(中)
60回目にアルドが玉砕するであろう朝だった。
「最近あの魔女、やけに機嫌が良くないか?」
「『魔女』じゃない、彼女にはルイという名前がある」
「ルイ?お前、いつの間に魔女の名前を知ったんだ」
「当然のことさ」
「よく言うよ」
「あ、ルイ」
エリクとの会話もそこそこに、アルドは魔女を見つけて駆け寄っていった。
「体調は大丈夫?気分悪くないか?」
「…あなた、いつの話をしているの」
ルイはあきれたようにアルドを見た。二人が話しているのは、二週間ほど前、話の途中でルイが突然倒れたことについてだ。
「だってあのときは本当に驚いたんだ」
死んでしまったんじゃないかって、とアルドは心配そうな表情を崩さない。一方ルイは愉快そうに目を細めた。
「あら、あのとき私は死んだのよ」
「えっ?」
「あのとき、何の話をしたか覚えている?」
もちろんと答えようとしてアルドは言葉に詰まった。彼女との会話は一語一句覚えているつもりだった。そのときの彼女の表情でさえも。けれど今どれだけ記憶を探っても、思い出せない、自分が何を彼女に聞いたのか、彼女は何と答えたのか。
「思い出せないでしょう?」
「どうして」
「記憶を消したからよ」
いともあっさりと魔女は言ってのけた。
「どうして」アルドは馬鹿みたいに繰り返した。
「魔女のすることすべてに理由があると思っちゃいけないわ」
基本的に愉快犯なのよ、知っていた?
ルイは美しく微笑んだ。しかし彼に見とれる余裕はない。
「そういう意味じゃない。どうして、俺の記憶を消すなんてことのために魂を使うんだよ」魔女が魔術を使うために自分の魂を使うということは知っていた。
「君の魂だろ。しょうもないことに使うなよ」
「私の魂よ」
ルイの声は冷えきっていた。
「どう使おうと勝手だと思うけれど?」
彼女の機嫌の急降下にアルドはたじろいだ。
「…でも、有限なんだろう?」
「私が一番わかっているのよ。口出ししないで」言い放つと同時にルイは踵を返して直後消えた。
「今日はこっぴどくやられたのか?」一部始終をエリクに見られていたようだ。
「うるさい」アルドは肩を落とした。
しかし魔女は夕方にもう一度現れた。
「ルイ、どうしたんだ?」
「今日はまだ聞いていないと思って」機嫌は良いとは言えないが、午前よりだいぶ回復しているようだった。
「聞いてないって…」
「忘れているの?ならいいわ」
彼女は足下に咲いている花を摘んで、小さく振りながらいつもの柵によりかかった。
「その程度だったのね」
そこで思い出した。
「!好きだ」
条件反射のように言った彼をルイは鼻で笑った。
「もう義務化してるんじゃなくて?」
そんなことないと反駁しようとして遮られた。
「私も少しもの足りなくなってきたのよ。あなたに告白されて、断るっていう一連の流れがないと」
「断るって部分は余計だ」
ルイは立ち上がり花を投げ捨て、じゃあねと消えた。機嫌は最後にはすっかり直っているように見えた。
村の中で、アルドと魔女のことはすっかり日常になっていた。二人は相変わらず道端で、同じような押し問答を繰り返す。
「ねえ、ルイ。俺たち村で『夫婦漫才』って呼ばれてるらしいよ」
「ひよっているわね。実際の関係が伴わなければ全く意味がないと思うけれど」
「伴えばいいんだ。だから、俺と結婚してくれないか?」
「いやよ」
ルイは楽しそうに答えた。
アルドが98回目に振られるも、食い下がろうとして、
「アルド!!」
かけられた声にアルドは振り向く。目の端にうつったルイの目が不機嫌そうに細められたような気がした。
「アルド、久しぶりね!」彼に駆け寄り、両頬にキスをしたのは彼と同じ茶色の髪を後ろで束ねた女性だった。もちろん、アルドのよく知る人物だ。
「姉さん!どうして?」
アルドの姉は丘を三つ越えた向こうの村に嫁いでもう六年も戻ってきていなかった。一度嫁いだ女性はそうそう里帰りしないのが通例で、別段おかしな話ではない。逆に言うと、家族に何かあったという知らせもないのに村に戻ってきたことに彼は驚いていた。
「ちょっと、いろいろ話があるのよ」
そう言って姉はアルドの背後に目をやった。図らずもルイをほったらかしにしてしまったことに気がついてアルドも振り返ったが、そこに彼女の姿は既になかった。
突然の長女の里帰りに、一家は驚いたがそれ以上に喜んで、その日の晩は急遽羊をさばいてご馳走になった。家族の誰も彼女が帰ってきた理由を知らず、みんな口々に追及したが、姉は意味ありげに言葉を濁す一方だった。
「まさか出戻ってきたんじゃないだろうね」母親は半分本気で聞いたが、姉は軽く笑い飛ばした。
「まさか!向こうの家族との関係は良好よ。今回も息子の面倒を快く引き受けてくれた」
彼女には四歳と二歳の息子がいた。そりゃあ村の大事な子どもだもの、快く預かってくれるだろうよとまだぐちぐちと母親は呟いていた。
その晩も結局、姉は帰省の理由を言うことはなかった。
「おはよう!」
姉にあいさつをされて、アルドは一瞬自分が少年時代にもどったような錯覚を覚えた。
「姉さん、おはよう」
「こうしていると、嫁ぐ前に戻ったみたい」
姉はアルドと同じようなことを言って、井戸の縁に手をついて弟を眺める。落ち着かない。
「いつまでいるの、姉さん?」
「あらあ、せっかく帰ってきたのに、もう戻れって言うの?」
「そんなことないけど」
姉はわざとらしく頬に手を当てた。
「話って誰に、何の」
「察しが悪いわねえ」
自分に向かって差し出された指の意味がわからなくて、アルドは戸惑い、一瞬後に理解した。
「え、俺?」
「…あなた、魔女に魅入られているそうね」
「え」
「どうなの?」
「…どうして、姉さんが知っているんだ」
「今すぐあきらめなさい。叶わないわよ」
姉の言葉に耳を疑った。なぜ姉がルイのことを知っているのか、そしてなぜあきらめろと言うのか。
「私の村まで噂は広がっているのよ。魔女に魅入られた男がいるってね。うちの馬鹿弟と知って、いてもたってもいられなくなった」
姉は腕を組んで彼を見上げた。いつまでも頭の上がらなかったこの姉の長身を、彼が追い越してからもう久しい。
「アルド、あなた魔女の本質を知らないのよ。この間ちらっと見せてもらったわ。あの魔女、あなたを振って嬉しそうにしているじゃない。人をもてあそぶことが好きなのよ。同じように男の魔女に魅入られて、貢いだあげくに婚期を逃して、魔女本人にも逃げられた女の子を私知っているのよ」
魔女は基本的に愉快犯なのよ、知っていた?
ルイの微笑みをアルドは思い出した。
「そんな人じゃないってあなたは思うかもしれないわね。魔女にも悪気はないのよ。息をするように人を魅入らせて、人を騙して、そして捨てるの。悪いことだって思ってないのよ」
反論できない。そうではないと否定できるほど、彼は『魔女』のことを知らないからだ。
「魔女だけじゃないわよ、アルド」
姉の追及はアルド自身にも及んだ。
「いつまでふらふらする気なの?末っ子だからいつまでも自由にできるとでも?早く身を固めて兄さんたちを手伝いなさい」
「だからルイに求婚している」
「あの魔女、ルイって言うのね?魔女が結婚して、その生活を捨てられると思うの?」
「え…?」
「それとも、あなたが家を捨てるの?」
「そんな、こと」
「できないでしょう?」
魔女も同じことを言うでしょうよ。
「そもそも相手にされてないって言うじゃない。結婚できるかどうかわからないのに、結婚できたとしても誰も喜ばないなんて、最悪よ」
「……」
アルドには言い返すことができなかった。
夕暮れ時、薄暗くなってきた台所の敷居をまたぐと、珍しく母親一人だった。
「あれ、義姉さんたちは?」
「ちょっとお使い。すぐ戻ってくるけど」
何か用でも、と振り向く母親に首を振って、アルドはためらいつつも尋ねた。
「…母さんはさ、俺がこの村を捨てるって言って、許してくれる?」
「何、出て行く予定があるの?」
「いや」
何と言おう。けっして鈍い母親ではない。別に悟られてはいけないわけではないけれど。
「…そんな、夢を見た」
どう?と聞いた。息子の他愛ない仮定の話だと思ったのか、母親はまた前に向き直って菜っ葉を選り分けだした。
「あんた、ここを出てどこへ行くって言うの?」
その一言は単純ながら、アルドに深く突き刺さった。
「……そうだね」
どこへ行くところがあるというのだろう。
その日も、魔女はご機嫌に彼を振った。
朝日がさわやかに村を照らしていたが、アルドの足は重かった。
向かう井戸の前には彼の姉が立っている。ここ数日、毎日アルドの姉はこの場所で、なんとか彼に魔女のことをあきらめさせようとしていた。
「いい朝ね」
「……」
「わかってるわよ」姉は気まずげに笑みを引っ込めた。
「あなたが本気らしいことも。でも」
姉は初日ほど強気の表情ではなかった。
「住む世界が違うのよ。比喩じゃないの、本当にそうなのよ」
「姉さん、俺は」
「私も焦ってるの。長く向こうを空けられない。ずっとこの村にいて、あなたを説得し続けられない」
心配しているのよ、わかって。
『ここを出てどこへ行くって言うの?』
『住む世界が違うのよ』
アルドだって、わかっている、つもりだ。けれど。
「わかったよ」
思った以上に弱々しい声が出た。
「あと10回、あと10回で、彼女を振り向かせられなかったら、あきらめるから」
アルドは、そう宣言してしまった。
「頼むよ。俺のこと、好きになって」
「どうしたの、今日は泣き落とし?」
「そう思ってくれていいから」
「同情で好きって言ってもらえて嬉しいの?」
魔女の態度はいつもと変わらない。否、日増しに楽しそうに彼を振るようになった。
「好きって言って、って言ってるんじゃない。好きになって、って言ってる」
「自分の気持ちはどうしようもないわね」
言って、ルイはアルドに背を向けた。
珍しく歩いて去っていく彼女に、別の男が声をかけた。彼女の機嫌は本当に良かったらしく、愛想良くあいさつに応える。
瞬間、ざわりとアルドの胸中に不安が押し寄せた。
ただあいさつをしただけだ。ルイも村になじんできたし、魔女の薬に助けてもらった村人も少なからずいる。
でもそんな愛想のいい表情、俺に向けてくれたことあったか?
俺は本当に、本当に今の今まで、独り相撲をとっていただけだったんだろうか?
「アルド、なんだか久しぶりだな」
通りがかったエリクに話しかけられ、アルドは我に返った。
「あ、ああ」
「近頃結婚式の準備やらで忙しいからなあ」お前もお前で魔女に夢中だし、独身貴族の最後はこんなもんかとため息をついた。
「ルイの…魔女の評判っていいんだよな。人当たりもいいんだ」
「ん?ああ、そうだな」
アルドの心中に気づくこともなくエリクは答えた。
アルドへのつっけんどんな態度で、村人たちは始めこそ魔女を恐れていたが、普通に話しかけてみれば驚くほど普通に応対してくれる、ということで、この頃では毎日村に姿を現す魔女に何かと話しかけたり世話を焼いたりする者も増えているのだという。
「いいじゃないか。お前の愛する魔女が村に受け入れられていて」
それとも嫉妬か?にやりと笑う親友に笑みを返せない。
「どうした、今日もひどく振られたのかよ」
「…ああ、まあ…」
エリクは初めて彼のおかしな様子に気がついて心配そうに眉をひそめた。
「大丈夫だよ。興味のない相手ほどそつなく対応するもんだ。ほんとに嫌いなやつと夫婦漫才なんかできるか」
「……一週間前なら、俺もそう言えた」
親友のフォローを、アルドは素直に受け取ることができなかった。
魔女はいつもの柵に腰掛けて、アルドを待っていた。
待っている?何のために待っているんだ?
俺を、振るために?
「…ルイ、好きだ。好きなんだ」
「通り一遍で、工夫がないわ。残念ね」
「ルイ」
「早く明日にならないかしら」
魔女は夢見るように空を見た。
「明日に、何がある?」
彼女は答えなかった。その目に、すでにアルドはうつっていないのだろう。
だめだった。アルドは、ルイを振り向かせることができなかった。
約束の十回目が、あっさりと終わった。118回目の告白だった。
前後編の予定が、三話になりました。次話完結です。