。不思議な夜だなって思う。
そして月は私の中身を引っ張り出そうとする。私はそういうのを好きになれない。私の根っこはこうで、だから今こうなんです、なんていうのは意味がないように思える。楽しいことは寝る前に思い出したいから、それは忘れたくないけれど、そのほかのことなんて覚えていたくない。ましてや私の根っこを探るなんて馬鹿げてる。それらって、私が皆忘れていることなんだから。そうやって生活の大半は済みそうに思える。
なんだか月はよく見てみると懐かしい。昔私はそこに住んでいた。少し離れて、お父さんがいる。近くにはお母さんがいる。お母さんは水色のエプロンをして、濃いブルーのマタニティドレスを着ている。そしてベージュのカーディガンを羽織っている。そして見たこともないような顔をしてお母さんは怒っている。お母さんのこんな表情を今だって知らない。お父さんもすごく怒っている。お母さんがお父さんに殴られる。私はびっくりする。私はそんなもの知らないし、聞いたことも見たこともない。お父さんは怒鳴る。
「金を稼ぐのがそんなに悪いことなのか!」
そして分厚い財布をお母さんに向かって投げる。小さい頃習っていたピアノの鍵盤にその財布はぶつかって、ピアノから私の心境とでもいうようなマイナーな音が鳴る。私はそこにもういたくなかった。空中に浮かんでいることがこんなにも不安だってことを今になって知る。
そして私はそろそろ縄梯子を恐る恐る下に降りる。マルエツの明るくて暖かい灯りにほっとする。あんな光景は2度と見たくないし、もう戻らないと誓う。けれどその誓いを破りたくなる。マルエツの中では、過去私が高校の時からナオ君に出会うまでの期間に、付き合った男性がいて、大きなテーブルを挟んでタバコも吸わずに私の悪口を言っている。中には私の肉体の、秘密にしたい部分のことまで言う男もいる。月とマルエツ。どっちがましなんだろう。もしかしたら月の方がまだましなんじゃないかって思える。だって、お父さんは確かにお母さんをぶったし、財布は投げたけれど、お父さんの財布っていうのは家族を守ろうとする大切なものなのかもしれない。それがピアノにあたって嫌な音をたてたくらいで、逃げ出した私は考えなしだったなと悔やまれる。でも一回降りた月を、どうやって昇っていけばいいのかわからない。過去を懐かしむことはできても、その実現を願うのは無駄だって知る。もう縄梯子は垂れていない。縄梯子さえあれば、降りることができたのだから、上るすべだってあるはずだ。私は温かい灯りからも逃れて、月を見ている。降りることができた。上るすべだってきっとある。2度と戻らないなんて軽い気持ちで言った罰なのかもしれない。私はいつも一瞬一瞬で決めてしまう。でもダイヤモンドに憧れる女子ならきっとそれは一瞬一瞬のはずだ。ダイアモンドは一瞬でありながら永遠っていう性質を持っているのだから。それと同時にダイアモンドは大きければ大きいほどいいっていう性質も持っている。月だって大きければ大きいほどいい。それと同じように。けれど、あの赤い自転車は本当に見つかるのかしら?いなくなったりはしないのかしら?
・上田直樹
「リコちゃん、迎えに来たよ」
「ナオ君?」
「当たり前だろう。他に誰がいるっていうんだよ」
「迎えに来たって?」
「そうだよ。俺はマルエツから迎えに来たんだよ。リコちゃんが黙って歩いている間、俺はマルエツにいてそこから戻ってきたんだ」
「それって」
「つまり、マルエツ、あっち側から見ると、つまり一対の男女は、巻き込み巻き込まれ、そうやって大した意味もなく同じ色に染まっていくだけだし、それは何色なのか前もってはわからない。そして身体が痛むほど大切だったものを失ってしまっても、それらの思い出は多分消せないみたいだ。けれどね、それらをガラガラとひっそり引きずりながら、そのま歩いていくだけなんだよ。誰かを思い付きで助けたっていい。それがいい行いかっていうと別にそういうわけでもない。そして誰かを見殺しにする。それが悪かっていうとそう悪いことでもない。マルエツの側から見たら、そういう風に見えたんだ。リコちゃんがどうしても水に流すことができない何かが有ったとしたって、それを淡くなるまで引きずっていくしかない。例えば可愛がっていたペットの死だってそうなんだ。でもな、こっちに戻ってくるとそうも言えないような気持ちになってくるんだ。確かにそう見えたはずなのに」
「きっと、それって場所によるまたは気温や、色や、景色。そういうものによっていくらでも変わるのかしら?」
「そこまではわからない」
「私たち、なんか前後するように無口になったと思わない?」
「お前は何を思ってたんだ?」
「赤い自転車はいなくならないのかなって」
「同じだ。俺もあの赤い自転車はいなくならないのか?って考えてたんだ。でもきっとそれは杞憂だよな。俺は目立つ場所で屋根があるところに自転車を置いたし、それは必ずそこにあるわけだから」
「そう、杞憂よね」
「もう少しだから、何か問題でも出してくれないか?」
「じゃあね、私のAVデビュー作の題名」
「no sex in a office、制服の下を見ないでね、ストッキングはお好き? 快感爆裂娘、私上手なんです、ビル風に吹かれて、お尻に煙草を刺さないで」
「最後のお尻煙草を刺さないでがいいな」
そう言ってリコちゃんは笑う。その時すごく思ったんだ。リコちゃんは黙っているより、笑っている方がいい。笑っているだけでいい。笑っていてほしい。それだけだ。でっかい月に負けるもんかと俺は痛烈に思うんだ。
マルエツのそばまでやっと歩いてきて、俺たちはあまりの異様な光景に目を見張った。少し大きなマルエツと言うスーパーには「特価」「お値打ち」「お客様還元デー」なんてのぼりが立っている。そして道路を挟んで70階くらいありそうな高層マンションが建っている。新しそうだ。そう言えば最近この近くに駅ができたらしい。スーパーも近く駅も近いなら、こういうマンションだってできそうだ。そう言えばここの近くには、大きな総合病院もある。お墓もあるし、駅一つを乗れば大きくて年がら年中テレビに出てくるショッピングモールもある。生まれて死ぬまでここの近辺で賄おうっていうことなのだろうか。そう言えばその最寄りの駅から予約制のバスに乗れば成田だって羽田だって1000円台で行ける。随分ちんまりとした人生を送るんだな。お前らは。きっとジョギングやウォーキングとやらはするんだろうけど、鍵もない自転車を取りに、こんな冒険をすることもないんだろうな。
・柳里子
結婚っていうのは、誰かと一緒に夕飯を食べるってことなんだろうな。それってかなり幸せだな。いつもいつも変わることのないもの。それっていうのは見守られていることと同じくらいの安心がある。私は揚げたての唐揚げだって迂闊に口に放り込んでしまうかもしれない。そしてアツッと言って必死で唐揚げと格闘し、格闘に買ってその熱い唐揚げを飲み込むことに成功するかもしれない。それをナオ君とできるかなって想像しようとしても、想像できない。もしかしたらナオ君じゃないからナオ君で想像できないのかもしれない。でもナオ君以外の男性だってその想像に出てこない。その想像っていうのは、温かいけれど一人ぼっち。そういうもので、ナオ君であればいいなと少しは思う。けれどわからない。
それにしても、あらためて見ても異様な光景だった。さっき以上だ。ここまで来ると頭がおかしくなってしまいそうだ。マルエツと70階くらいありそうな高層マンションの間、少しマルエツの上にかぶさるように、めちゃくちゃ大きいとしか形容のできない月が浮かんでいる。それは本当に真ん丸で、本当に大きかった。初めてみる光景だった。こんな光景は多分過去にだって見たことはない。口で表現できるものでもない。ただ不思議、不思議な光景だった。ナオ君がバナナボートをほんの少し意識しながらも、月に向かって自転車を走らせてしまったのも理解できる。そんな光景だ。
・上田直樹
リコちゃんの手を一回振りほどき、もう一回俺がリコちゃんの手を握り締める。
結婚ってやつは何なんだろう。リコちゃんはもうすぐ31歳で俺は29だ。こういう年頃の恋愛は、普通結婚を意識するのだろう。でも正直に言うと、俺はリコちゃんと結婚しようと思ったことなどなかった。最後まで付き合わず、適当なところで謝って、俺の冗長さや、青春じみた理屈を真面目に受け取ってくれない。それに対する返答はいつもきまって
「はい、はい、ごめんなさいね」
というものだ。
夫婦と言うものがセミダブルベッドや、ダブルベッド、キングサイズのベッドで一緒に眠るっていうものならば、きっとその日にあった出来事や、会社での話、上司っていうのはこういう奴でさ、同僚の小川は仕事もできないくせにさ、とか、今日は、ポテトサラダを作ろうと思ってきゅうりをスーパーに買いに行ったんだけどね、試食コーナーで食べたナスの田楽がすごくおいしくて。それで今日は突然それと、さんまになったっていうわけ。そんな風にしゃべりながら、どちらともなく眠るのだろう。けどその後だって、虫は鳴いている。けれどリコちゃんは俺が寝た後に、、虫の音などかき消すように、ねえ、ナオ君、あのね、と言いかねない。俺だって明日仕事に行かなければならない。普通の節度を持った、真面目さや、冗談が、リコちゃんにはどうも似合わない。だから俺がほとんど寝ているのに、あのね、が始まるような気がするんだ。
俺が悪いのだろう。こういう歳で結婚を意識せず、泊っていったり、歯ブラシやシェービングフォームを洗面所に置いたり。いつかリコちゃんは俺用の茶碗と箸を用意していてくれた。茶碗は椿の柄が描かれたもので、箸は漆塗りだった。きっとそれらを選ぶときリコちゃんは、楽しかったはずだ。自分の好みで俺になにかしっくりくるお茶わんや箸。そして俺がその茶碗の中に入ったご飯を食べ、箸で唐揚げをつまむさまを見ているうちに、いつの間にかそれはさみしさに変わり、そのさみしさはリコちゃんの中で悲しみに変わっていったのだろう。その理由は多分リコちゃんにだってはっきりとはわからないんだと思う。だから俺にだって、はっきりとはわからない。俺の茶碗と箸は多分1週間後に活躍する。でもその「多分」がリコちゃんの絶対にならないのかもしれない。俺にとってだってそうなのだから。茶碗と箸の持つルーティンな性質にリコちゃんは傷ついたのかもしれない。リコちゃんはそういう一つ一つが可愛そうだったのだろう。そしてそれらを思い、悲しそうな顔をしたんだろう。今感じるんだ。悲しいなと。もちろんそれは俺にとってだって。それはとても悲しいことなんだ。
「危ない」
「なんだ?」
「それ以上月に近づいてはダメよ。月に捕まってしまうわ」
「そうだな」
「月ってやつは熱くも、冷たくもないけれど、そこには不幸があるのよ」
「そうか」
「不幸っていうのは」
「不幸っていうのは?」
「その場に直面してからじゃ遅すぎるの。なるべくなら頭を使って逃げるべきなのよ」
「うん、じゃあ、どう逃げる?」
「後退は月が笑うわ。それが悔しかったら横に逃げるしかない。まるで逃げていないみたいにね」
俺たちはマルエツより一歩手前の路地、高層マンションの前の路地を右に向かって進む。
「ナオ君、ゆっくりと着実にね」
「うん。ゆっくりと着実に」
「それはどうしてかと言うとね、それが月の性質なの。月は必ず不幸を内包している。それはとても悲しいことなの。私たちが『悲しい』と思うことが詰まってる。でもね、月は私たちを捕まえようとはするけど、それほどのスピードは持っていない。ほら、月を見上げてみて」
その時月は下半分が雲に隠れている。
「なあ、リコちゃん。雲には本当に不幸があるのか?」
「そうよ」
「違うんじゃないか?緊張があるんじゃないか?」
「もしかしたらそれも含む不幸かもしれない」
「もし、月に緊張があったとしたら、それは悲しさではなくって、恐怖と不安を俺たちに植え付けるんじゃないのか?」
「それも含むのかもしれない。ナオ君がそう思うのなら」
そして路地は行き止まりになった。家があって、車庫には白いヴィッツが置いてある。
俺たちはその突き当りの家の塀にもたれかかって座って、黙っていた。リコちゃんがポケットから煙草を取り出す。俺もっていう風にタバコを取り出した。そして思う。俺って何だろう?今リコちゃんがポケットから煙草を取り出したからといって、俺も煙草を取り出す。俺ってなんだ?誰かがそうしたから、俺もそうする。俺はもしかしたら、そういう風に生きてきたのかもしれないな。そんな想像は緊張でも、それにもたらされる恐怖や不安でもない。以前を思い出そうとしてみるが、明るすぎる月がそうさせない。いいや、それは明日のお昼にしよう。明日のお昼俺はきっと社食でカレーライスを食べるだろう。その時に考えればいい。けれど、それまで不安は続いてしまうのだろうか。そしてそのまま、同僚が煙草を吸いに行けば俺も吸い、同僚がパソコンを叩けば俺も叩くのだろうか。俺は何なんだろうという気持ちを明日も味わうのだろうか。死にたい。はっきり思った。それほどの不安でもないし、悲しくもない。死にたいっていう気持ちはとても中間で、とてもルーティンなのかもしれない。それを不思議な気持ちでその「死にたい」を考える。もう死んじゃいたい。それを言う人はきっと大勢いて、その他大勢の人たちと同じことを俺は今思っただけなんだろう。その他大勢の考え方を避ける方法なんてきっとない。俺だってその他大勢の中の一人だ。
「あのね、ナオ君。月にある不幸っていうのはね、私たちの知らない不幸なの。生きていく上で絶対にいらない不幸。絶対に知らなくてもいい不幸。それがね月には詰まってる。それぞれの人たちのそれぞれの不幸が詰まってるの。だからナオ君にとっては緊張とそれによる恐怖と不安なのかもしれない」
「うん、そっか」
「私の母はね、父に殴られたの。それは私がお腹にいるっていうのに、母はね、帰りが遅いと父に文句を言ったの。父はね、私たちを養うために遅くまで働いているのに、ってきっと感じたんだろうし、母もそれは我慢すべきだったのかもしれない。私がお腹にいるせいで、身体が重かったにしてもね。でも母は父をなじったし、父は母を殴った。そしてね、父は母に分厚い財布を投げつけたのね」
「悲しいな」
「うん。そう。悲しいの。私はね、今母も父も疑ってしまうの。母は私がお腹にいるとき、父をなじったのだし、父は、私を河原で遊ばせる時、私の安全だけを見守っているんだと思ってた。けれど、それは私だけの空想でしかない。もしかしたらね、父は何か別なことを考えていたのかもしれない。そう思うことって、そう疑うことって、私にとってはとても悲しいことなの」
「なあ、もう一本煙草を吸うのはやめようぜ。月にスピードがないのだとしたら、俺たちがすばやく、マルエツの自転車置き場に行けばいい、それだけだろう?」
「勇気ね」
「そう、生きていく勇気だ」
「そうね、人って何にせよ生きていかなけりゃならない。その勇気よね。逃げたい時だって誰にだってある。けれど逃げてばかりいてはきっとダメなのよね」
「そうだ」
「いつまでも疑って、それを払拭できないで、停滞してるなんて、大人には似合わない」
俺たちは一気に走った。どこかで犬が吠える。それに俺たちは動じない。どこかの家の窓が開いた。それに俺たちは動じない。
「なあ、リコちゃん、俺は確かにここに自転車を置いたんだけど。どうしよう。ないんだ」
「絶対に、絶対にその自転車はどこかにあるわ。絶対によ」
最初からリコちゃんは「絶対に大丈夫」と言っていた。そして自転車が俺が置いた場所になくても、「絶対に」と言う。リコちゃんはショートカットの良く似合う、背が高くてかわいい華奢な女性だ。それなのに、今のリコちゃんは、とてもたくましくて疑わない「おかみさん」に見える。俺はそれを呆然と見ていた。リコちゃんは俺のおふくろではなかった。緊張やそれに伴う不安や恐怖を与えることはない。ただリコちゃんの後を歩いていく俺にたいして、リコちゃんは背中で「安心」を表現している。それはもう自転車がみつかるかどうかっていうことではなく、俺がどうであれリコちゃんは、いつだって俺に安心を与える存在だって表現しているみたいだ。俺は感動していた。そしてリコちゃんの後をとぼとぼ歩く。それっていうのは絶対なんだ、そう確信しながら。
・柳里子
あの自転車は群馬からこっちに引っ越してきたとき、歯ブラシと歯磨き粉の次に買ったものだった。つまり、引っ越してから最初に買った買い物っていう風に言えるのかもしれない。私はその時ヘンリーネックのネイビーのワンピースを着ていて、自転車屋で、
「普段使う自転車が欲しいの。そういうママチャリっていうのかな。そういうのが欲しいの」
と言ったら紹介されたのがこのママチャリで他にも黒とかオフホワイトとか、ブルーもあったけれど、自転車屋の人が、
「お客さんには、赤い自転車が似合う」
そう言ってくれて、選んだのが、今は見当たらない、その赤い自転車だった。
くぎを踏んでしまったときにはチューブごと交換しなけりゃならなかった。そしてトイレットペーパーが入らないのに気が付いたとき、自転車屋で3000円出してかごも交換した。もう古いし、自転車のかごにミッキーマウスのハンドタオルを入れっぱなしにしていた。だからどうだってわけじゃない。自転車屋に行けば、いくらでも様々な自転車が置いてある。その赤い自転車に特に意味なんてないのかもしれない。新品でもないし、別に自転車に骨董的価値だってあるわけがない。でも失ってしまう。もしかしたら失うのかもしれないという感情は、さみしい、そういうものだった。でも何回だって私は言う。
「絶対に。絶対によ」
・上田直樹
自転車置き場をリコちゃんとゆっくりめぐる。あの赤い自転車はリコちゃんとセットだった。俺が駅に着くと必ず坂を、少しもスピードを緩めずに嬉々とした顔で、降りてきて、俺の前でキュッと止まった。
別に他の自転車だっていいのだろう。あの自転車でなくたって。赤い自転車でもなくたっていいのかもしれない。黒だってオフホワイトだって、水色だって。もしくはまた赤い自転車を買ったっていいんだ。ただ新しい自転車を買うことで、今日の冒険だけが残って、赤い自転車を失い、新しい自転車を迎える。そうだっていいのかもしれない。新しい自転車を買ったって、今日のこの冒険は俺たちとってとても大切で、何かが残る。でも、さみしい。でも俺がさみしいって思っても、俺のおかみさんは確かな足取りで、「絶対に」と言い切って、自転車を探している。リコちゃんは今、確かにたくましかった。その後ろ姿はとても俺を安心させる姿だ。
「もう、一周した。でもない。どうしよう。リコちゃん」
リコちゃんは黙って店の中に入っていく。リコちゃんが
「ああ、私お腹が減っちゃった。帰ったらマーボーナスを食べましょう」
と言う。俺はかごを持ちリコちゃんの後をついていく。リコちゃんが、ナスや、ピーマン、ニンジンやひき肉を俺が持つかごに放り込んでいく。そしてリコちゃんは忘れていなかった。それっていうのは、もうリコちゃんはそんなこと覚えていないだろうって思っていた、アーモンドポッキー、それをかごに放り込む。
こんな時間のマルエツには俺たちの他に、2組しかいなくて、スウェットの上下を着て、キティちゃんのサンダルを履いた女とエドウィンのデニムを履いた男のカップルはビールや酎ハイ、サラミやチーズなんかを入れた重そうなかごを持って歩いていたし、中年の太ったサラリーマン風の男はパンとピーマンの肉詰めの惣菜とトイレマジックリンをかごに入れていた。
リコちゃんは確かにマルエツの中、地をしっかり踏むように歩いていく。そしてそれは強くて疑わない、そんな風に見えた。強くて疑わない。離れていくものを離れていく瞬間まで気が付かない。それはリコちゃんのものだった。
リコちゃんとの結婚すら、リコちゃんを疑ってしまう俺だ。俺はリコちゃんを裏切らないのだろうか。裏切るのだろうか。あと数時間でその答えは出るのかもしれなかった。そしてそれを俺とリコちゃんが結託して、先延ばしにもできるようなことにも思えた。決定の時を先延ばしにするっていうのは、きっと男女の関係でよくあることなのかもしれない。いつまでも停滞しているのに、動こうとしない。そんな関係。でもそれは、その先にあるのは、結局は破局ではないだろうか。
でも今のリコちゃん、おかみさんのリコちゃんを見ていると、それは違うと思う。終わるということは、間違っているように思える。俺は俺に対して念じる。「退路を断て」。
リコちゃんは背筋を伸ばして堂々とレジで言う。
「今日、違うわね。0時をとっくに過ぎてる。昨日の夜、赤い自転車を自転車置き場に止めたの。鍵をなくしちゃって歩いて帰った。その赤い自転車を取りにきたの。どこにあるのかしら?」
「ああ、自転車は、巡回するものがいて、長く泊まっている自転車を、日曜の夜と、水曜の夜、裏の倉庫に集めておくんです。きっとありますよ。鍵に特徴はあるんですか?」
「ただ、赤いリボンを結んであるだけなんですけど」
店員さんはタバコとか水ようかんのセットなんかが置かれているところで、探している。「忘れ物」と書かれてある箱を底からあさる。
「これですよね」
そう言った店員さんの手に、ちょこんと赤いリボンを結ばれた鍵があった。
そう言ってレジ係はなすとかそういうマーボーナスの材料や、アーモンドポッキーの会計を済ませて、その荷物をリコちゃんに渡すと、
「こっちです」
と言って、先に進む。
・柳里子
私は少し重いレジ袋を持ったまま、店員さんの後をついて行った。失ったかもしれないと思ったものとの再会。これは私をドキドキさせた。失ったものは多分帰ってこないのだろう。けれど、それが「失ったかもしれない」ものであれば、必ず帰ってくる。お母さんはお父さんを罵り、お父さんはお母さんを殴った後、財布を投げたけれど、それは何回だって帰ってきた。お母さんんは蒸し器でプリンを作ってくれたり、お父さんはランドセルを買ってくれた。それは私が好きになれるランドセルじゃなかった。お友達はピカピカ輝くランドセルだったのに、お父さんが買ってくれたランドセルは牛皮でできたもので、私は少しだけ、学校に行くのが嫌だった。お父さんは、
「ランドセル、気に入ったか?」
って聞いたから、
「うん。とっても」
と答えたら、お父さんは笑ってもう一回帰ってきた。そんな風に失ったものはもう戻らないかもしれないけど、本当に大切で丁寧に接するそういうもの、それは一見失ったように見えるかもしれないけど、本当は失っていない「失ったかもしれない」ものだ。
倉庫に案内されて少し驚いた。自転車が隙間なく5列に並んでいたからだ。私は店員さんと、ナオ君に、「自転車のかごにね、ミッキーマウスのハンドタオルが置いてあるの」
そう言って5列に並ぶ赤い自転車を探す。
「これじゃないですか?」
店員さんはミッキーマウスのハンドタオルを揺らして見せる。あった。戻ってくるのはとっても簡単なことだった。自転車を倉庫から出して、店員さんにお礼を言う。店員さんが、店の中に消えると
「やった!」
と叫んで、私とナオ君は抱き合った。
そして私はさっきの店員さんに、私はタクシーを呼んでもらって、ナオ君は赤い自転車で家まで帰ることになった。
「もう、歩けないよ。いっくらアーモンドポッキー食べてもさ」
と私が泣きごとを言ったからだった。タクシーを外で待つとき、ナオ君は自転車を漕いで先に出発した。ここからはもうナオ君の後ろ姿も見えない。タクシーが着き、私は乗る。そうだ、今私とナオ君は月を背にして走っている。大丈夫。不幸や緊張、恐怖や不安は自転車や、タクシーには追いつけない。私はタクシーの中でアーモンドポッキーをカリカリかじった。
・上田直樹
ほとんど一本の道をリコちゃんのママチャリで走る。月は俺に追いつけない。そして今の月は、とてもじゃないが、不幸が詰まってるなんて思えない。月から逃げ回った時、確かに月の中には不幸が詰まっていて、それに飲み込まれてはいけないと思った。けれど今の月、自転車で振り向いてみると、それは俺の出発を見送る、大人の男である俺の出発を見送る、そういう大人な誰かに見えた。月に向かって歩く。月に背を向けて自転車を漕ぐ。俺はマンションでマーボナスを食べながら、リコちゃんに言おうと思ったことがある。それは「いつでも月に向かう時と月を背にするとき、それを両方考えて、片方だけで考えちゃいけないぜ」、そういう話だ。
自転車で走る横を静かにタクシーが通り過ぎた。おそらくリコちゃんが乗っている。けれど、タクシーの中は暗くてよく見えなかったし、暗い住宅街を走る俺に、リコちゃんは気が付かなかっただろう。
しばらく走る。
リコちゃんは俺を、「すぐプンプン怒る」とよく言うけれど、俺だってリコちゃんに
「リコちゃんはすぐプンプン怒る」
って言ってやりたい。冒険の最中、確かに俺とリコちゃんは多分さみしさを共有した。今まで1年付き合ってきたけれど、何かがかみ合わないような、俺とリコちゃんが並ぶその位置に、少しだけずれがあるような、そんな気持ちをお互い持っていたような気もする。多分それは俺だけではないと思う。俺はリコちゃんに何かを探し、リコちゃんは俺の中の何かを探した。お互いに探した。でもお互いに見つからないまま、自転車を失いそうになった。月夜が見せた幻影は幻影に見えてもそれは本当のことだった。俺たちはまだ、本当のことに直面できるほど強いわけじゃない。あと10年くらいはかかるんじゃないかって思える。いい大人だ。でもそんないい大人たちが、それに直面するのは苦しいものなんだ。若い頃よりも。歳をとってからよりも。俺たちが本当のことを見てそこに身を投じなければならないとき、それは細胞が徐々に死んでいくように、徐々に死んでいくのを体験するしかないんだ。俺たちはそんな風に軟にできている。
先の方に女性のシルエットが見える。女性のシルエットなんて言ってみたが、それがリコちゃんだってことくらい、俺には分かる。惚れた女のシルエット。それが分からないほど、リコちゃんの言葉を借りれば「アポ」じゃない。アポはアホより、より愛されているらしい。
自転車のスピードを加速する。風は今ない。俺を邪魔するものは今一切ない。捨てたのだろうか。いろんなものを。随分軽く感じるんだ。振り払っても振り払っても何回だって帰ってくるものは、受け入れるしかないんだ。受け入れるって言ってもそれは少しだけ重くなるだけだ。ある瞬間それはなかったみたいに軽くなるときもありうるし、いつの間にかなくなって、それによって軽くなることだってある。実現っていうのは軽いものだ。思っている間、それは重いんだ。自転車は振り払い、そして受け入れる。今俺はペダルさえ軽い。
そして模倣したんだ。模倣は悪くない。なにもかも、生まれたときから模倣から始まる。模倣っていうのはスタートなんだ。つまりリコちゃんの前でキュッとブレーキを握った。いつもリコちゃんが駅に迎えに来てくれる時に倣って。
「ねえ、ラーメン食べていこうよ。ここの塩ラーメンおいしいの」
「なんだよ。マーボーナスって言うから、材料だって買ったのに」
「多分、あんなレトルトのマーボーナスよりおいしいと思うけど」
「こんな時間に食べるラーメンっていうのは、酒を飲んだ時だけだ」
「あのね、このラーメン屋、関東ラーメン100選にも載ってたよ。コンビニで立ち読みしたの。こんなところにあったんだなあ」
「でもさあ、俺はね、つまりさ、どんなにおいしかろうとさ」
「あっさりと、こってりが選べるの」
「そうじゃなくて、俺はリコちゃんが作ってくれるのが、例え限りなくレトルトに近く、限りなく過熱に近い料理であろうと、俺はリコちゃんの愛情がさあ、手料理っていうさあ」
「はい、はい、ごめんなさいね」
そう言ってリコちゃんはこってりと、あっさりが選べて、関東ラーメン100選に選ばれた塩ラーメンの店に入っていった。
俺たちは狭いテーブルに座った。俺はあっさり、リコちゃんはこってりを注文した。
俺はまだ、ぶつぶつと文句を言っていた。
「料理における、少しの手間。それを愛情と人は呼ぶ」
「はい、はい、ごめんなさいね」
運ばれてきたラーメンを食べていたら、俺は無性に泣けてきた。この女とは別れがたい。それを知ってしまったんだ。
なんだ、俺の冗長さにとっくに気づき、付き合ってくれていたことに、さっき気が付いたんだ。俺を安心させようと「アポ」という言葉を作り、何回だって「はい、はい、ごめんなさいね」と言って、俺をあるべき場所、緊張もしない、それによる恐怖や不安もない場所にそっといさせてくれたんだ。こいつは本当にいい女かも知れない。
つまり、優しく付き合ってくれて、しまってくれた。それの天才だった。俺の長い話をきちんと聞いてくれて、きりをつけてくれる。俺は涙が止まらなかった。そして俺をかわいそうに思う。なんだかとても俺はかわいそうだった。そしてその俺の涙を見たリコちゃんはあまりにも悲しそうな顔をしていた。俺はやっと顔を上げて言った。
「リコちゃん、リコちゃんにはやっぱりあの赤いママチャリがよく似合うって思う。よかった。戻ってきてくれて」
するとリコちゃんは悲しそうに微笑んで
「そう?」
とだけ言った。
・柳里子
傷っていうのは大きすぎたら修復や帰るっていうことができなくなる可能性だってある。人生の一番の危機は「やけになる」そういうことだ。もしやけになってしまったら、きっと爪を切りすぎたり、お酒を飲みすぎて死んでしまう。
やけになってはいけない。絶対に。
そして私はもう1回「よいしょっ」と言って立ち上がり、甘いココアを作った。ミルクパンを混ぜながら、ココアを作りながら言った
「甘いココアを作ってる。すぐできるから」
ナオ君は何かを考えているみたいだった。
そして濃い目に作ったココアに氷を一つ入れて、テーブルに置いた。
それを受け取ったナオ君が言う。
「俺、リコちゃんのそういうところ好きだな。はいって渡して、俺がきちんとマグカップを握ったのを確かめてから、手を放すっていう。それって安全だよな」
「大丈夫。あったかくて甘いココアを飲めばすぐに眠れる」
「いや、俺は眠らない。始発で一回帰る」
「どうして?スーツだって鞄だってあるじゃない。何か足りないの?」
「違うんだ。俺は決定ってやつが大嫌いだった。それは自由じゃないし、拘束力も強くて身動きできない。そういうものだ。だから今までみたいに、リコちゃんの部屋から、会社に行くっていうことを止めたいんだ」
「あのね」
「あのね、って言わないでくれ。俺はまだだから」
・上田直樹
俺はリコちゃんが作ってくれたココアで泣き止んだ。ラーメン屋から俺に変わって、リコちゃんが自転車に乗り、ゆらゆら揺れながらゆっくりと走る自転車を、俺は少し早足で追いかけなければならなかった。なにもかも整理整頓された部屋みたいだ。そんな部屋でココアを二人で飲んでいたら、不思議と静かになった。聞こえるのは空気清浄機の音くらいだ。まるで空気清浄機の音が俺たちを黙らせているみたいに。俺は
「お姫さま」
となんとなくつぶやいてみた。それは多分、ココアにたっぷりと入れられた、ミルクと砂糖のせいだと思う。それによって、俺もリコちゃんも冒険が成功し、そこから帰還した安心感で、そう、安心は人を黙らせるから、空気清浄機の音の作り出す静寂にゆだねていられたのだし、意味のない言葉をつぶやいてみるのも、それらのせいだ。
「お姫様?私?」
リコちゃんはポッキーを前歯でカリカリとかじりながら少し笑って言う。
「お姫様はね、この前前髪に白髪を発見したの。びっくりしちゃった。でもね、私の両親とも白髪になるのが早かった。何の不思議もないのよね」
また静寂に戻る。眠らずに眠っているような気分だ。多分リコちゃんだってそうだと思う。つまり俺たちは今、眠らずに寝ているわけだから、いくらでも意味不明な寝言を言ってもいいはずだ。
「そうだよな」
「何が?」
「お姫様っていうこと」
「甘いね」
「うん」
「すごく甘い」
「俺、今なにも怖くない」
「不思議ね、私もなの」
「もう世界が終るとしたら、今何が欲しい?この前シーバイのワンピースを欲しがってたけど」
「もう、いいの。世界が終るとしたら、大切にすべきものを大切にするだけかな。ずっと欲しがってきた。でももう欲しがりたくないな。でもそれもきっと今の気分。もうすぐ世界が終るっていうそんな気分だからだと思う」
俺は結構きれい好きだが、掃除がそれほど好きっていうわけじゃない。だから夕飯を一人で食べるときもなるべく一つのお皿に全部が入るような料理しか作らない。まあ、例えばスパゲッティであるとか、レトルトのカレーであるとかそういうものだ。汚すものが最小限なら洗うものも最小限で収まるし、なるべく散らかさないよう、読んだ雑誌や新聞はゴミ箱に入れてしまえば事足りる。俺は散らかさないっていうことで、部屋の整理整頓をしないで済むように生きている。それは間違ったことではないはずだ。けれど足りない何かがある。俺はそれを今知っている。つまりそれは部屋が散らかったり、汚れたりしたら、掃除をするっていう、生きていくうえでのダイナミズムだ。
・柳里子
始発がもうすぐ走り出すだろう。ナオ君はスーツに着替えている。私は赤いチェックのパジャマを着たままそれを見ている。ナオ君はこのパジャマを初めて見たとき、
「メリークリスマス」
と笑って言った。別にクリスマスじゃない。そうかなって自分のパジャマをしげしげと見た。
家を出るときに靴を履きながら、ナオ君は言った。
「俺、戻れるかな。帰ってこれるかな」
「うん」
「でも、なるべく」
「わかってる」
「勇気が出るよう、祈ってほしい」
と言ってて出ていった。私は寝室へ行って外のベランダに出た。ナオ君が猫背に歩いている。私は大きな声で
「またね」
と手を振り、ナオ君も
「またな」
と言って、手を挙げた。
「チーズケーキは待てない。一人で食べちゃうね。きっとおいしい。また一緒に作ればそれでいい」
「うん」
またナオ君は手を挙げた。
sこの部屋中に散らばった服を片付けるか、少し仮眠するか迷った。けれど私は、もう一回「よいしょっ」と言って、服を畳み始めた。だって私はもうすぐ31歳になる。そういう大人なのだから。
了