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緩んだ蓋  作者: 橘 塔子
1/3

其の一

 家に帰ってドアを閉め、玄関ホールの照明を点けると、玄関マットの上にスリッパはひとつしかなかった。

 青いチェックのスリッパ。少し高かったが、穿き心地がいいからと選んで買ったものだ。ペアになっているはずの赤チェックのスリッパは、マットの上にもスリッパ立てにもなかった。

 僕はドアの鍵を閉めてから玄関を上がった。2LDKの賃貸マンションは、しん、と静まり返っている。今朝僕が出て行ったままの、動きのない空間だ。

 まずは入ってすぐの所にある洗面所に直行し、丁寧に手を洗った。電車の中で吊革を握った掌は、何だか生温く湿っているような気がする。それからうがい薬をカップに垂らして、数回うがいをした。

 さして長くもない廊下を歩いて、突き当りのリビングダイニングのドアを開けようとして――僕はふと気づいた。


 ドアがきちんと閉まっていない。一センチほどの隙間が空いている。


 朝出かける時はちゃんと閉めたはずだった。右手に通勤鞄とごみ袋を持っていて、左手で閉めた。バタンという音を聞いた覚えがある。

 僕はそろそろとドアを開け、壁にある照明のスイッチを入れた。蛍光灯の素っ気ない光に照らされた十畳ほどのリビングダイニングには、ざっと見たところ何の異常もなかった。対面式のカウンターキッチンと小さなテーブルセット、二人掛けのソファに、壁際には四十インチのテレビ――見慣れた自分の部屋だ。


 僕はベランダへ続く窓へ近づいて、カーテンを閉めた。

 振り返った僕の目に、赤いチェックのスリッパが飛び込んできた。白いソファのすぐ下である。きちんと揃えられているわけではなく、脱ぎ捨てられた感じだ。片足などはひっくり返って底を見せている。ソファの上にはテレビのリモコンが放り出されていた。

 まるで誰かがスリッパを脱いでソファに寝そべり、テレビを観ていて寝過ごして飛び起きて、慌てて裸足のままどこかへ歩いていったような。僕はそんな行動を取る人間に心当たりがあった。


 僕は鞄を置いてスーツの上着を脱ぎながら、ダイニングの方へ戻った。先ほどは気づかなかったが、テーブルの上には今日の新聞とチラシが無造作に置いてあった。朝食前に読み終えて、ラックにしまったはずなのに。それからパン屑とおぼしき茶色い粉が散らばっている。

 ますます心当たりがあった。決してその都度片付けずに、まとめてやればいいと思っているような人間に。


 僕はカウンターを回り込んでキッチンに入る。

 朝食の食器を洗った後に布巾で拭いたシンク周りには、水が飛び散っていた。それどころか蛇口からポタポタと水滴が垂れている。僕は水道のバーを上げ切って水を止め、何か飲もうと冷蔵庫に手を伸ばした。

 ぬるり、とした感触が指先に伝わってきた。

 思わず引っ込めた指に、油のようなものがついている。冷蔵庫の扉に付着していたのだ。誰かが料理中に汚れた手で開け閉めして、そのまま拭い忘れたみたいだ。僕は台拭きで手を拭って、ついでに冷蔵庫も拭いて、ようやく扉を開けた。

 飲料と調味料くらいしか入っていない庫内は、男の独り暮らしなら当然の光景だろう。しかしそれなりに片付いていて、特に不満はなかった。必要なものがあれば買い足して使い切ればいい。僕は扉のポケットからミネラルウォーターのペットボトルを取り出した。

 掴んだ場所がキャップ部分だったのがまずかった。キャップが緩んでいて、ボトル本体はあっけなく手の中を擦り抜けた。床に落下したボトルは派手に中身をぶちまける。

 慌てて取り上げたが、キッチンマットと床と僕の青いスリッパがびしょ濡れになってしまった。

 僕は舌打ちをした。あいつだ、あいつのせいだ。何度注意したら分かるんだ。


真衣まいっ……おまえは!」


 声は、静かな部屋の中で妙に大きく響いた。それで、我に返る。

 今、何を口走ったんだ僕は。ついに頭がおかしくなったのか。だって彼女は――。

 濡れた足元から、不快な冷気が駆け上ってきた。


 彼女は死んだじゃないか。


 ぺた、ぺた、と、湿ったものが床に触れる音がした。新築マンションのドアは音もなく開閉する。


「おかえりなさい、智之ともゆき


 ダイニングの入口で、真衣が微笑んでいた。





 真衣は、一言で言うとずぼらな女だった。

 彼女と知り合ったのは一昨年、会社の同僚のセッティングした食事会でだった。いわゆる合コンというやつだ。

 一部上場の商社に勤める僕は、同年代に比べて年収は高いかもしれないが、そのぶん仕事が忙しくて異性との出会いの機会がほとんどなかった。ほぼ毎日が、会社と自宅を往復するだけの生活。残業で終電に駆け込むことが珍しくなかったし、出張も多かった。二十五歳にもなってこれではマズイと思い、生まれて初めて参加した合コンで、僕は真衣に出会った。


 僕より二つ年下の真衣は、目を見張るほどの美人ではないが顔立ちが可愛らしく、よく笑う女だった。化粧や服装のセンスもよく、飾り立てたところがないのに小奇麗に見えた。合コンの席で緊張していた僕の話を一生懸命聞いてくれて、要所要所で大きな相槌を打ってくれる。職場の『優秀な』女性社員たちに対してはライバル感情しか抱けなかった僕にとって、彼女の優しさと控えめな態度は新鮮だった。

 帰り際に決死の思いでメールアドレスを聞くと、彼女は快く教えてくれた。


 交際が始まると、真衣はいろいろな意味で僕を驚かせてくれた。


「私ってよく大雑把だって言われるの」


 付き合い始めの頃から、彼女は言っていた。


「細かいことに気が回らないっていうか……智之は几帳面よね」

「そうかな」

「そうよ。だって独り暮らしなのに、いつもシャツにアイロンが掛かってるし、靴も綺麗だし、鞄の中も整頓されてるよね」


 僕のことをそう評した彼女は、身なりこそ綺麗に整えていたが、そう言われてみれば大雑把なところがあった。財布の中には紙幣とレシートが入り混じっていたし、バッグには何でも上から上から放り込む癖があった。家の鍵をどこに入れたか分からなくなったと、外出先でバッグを引っ繰り返したことが数回ある。自動改札に阻まれるまで定期が切れているのに気付かない。食事をすると、たいてい食べこぼして服の襟を汚した。


「あの、もし気になることがあったら遠慮なく言ってね。智之にストレス溜めてほしくないから」


 珍しく遠慮がちに、恥ずかしそうに呟く彼女を、僕は可愛らしく思った。


「気にしないよ。むしろ僕の方が神経質すぎるんだ。真衣みたいな大らかな彼女がいてくれて丁度いいよ」

「本当!? ありがとう!」


 彼女はいつも通りの朗らかな笑顔になって、僕の腕にぎゅっとしがみついてきた。

 その時の僕は本当にそう思ったのだ。常々、自分の性格が細かいな、とうんざりすることが多かったので、明るくて嫌味がなくてのんびりした真衣の性格は魅力的だった。彼女を好きになるにつれて、自分もまた伸びやかな人間になれるんじゃないかと期待した。


 僕と真衣は半年前に同棲を始めた。いいタイミングで新築の賃貸物件が見つかり、本格的に結婚の準備を始めようと思ったのだ。

 彼女はそれを機会に会社を辞めた。もともと仕事にそれほど執着はなかったらしく、僕の方も自分が多忙なぶん妻には家庭を守ってほしかったので、彼女の選択には賛成だった。結婚したら子供も早く欲しかった。


 だが生活を共にすると、一ヶ月も経たないうちに、彼女の行動のあれこれが引っ掛かるようになってきた。


 引っ越した賃貸マンションの家具やファブリックは、すべて彼女が選んだ。白とベージュを基調にしたシンプルなインテリアは僕もとても気に入って、改めて彼女のセンスの良さに感心した。ストライプのカーテンの高さが少し曲がっていることにすぐ気付いたが、一生懸命それを窓に掛けた彼女をおもんばかって、黙って直しておいた。

 彼女はとても張り切って家事をこなしてくれた。料理が得意で手の込んだものを作ってくれたし、洗濯や掃除もこまめにやってくれる。ただ、調理後のレンジ周りの油汚れや排水溝に溜まった野菜屑には無頓着だった。

 洗濯は何でも一緒くたに洗ってしまうので、彼女のトレーナーが色落ちして僕のTシャツがピンクになったこともあった。掃除機は毎日かけてくれているらしいが、ソファの下や部屋の隅には常に埃が残っていた。

 そんなことに気づく度に、僕は冗談めかしてやんわりと指摘し、自分で片付けるようにした。冷蔵庫の野菜室がどうにも気になってしまって、彼女が寝てから一人で掃除したこともある。


「ごめんね、やっぱり大雑把だねえ、私」

「謝んなくていいよ。真衣が一生懸命にやってくれてるのは分かってる。僕のワイシャツはクリーニングに出してくれるかな? アイロン、苦手みたいだから」 

「うん、そうする」


 彼女にまったく悪気がないのが分かっていたから、僕はきつく言えなかった。

 そう、真衣は決して怠け者ではなかった。家のことはきちんとやろうと努力はしている。しかし僕が十気づくところを彼女は一しか気づかず、しかも言われたことを忘れてしまう呑気さを持っていた。それは彼女が悪いというより、性格だからもうどうしようもなかったのだろう。


 だがたったひとつだけ、僕がしっかりと注意したことがある。


「真衣! この蓋! またちゃんと閉まってなかったぞ」


 僕は夕食のトンカツにソースを掛けようとして、その蓋を彼女に見せた。最後まで閉まっておらず、中途半端に緩んでいる。帰宅の遅い僕を待たずに彼女は先に夕食を済ませていて――それは別にいいのだが――直前に使ったのが彼女だということは分かっていた。


「あ……そうだった? ごめんごめん」

「それからマヨネーズのキャップも、ジャムの蓋も、ハミガキのキャップも最後まで閉まってない。気を付けてくれよ。倒れたりしたら中身が零れるだろ?」

「ハミガキなんか零れないわよ。それにまたすぐ使うんだし、そんなに気にしなくていいんじゃない?」

「僕は気になるんだよ!」


 僕は腹いせのように硬く蓋を閉めてみせた。真衣は顔を背けて肩を竦める。茶化すような仕草だった。

 その後も、我が家にある瓶やチューブの蓋は緩んでいることが多くて、俺は真衣に文句を言いながらいちいち閉めて回らざるを得なかった。彼女はその度にごめんごめんと謝ったが、本気で聞いている気配は感じられなかった。


 朗らかでおおらかで心癒されるはずの真衣との生活――そこに忍び込んできた魚の小骨のような苛立ちは、いったん意識し始めると後から後から増えてくるのだった。





 その日の朝も、僕はゴミのことで真衣に注意をした。

 

「真衣、またペットボトルのラベルが剥がれてない」


 僕はは半透明のごみ袋を覗き込んで言った。


「ああ忘れてた。もういいよ、そのままで」


 明るい声が答える。真衣はパジャマのままトーストを齧りながら、新聞のテレビ欄を覗き込んでいた。俺は溜息をついて、手にした鞄をいったん床に置く。


「よくない。剥がしとくよ?」

「ごめんねー。ありがと、智之」


 彼女は顔を上げて屈託なく笑い、テレビのリモコンを手に取った。テーブルにパン屑がポロポロと落ち、リモコンにはマーガリンが付着した。たぶんそのパン屑も汚れも、僕が帰宅するまでそのままになっているのだろう。

 僕は電車の時間を気にしながら、急いでラベルのついたままのペットボトルを選り分け始めた。きちんと水が切れていなかったらしく、ボトルから零れた水滴がワイシャツの袖口を濡らした。

 僕は力任せにごみ袋の口を縛ると、投げ捨てるようにいってきますと言い残して、足早に家を出た。


 考えてみれば一日中悪いことが続いた。

 いつもの電車に乗り損ない、次に来た電車に乗るとドア不具合とかで途中駅で止まったまま長いこと動かなかった。始業時刻にはギリギリ間に合ったが、デスクに着席してパソコンも立ち上がらないうちに上司に呼ばれた。取引先から朝イチでクレームが入っているらしく、謝罪に行けと命じられる。そもそもの原因を作った担当者は結婚休暇中でヨーロッパにいるはずだった。確かに休み中の引き継ぎを受けたのは僕だったけれども。

 仕方がないことではあるが、自分に責のないミスで二時間もねちねちと嫌味を言われ、昼前にようやく帰社すると僕のパソコンがフリーズしていた。システム部の担当者に依頼してチェックしてもらったが、端末が復旧するまで数時間かかり、その間仕事にならなかった。

 溜まった仕事が片付いた時、時計の針はすでに二十三時を回っていた。僕は重い足を引きずりながら、混みあった電車に身体を滑り込ませて、夜半過ぎに自宅に辿り着いた。


 思った通り、真衣はもう寝ているようだった。テーブルの上に夕食が準備してあったが、胃に凭れそうなグラタンだったので、食べるのはやめた。それよりもまたオーブンの中が汚れていると思うとうんざりした。

 テーブルの上にはテレビのリモコンが置きっぱなしになっている。料理をしながら真衣がチャンネルを変えたのだろう。油汚れがついている。


 僕は何とも言えないだるさを感じて髪の毛を掻き毟り、冷蔵庫を開けた。ペットボトルのトマトジュースが入っている。それを乱暴に調理台の上に置くと、手が滑った。横に倒れたボトルのキャップが外れ、どろりとした赤いジュースが勢いよく流れ出す。 

 僕のスーツにもワイシャツにもトマトジュースが飛んだ。深夜零時過ぎに。トマトジュースをぶちまけた。


 蓋が緩んでいたから。


「おかえりなさい……遅かったね」


 顔を上げると、パジャマ姿の真衣が立っていた。眠そうに目を擦っている。気配に気づいて寝室から出てきたらしい。


「どしたの? あらら、ジュースが……」

「手が……手が滑って……」

「智之でもドジすることあるんだねえ。私のこと言えないじゃない」


 真衣はいつもの明るい無神経な笑顔で笑った。冗談混じりの揶揄をたっぷりと含めて。

 そうだねごめんごめん、と笑い飛ばしてもよかったし、どの口がそういうこと言うんだよ、とへそを曲げてもよかったし、あるいは無言で怒りを伝える方法もあっただろう。


 だがその時の僕はあまりに疲れていて、苛立っていて、腹の中で何かが爆ぜた気がして。

 カウンターにあったガラスのパスタ瓶を手に取り、彼女に向かって振り下ろしていた。

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