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緩んだ蓋  作者: 橘 塔子
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其の二

 人間があんなに呆気なく死んでしまうなんて思ってもみなかった。

 声もなく崩れ落ちた真衣まいを前に、僕は我に返り、慌てて抱き起したがすでに呼吸は止まっていた。彼女には何が起こったのか分からなかったのだろう。驚いた表情を浮かべたまま、見開いた目で天井を凝視している。その額から頭頂部にかけて皮膚が裂け、僕の腕はトマトジュースよりももっと暗い赤に染まった。

 それから僕がどういう行動を取ったのか、うすぼんやりとした記憶しかない。

 とにかく彼女の名を呼び、自動車教習所の講習を思い出しながら心肺蘇生を試みたが、無駄だった。分厚いガラス瓶は、彼女の頭蓋に致命傷を与えてしまったらしい。


 生ぬるい血液がキッチンマットを汚し、鉄錆のような不快な臭いが部屋に充満してゆく。僕は途方に暮れた。不思議なことに、真衣を殺してしまった後悔より悲しみより、この状況を何とかしなければという焦りが先に立った。


 足を滑らせて転倒したことにするか? 駄目だ、この傷を調べられたらすぐにバレてしまう。じゃあ強盗が入ったように偽装するとか。いや、それもリスクが高すぎる。

 僕はもう動かない真衣の前に座り込んで、ひたすら考えた。そして彼女の顔を染める血が黒く固まり、その顔色が蝋の色になってきたころ、ようやく思い至った。


 そうか――これさえ消してしまえばいいのだ。

 




「う……うわああっ」


 僕は両腕で顔を覆い、後ずさった。背中がカウンターにぶつかって、置いてあったマグカップが跳ねる。

 有り得ない。真衣は死んだのだ。もうここにはいないはずだ!


 その通り――すぐに腕を離すと、ドアの前には誰もいなかった。開いてさえいない。

 僕は激しく音を立てる胸を押さえたまま、しばらく動けなかった。


 幻だと分かっている。真衣が帰ってくるはずがない。彼女は僕が『片付けた』じゃないか。





 新婚旅行に使えるでしょ、と引っ越しの時に真衣が持参したスーツケースを出してきて、彼女の身体を詰め込んだ。

 古くてあちこち傷の入った代物だったが、容量が大きくて助かった。膝を抱える姿勢にすると、小柄な彼女はすんなりと収まった。死後硬直が始まっていたらきっと大変だっただろう。我ながら素早い決断だったと嬉しくなったのは、やはり僕のどこかが麻痺していたからかもしれない。


 僕はその後、そのスーツケースを自分の自動車に乗せた。駐車場はマンションの地下にあって、監視カメラがついていないことは知っていた。自動車はワンボックスタイプだったので、積み込みは簡単だった。

 高速を使わず、車をとばして、その夜僕は大きなゴミを捨てに行った。





 真衣の両親には、彼女が行方不明になったと告げた。スーツケースと彼女の持ち物が少なからずなくなっていると付け加えると、電話の向こうで彼女の父親は沈黙した。


「真衣さん、そちらに戻ってはいませんか? 実は前の日に喧嘩をしてしまって……僕がちょっと言い過ぎてしまって……ええ、はい、そうですか……もし真衣さんが帰ってきたらすぐに連絡を下さい。迎えに行きますので」


 声の震えは緊張のためだったが、婚約者に家出されて動揺する男の演技にリアリティが増したらしい。飛行機で一時間かかる場所に住む彼女の父親は、僕を慰めるように、気にせんでええぞ、と言った。


「あの子は昔から気分屋なところがあった。親に叱られて何度も家出したことがある。頭が冷えたら帰ってくるさ。女房との力関係は最初が肝心やぞ智之ともゆきくん」


 真衣の楽観主義は父親譲りだったらしい。そのおかげで、真衣の失踪はただの家出だということでまずは片付いた。


 とはいえ、いつまでも誤魔化せはしないだろう。真衣の友達にも行方を尋ねる電話をして、実家へはこまめに連絡を入れよう。数日経ったら警察に捜索願を出さなければ。

 警察――そうなったらやはり部屋を詳しく調べられるだろうか。しかし僕は意外なほど冷静だった。流れた血のほとんどはキッチンマットが吸収してしまって、そのマットは汚れたシャツやスーツと一緒に処分した。床やカウンターは漂白剤で念入りに拭いた。万一わずかな血痕が見つかったとしても、肝心の死体がどこにもないのだ。


 大丈夫だと自分に言い聞かせ、一週間待って、僕は警察に真衣の捜索願を出した。

 細かく事情を訊かれたり部屋を調べられたりするかと冷や冷やしていたが、担当官の対応はあっさりしたものだった。失踪者が成人で身辺にトラブルもなかったことから『一般家出人』に該当するらしく、積極的には捜査してもらえないらしい。

 一緒に警察署へ足を運んだ真衣の父親はずいぶん憤っていて、警察はあてにならんから興信所に依頼すると息巻いていた。そして、どうか娘の帰りを待っていてやってくれ、と縋るような口調で僕に言った。そこには猜疑の欠片もなく、僕は何だか彼が憐れに思えた。

 同時に、人を殺しておいて他人事のように捕えている自分自身が恐ろしくなった。





 それから約二週間、僕の日常は嘘みたいに平穏だった。

 職場の同僚や友人には、彼女が出て行ったとだけ話しておいた。僕の顔色や表情から触れてはいけないことだと直感したのだろう、みんな気を遣ってくれた。ズケズケと不躾な質問をしてくる人間は、僕の交友範囲にはいなかった。

 数日おきにかかってくる真衣の実家からの電話で、父親の憔悴した声や母親の嗚咽交じりの長話を聞かされるのは苦痛だったが、適当に相槌を打っておけば凌げた。


 僕は、真衣に出会う前と同じく一人で部屋を整頓し、細かい所まで丹念に掃除をし、身の回りを清潔に整えて、自分にとって居心地のよい場所を取り戻した。彼女の手料理が食べられなくなっても、キッチンが汚れなくなったことの方が嬉しかった。

 冷酷だと自覚している。自分は少しおかしいのではないかとも思う。

 しかし真衣の存在が消えた事実は快適で、彼女は僕にとってストレッサーでしかなかったのだと納得した。僕はきっと、誰かと一緒に暮らすには不向きな人間なのだろう。


 ごめんな真衣、もっと早く気づけばよかった。もしあのまま結婚していたとしても、僕はいつかやってたと思うよ。





 考えてみれば、その気配はだいぶ前から僕に付きまとっていた。

 最初はほんの些細なことばかりだった。朝ぴしりと整えたベッドカバーの端が少しだけ捲れていたり、アイロンをかけたシャツの袖に変な皺がついていたり、その程度。見落としたんだなと、別に奇妙にも感じなかった。

 しかし徐々に、その違和感はエスカレートしてきた。きちんと閉めたはずの遮光カーテンが半端に開いている。洗濯物が一緒くたに洗濯機にぶち込まれている。替えたばかりのバスタオルが湿っている。リビングの小物が散乱している。

 本当に空き巣にでも入られているのではないかと疑った。その方が何倍もマシだった。今確かに閉じたはずの抽斗ひきだしが、数分後に見ると少し開いていたりするのだ。


 無神経な人間なら気にも留めない程度のくだらない怪異。しかしその現象の数々は、几帳面な僕の性格を絶妙に嘲弄するものばかりだった。

 これじゃ真衣がいた頃と何ら変わらない。僕は当時と同じく、いやそれ以上に神経をすり減らした。


 あの大雑把な女は、自分が死んだことにも気づいていないのだろうか? それとも、本人が死んでも習性だけが残留するのだろうか?


 家にいる間、僕は常に部屋中に目を配り、何か異変に気づくとすぐに対処するようになった。床に這うようにして小さな染みを見つけては拭き取り、使ってもいないシンクを毎日磨いた。ラックの新聞や雑誌は少しでも並びがずれていれば直した。掃除機は朝晩二回かけた。

 そして何より気になったのがあれ――あらゆる容器の蓋やキャップを、僕は日に何度も確認してはきつく閉め直す。その度に真衣の痕跡に触れてしまったような気がして耐えがたく、僕は必死に手を洗った。手を拭いたタオルは一回ごとに漂白した。


 家に帰らないという選択肢はなかった。留守中にこの部屋が、居心地のいい僕の居場所がどれだけ荒らされるか、考えるだに恐ろしい。

 僕はあまり眠れなくなり、仕事にも身が入らなくなった。つまらないミスが重なって、一度産業医の面談を受けるようにと上司から勧められた。


 浴室の壁に広がる不快な黒黴くろかびのように、異変は僕の日常を侵食し続けた。どんなに蓋を閉めても閉めても、いつの間にかそれらは緩んでいる。ラグの端は捲れ上がり、本の並びは変わっている。僕は苛立ちのあまり気がおかしくなりそうだった。

 いや、すでにおかしくなっているのだろうか。真衣がいなくなって一ヶ月が経った今夜、僕はついに彼女の幻を見てしまったのだ。

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