(後)
その日の彼女はとても浮かれていて、目の前の彼がひどく沈んだ表情をしていることなど些末な問題だった。どうせ、数分後には、彼は笑顔になるに決まっているのだから。
その日の彼は悲痛な覚悟を秘めていて、目の前の彼女のひどく嬉しそうな表情など気にも留めなかった。どうせ、その理由に今後彼が関われることなどないのだから。
「いい朝ね」
魔女はいつかの姉と同じことを言った。なるほど美しい朝だ。今日はよく晴れるだろう。村の農作業もはかどるに違いない。
出会った日も、いい天気だった。覚えている。
アルドはのろのろと彼女の前に立ち、口を開いた。
「…無理だ。無理だよ」
ルイは笑みを消し、少し眉をひそめた。アルドは構わず続ける。
「君は、俺のこと、認めてくれる気はないんだろう」
「…何が言いたいの」
「違う。責めたいわけじゃない」ひがんだ言い方になってしまったような気がして、慌てて取り繕うとするが、それも無意味だとすぐにあきらめた。
「…あきらめたんだ」
「何を」
「君だってじゅうぶん楽観的じゃないか」違う。こんなふうに笑いたいんじゃない。
ルイはまだ理解していない表情だ。
「君を、あきらめる」
少しだけ、目を見開いた。
「君は俺のこと、おもちゃか何かかと思っていたのかも知れないけど、俺だって、ずっと君だけを追っていられるわけじゃないんだ。俺にだって、居場所があって、家族があって、捨てられないんだ」
彼女は少しだけうつむいた。
「君が、振り向いて、くれないなら、」
あきらめる。
彼女はどういう反応をするんだろうとアルドはぼんやりと思った。「あらそう」と軽く流すのか、おもちゃを失ったことを残念がるのか、一人で粋がって勝手にあきらめた馬鹿な男と笑うのか。
「…ったのに」
ルイが何か呟いた。
彼女のご機嫌な表情はすっかり消え、ぞっとするほど冷たい無表情だった。
「嘘つき」
その言葉とともに消えた。
アルドは立ち尽くした。魔女の姿はもうない。もう、取り消せない。
家族を、安心させようと思った。もう酔狂なことはしないと。地に足をつけると。けれど、結婚はできない。彼女以外、好きになりたくない。来たとき以上の重い足取りで、彼は家に戻った。
数分前のいい天気が嘘のように、急速に暗雲が立ちこめていた。
家に戻る頃には、雨が本降りになり、この村ではめったにない強風が吹いていた。
「言ってきたのね」
玄関をくぐると姉がアルドを迎えた。そのほっとした表情に、いらいらするのを押し殺して、両親を呼んでほしいと告げる。
「どうしたんだ」
家で仕事をしている母親はともかく普段は外に出ている父親もすぐにやってきた。あらかじめ話があると姉が呼んでいたのか、この雨のために戻っていたのか。
軽く息を吸って、乾いたのどを無理矢理に動かして、アルドは頭を下げた。
「父さん、母さん、今までごめん。魔女のことはあきらめたから。結婚はもう二度とするつもりはないけど、家のことはずっと手伝うから」
「アルド!」結婚はしないと言ったアルドに姉が非難の声をあげたが、それ以上に両親の顔色はおかしかった。
「お前、なんてことを」
「え」
「あの魔女さんに貰ってもらうんじゃなかったのか」
「どういう、」
「約束をしたんだろう」
「今日改めて約束を果たす意思があるか聞くと、ルイさんは言っていたけれど」
「約束…?」
記憶を消したからよ。
「え、父さん、母さん。何の話?」姉があわてて尋ねた。何も知らないものと思って、両親は彼女に説明する。
「アルドは魔女の婿になるはずだったんだ」
「おととい、あいさつに来て」
ルイが彼の両親を訪ねていたなんて、聞いていない。
「…うそ。魔女よ?いいの?」
「放蕩息子を拾ってくれるならありがたいと、話をしてたんだが」
両親は困ったように眉を下げ、姉は顔面蒼白になった。
「アルド」
その場の全員が青年を見つめた。
手遅れだろうか。
雨風は確実に強くなっている。
でも俺はあきらめるべきじゃなかった!
アルドは家を飛び出した。
「アルド!!」
村では男たちが外に出て、豪雨に備えて土嚢を運び始めていた。この村には川が走っていないのが救いだ。ただ近くには山がそびえ、土石流でも起きれば大変なことになるのは間違いがなかった。
魔女が起こしているのだ、とアルドはなぜか確信していた。
「おい、アルド?どこへ行くんだ」
親友の声が聞こえるが、返事をしている暇はない。
向かうべきは、彼女の家。魔女の家。
奪われた記憶が、風雨に乗ってよみがえってきた。
「賭けましょう」
魔女の黒い髪がざわりとうごめいた。
「あなたの思いが変わらないというなら、このまま私に告白し続けなさい。そうね…」
口元に手を当てて、少し考える素振りを見せた。
「私の魂はあと120個。あと、74回、私の魂の数だけ、毎日私に愛を告げたなら、信じて受け入れてもいいわ」
「本当か!?」
「もちろん、ゴールの見えたマラソンなんて面白くないから、記憶を消すわ」
この賭けのことは覚えていない。アルドは自分の思いだけで、いつ報われるとも知れない告白をし続けなくてはならない。
それでもいい?
「簡単すぎて、こっちが『それでいいのか』って思ってしまうよ」
「そうかしら」
ルイはどこからか杖を取り出して、その感触を確かめるように握った。
「見せてもらいましょう?人間の意思がどれほど強いのか」
魔女の周囲が揺らいだ。魔術を使う兆候なのだとアルドは悟る。しかしいつも姿を消すときなどとは違うのは、ルイの中から輝く何かが出てきたことだった。これが、魔女の魂なのか。
「…ここでひとつ使ってしまうから、あと73回ね」
一回分おまけでも、まあいいでしょうと魔女の呟いた声が最後だった。
魔女の魔術は完璧だった。アルドは賭けを一度も思い出すことなく、そして負けた。
(でもどうして、そんな賭けを持ち出したんだ。本当は君だって、信じたかったんじゃないのか)
ルイはどういう気持ちでこの風雨を起こしているんだ。もし感情を反映してるのだとすれば。
本当は、君は―—、
『ご両親とのお話は終わったのかしら?』
あざけるような声が響いた。この村に響いているのか、彼の頭の中に語りかけているのか。この風雨の中、その声ははっきりと聞こえた。
『いつまでもパパとママがいないと何もできないなんて、とんだお坊っちゃまね』
「違う!」
『何が違うって言うのよ。私が記憶を返さなければ、ご両親が何も言わなければ、そのままでいたに決まっている』
勝てる試合だったことに気がついたんでしょう?
もう少し頑張れば釣れた魚だったと知って惜しくなったんでしょう?
『それとも、魔女を怒らせたこと、後悔してるの?今さら取り繕って、この場を治めようって?』
もはや彼は自分がどこを走っているのかもわからなくなっていた。
「違う!…いや、違うこともない、けど」
後悔しているのは、事実だ。それ見なさいと嘲笑する声が聞こえるようで、彼は口をつぐんだ。
「……俺は愚かだった。でも俺は俺の家族を、愛してるんだ」
『あっそ。なら愛する家族のところに帰りなさい』
風が強くなった。思わず両腕で顔をかばって、声を張り上げる。
「だけどそれは!両立できないものじゃないだろ!?俺は家族ともっと話し合うべきだったんだ」
『でもあなたはそれをしなかったんでしょう?』
「ばかだったんだ。どちらかしか手に入らないと思い込んで」
『どちらも手に入るって知ったから、こうして馬鹿みたいに走りまわってるわけ』
魔女の口ぶりはまるで聞く耳を持っていないかのようだ。けれどアルドには、叫びながら走るしかない。
「それでももしどちらかしか選べないなら、今度こそ俺は君を選ぶ」
『違う、でも、だけど、それでも。否定と逆接ばかりね』
「でもわかってる。君も俺のこと、好きだろう?」
もう一度逆接を使って、アルドはひとつ、可能性を口にした。
少し、沈黙があった。
『……何を言っているの』
「いいやわかってる。君は俺のことが好きだ」
彼の中では確信。でも、もしかしたらただの願望かも知れない。
『口に出せば本当になると思ってるのね、哀れ』
「わかってるんだ。君は座り込んで、ひとりで泣いてる」
『知ったような口をきく』
進んでいるのか、止まっているのか、わからない。足を動かしているはずだけれど、感覚がもはやない。自分は、彼女に、近づけているのか。
『わかってないようなら、はっきりと言ってあげるわ。あなたなんて、』
嫌いよ!!
木にもたれて眠る男に、ルイは近づいた。なにか理由があったわけではない、村はずれにやってくる人間なんてそうそういないから、「魔女」に用があるのではと思った、その程度。
彼女が人間をここまで近くで見るのは、とても久しぶりのことだった。うっかり地面に膝をついて、男を覗き込んでしまう。
そこで男は目を開けた。薄く開けたまぶたからのぞく瞳は、驚くほど美しかった。
一目惚れだった。
「あと、いっかいだったのに」
ルイは呟いた。
魔女の家は壊れ、瓦礫の中彼女はひとり膝を抱えていた。彼女は風雨の目になり、周囲はしんと静まり返っている。
「…好きだったのよ」
「今も好き、じゃないの?」
突然の声に顔を上げると、青年ののんきな笑顔があった。
「……どうして」
「君が冷たい言葉を吐くのと同時に、寂しいとか、悲しいとか、…好きだとか、そんな言葉が聞こえてきたよ」
「嘘よ」
「嘘じゃないよ。それをたどってきたんだ」
嘘に決まっている。自分は完璧に感情を隠して生きてきたんだもの。私が隠したい声を聞き取るなんて、それをたどってくるなんて、できるはずがない。
でも青年は眼前にいる。もしかして、夢かも知れない。そう思うと、彼女の口は軽くなった。
「信じられなかった。あなたのこと、知れば知るほど好きになっていったけれど、人間はすぐに飽きるもの。裏切るもの」
だから試した。
「あなたは毎日好きって言ってくれた。私のことを知っても、嫌いにならなかった。信じてもいいって、思えるようになったのに」
あと一回だったのよ。
賭けに負けたのは、魔女の方だった。
青年はひざまずいて、ルイの頬をぬぐった。その指の温かさに、急にすべてが現実味を帯びた。
「アルド」
「やっぱり泣いていた」
「卑怯者。見ていたのね」
「見られるわけがない」たった今ここに来れたんだもの。
たった今っていつのこと。いつから本当だったの、ルイは聞けずただアルドを見上げるだけだった。
「俺たちは約束をしたとうちの親が言っていた」
「『賭け』だなんて言えるわけないでしょう。それに私にとって、約束と同義だった」
将来の約束をしたの。
ルイはアルドの両親に向かって言った。魔女は人によって言葉遣いを変えることはない。
あさって、まだ彼が私のことを好きと言ってくれるなら、彼に聞くつもりよ。私とともに来るつもりがあるかって。
それに彼が応えるなら……アルドを、連れて行っていいかしら。
「そうよ。あのとき、私はとっくにあなたを受け入れていたのよ」
「今は?」
「あなたは裏切ったわ」
「心は裏切ってない…なんて、言い訳かな」
「そうね」
魔女は冷たくアルドをにらんだ。
「じゃあ、君はもう俺のことが嫌いのなの?」
アルドの問いかけに、ルイは眼光を鈍らせて、やがて逸らした。
「…私は人間みたいにすぐ心を変えられないわ」
黙って次の言葉を待つ青年を魔女はもう一度、先ほどより力なくにらんだ。
「私から言わせるつもり?」
「え?」
「あと一回、残っているのよ」
これほど誰かを愛しいと思ったことはない!アルドはいったん目を閉じて、自分にできる最高の笑顔で彼女に告げた。
「…ルイ、好きだ、結婚してほしい」
魔女も、今まで見たことのない美しい微笑みで応えた。
「…私も好きよ。結婚してあげる」
いつの間にか雨があがり、雲の隙間から黄色く暮れかけた空が覗いた。
「別に、あなたを村に返さないなんて言った覚えはないわ」
「え?」
「私も、この村が気に入った。日中はあなたの実家で働けばいい」
「いいのか?」
「働かない夫はいやよ」
『夫』という単語に青年の顔がにわかに赤くなった。
「ひとつ、約束してよ」
「何かしら」
「俺との『賭け』がこれからまたあっても、魂は使わないで」
信じられないなら、これからも毎日告白してみせるから。
「もう信じてるから、もういいわよ」
魔女の顔も赤いのは、夕暮れのせいではないと信じたい。