(前)
「好きだ」
「あっそ」
今日も男の告白はきれいに砕け散った。がっくりとうなだれる男の脇を通って女は歩き去っていく。
「これで何度目だ?」「じゅう…ななとかかな?」うしろでひそひそ囁く声、聞こえてるぞ。
「でも本当にいつまで続けるんだ?」
声をかけてきたのは男の親友のエリクだった。
「あの魔女、お前に興味ないのはわかりきってるだろう。不毛だぞ」
「あのさ、」
男—アルドはまっすぐにエリクを見つめた。人と話をするときは目をあわせる、というのが彼の母の教えだった。
「一度振られたからってあきらめたら彼女の記憶にすら残らないだろ。興味を持ってもらうために毎日告白してるんだ」
「だからそれにも程度があるって言ってるんだよ!何度目だと思ってんだ、17だぞ17!」
…人と話をするときには目をあわせるというのが彼の母の教えだったが、彼の中で話はもう終わっている。後ろからまだ何か聞こえないでもなかったけれど、アルドは背を向け家路へと向かった。
それに17回ではない、18回だ。
彼の村に住む魔女は、あらゆる意味で魔女らしい。魔術の知識に秀で、真っ黒な長い髪をたくわえ、同じく真っ黒な瞳をもつ。そして人を狂わせでもしそうな美貌は、正しく魔女だ。半年前にこの村にやってきたとき、その姿は誰も見ていないのに、なぜか「魔女が来た」という事実だけは村の誰もが認識していて、そのことこそ彼女が本物の魔女であることの証明だった。その後も村人が相談に行ったりはしたものの、直接会ったものはおらず、アルドも特に興味を持つことはなかった。「魔女」とは言っても年齢も容姿もわからず、そもそも男である可能性も十分あった。
つまりそれまでアルドが知っていることは、「魔女が村はずれに住んでいる」こと、「とても腕の良い魔女である」こと、それくらいだった。
そんなアルドと魔女が初めて会ったのは、ついひと月前のことだ。
アルドは焦っていた。彼は今年で25歳になる。男は女に比べれば結婚を急がなくてもよく、彼自身農家の三男坊なこともあって、これまではわりと自由にさせてもらっていた。
しかし一年前、幼なじみが隣村の男と婚約したことで状況は一変する。どうやら彼の両親は勝手にその幼なじみを婚約者候補にと思っていたらしく、それが別の男と結婚したことでいよいよ彼に相手がいないのではないかと思い始めたのだ。実際それは全く正しいのだけど、もう少し自由でいたいアルドにとってはいい迷惑だった。
ともかく誰かいい相手を見つけろと急にプレッシャーがかかり始め、見合いの話も転がり始めた。しかし狭い村で選り好みをしていては相手などおらず、見合いもうまくいかない。自然、彼の思考は「どうやって相手を見つけるか」ではなく、「いかに結婚を先延ばしにできるか」に寄りがちだった。
その日はとてものどかだった。遠くで羊の鳴き声が聞こえ、塀の上で猫が居眠りをし、あと少しで収穫の作物が太陽を浴びて美しく光る。仕事をする気なんて起きない。なにもかも忘れたくなる。いやなことを、
(…忘れたいと思うことでむしろ思い出してしまった)アルドは顔をしかめた。こんな日に結婚のことなんて考えたくない。
果樹の下に座り込んで、眠って忘れようと目を閉じる。そういえばこの近くに魔女の家があるはずだ。夕方にでも寄って、占ってもらうか…。
意識が落ちかけた彼の、閉じたまぶた越しに、黒い影が映った、ような気がした。
木にもたれて眠る男に、ひとりの女が近づいた。なにか理由があったわけではないだろう、村はずれにやってくる人間なんてそうそういないから、「魔女」に用があるのではと思った、その程度だろう。
彼女が人間をここまで近くで見るのは、とても久しぶりのことだった。うっかり地面に膝をついて、男を覗き込んでしまう。
そこでアルドは目を開けた。浅い眠りだったので、女の接近であっさり目を覚ましてしまった。
一目惚れだった。
目が覚めたときに眼前にいた美女は、彼が惚けているうちにいなくなってしまっていた。
「キスでもされたか」エリクはそう茶化したが、ただ一瞬見つめあっていただけだ。その一瞬で、正体不明の動悸と顔の熱さに見舞われて、しばらく動くことができなかった。
彼女が魔女であることはすぐにわかった。村の人間は全員把握していたし、あんな魔性の美しさは、普通の人間ではない。ただ、彼女に会うことが大変だった。
魔女に会いたいというと、村人はそろって「魔女の家」を指さす。その見た目はいたって普通の民家で、扉を開ければそこに彼女がいるのかとアルドはどきどきしながらノックしたものだ。しかしそこには誰もおらず、机の上にはスープ皿。
『魔術の御用でない訪問はお断り』
浮かぶ豆が、文字を描いていた。
「アルドが魔女に魅入られた」ニュースは村中に広まった。両親は怒り、親友は呆れ、村人たちはあのアルドが興味を持つ女はどんなものかと噂した(語弊のある表現かも知れないが、村人たちは、彼は女に見向きもしないのだと思っていた)。恐いもの見たさで用もないのに魔女の家を訪れる輩も続出し、魔法薬を受け取りに行った老婆まで、姿の見えない魔女に「アルドに会ってやってくれ」と言い出す始末。もちろんアルドも毎日魔女の家に通い、魔女のいらつきもいい加減高まっていたのだろう。彼女が現れたのは彼と出会ってから一週間後だった。
広場の朝市をのぞくアルドの目の前にあるものは確かに魚であったはずなのに、そこには魔女の黒い瞳が輝いていた。
「うわっ…」
「…私に、何か用かしら?」魔女の赤い唇が動くのを見ていて、言葉の意味を解するのに時間がかかった。
「なにか、よう…」
おうむ返しに呟く彼を、魔女は眉をひそめて睨みつけた。
「あっ」そこでアルドの目の前にいるのは今まで恋いこがれていた魔女だということを改めて認識した。何か言わなくてはと慌てて口を開く。
「あの、好きです」
「………」
魔女の冷たい視線で我に返った。
「…用事は、それだけ?」
そういえば、声を聞くのは初めてだ。なんて澄んだ声色なんだろう。たとえその声で紡がれる台詞がいかに怒りに満ちたものであっても。
魔女は迷惑そうに辺りを見回した。少なくない数の野次馬が二人を見つめている。
「迷惑よ」彼女は表情通りのことを言った。そのまま踵を返そうとする。これではいけない。
このままではアルドのことは魔女の中で「終わったこと」になってしまう。彼女の中のアルドはいないものになってしまう。
アルドは魔女の背中に向かって叫んだ。
「好きです!!俺、毎日告白するから」
魔女は果たして振り向いた。
「無意味で報われない行為と理解して、それでもしたいならやってみれば?」
その微笑みに、アルドは三たび目を奪われた。
「で、魔女が当てつけみたいに毎日出てくるようになったわけか」
「当てつけじゃない。チャンスをくれているんだ」アルドはあくまで前向きだった。
アルドが初めて告白した日以来魔女は毎日村に姿を現した。実際見慣れてしまえば村人たちも取り立てて騒ぎ立てることもなく、アルドの告白も既に日常茶飯事と化していた。あるいはこれを狙って、魔女は出てくるようになったのかも知れない。もっともエリクに言わせれば、毎日告白してくる男を毎日振ることを楽しんでいるんだそうだが。
なんだかんだ彼につきあってくれるエリクにはすでに婚約者がいて、再来月には結婚式を挙げる。お前とばかやれるのもあと少しだからなと笑った。
「はあ、いやだな。結婚とか、家庭とか、あまり考えたくない」
「お前、魔女と結婚したいんじゃないのか」
言われてはたと立ち止まった。
「結婚…?あの人と?」
呆然と呟くアルドを見て、エリクは目を細めた。
「お前は魔女とどうなりたいんだ」
「どうって」
あの美しい姿をずっと眺めていたい。笑いかけてもらいたい。家に帰ったら彼女がいて、振り向いて「おかえり」って…、
そこまで想像してがっと顔が熱くなった。
「けっ…こん…?」
エリクは親友が妄想の世界に入ったことを悟って肩をすくめて立ち去ったが、気づかないアルドは微笑む想像の彼女へ笑い返し、その名前を…、
そのとき初めて、アルドは魔女の名前すら知らないことに気がついた。
「君の名前を教えてくれないか」
「ようやっと聞いたわね」
聞いた途端魔女がそう言うので、名前を聞いてほしかったのかと期待してしまったが彼女の目は相変わらず冷たかった。
「あなた、毎日『好きだ』ばっかりで、私のこと知ろうともしないでしょ。うざったいからそれでも良かったけど」
アルドは恥ずかしくなった。好きだ好きだと言われても名前すら聞かれないようでは、冗談かと思っても仕方ない。
「君のことが知りたい。君と親しくなりたい」
「本当、今さらね」
「君と結婚したい」
魔女の動きが止まった。嘲笑が解けかけた、あいまいな表情で固まったのは一瞬で、すぐに元の表情に戻ったので、見間違いかとアルドは思った。
「私は魔女よ」
「何か、問題でも?」
二人は見つめ合った。しかし瞳の奥にあるのはお互い真逆の感情。
「お話にならないわ。ここまで会話の通じない人は初めて」
「名前を、教えてくれ」
魔女は目を瞑って、小さく頭を振った。そのまま背中を向けて、彼にはそれが魔術を使って彼女が姿を消そうとする前兆だと経験則で悟った。
呼び止める間もなくそのまま魔女の姿は消えたが、そこに声が残された。
「ルイ」
男のようなその名前が、魔女の名前であるらしかった。
46回目の告白の日だった。魔女——ルイに名前を聞いて以来アルドは告白に加え、毎日ひとつ彼女に関する質問をするようになっていた。好きな食べ物、好きな色、好きな…うんざりした顔をしながらも魔女はすべて答え、毎日アルドの前に姿を現すこともやめはしなかった。
「ルイ」
「まだあきらめないのね」
「好きだ」
「ふうん」
彼の告白を軽く流し、ルイは腰掛けた柵の上で足を組んだ。もしかすると彼女は、この質問タイムのほうをこそ楽しんでいるのかも知れない。
「魔女はいくつも魂を持っていると聞いた。君もそうなのか?」
一般に魔女はその大きな魂を分割させて複数個所持し、魔術に使用するものなのだそうだ。
アルドの質問に、美しい魔女は目を細めた。
「そういう魔女もいるし、そうでない魔女もいるわ。私の魂は千個あった」
「千個!?」突然の大きい単位に驚いて、彼は思わず大きな声で聞き返した。
「今はもうないわ。そうね…百個程度になってしまった」
「どうして」
「知っているでしょう。魔術を使うには代償が必要なのよ。…それだけではないけれど」
魔女の目はいっそアルドを哀れんでいた。
「わからないの?」
殺されたのよ。
魔女は囁いた。
「魔女は敬われ、恐れられ、そして軽んじられ、虐げられるものなのよ、いつでも」
「君はどれほどの間、」
アルドは勢いで言いかけて、そして口ごもった。ルイの無言の促しに押されて、続きを言う。
「…どれほどの間、殺され続けたんだ?」
ルイの表情は変わらなかった。
「哀れみかしら?たまにもらうこともあるけれど、嬉しくないわ」それに女性に年齢を聞くものではないのよと、冷めた声音で言った。
「俺には君の望む言葉を言うことができないよ」
「へたれね。でも下手な言葉を言うよりましよ」
意外にもルイは微笑んだ。
「どのみちいまの私にはどんな言葉も信じることなんてできないけれど」
「どういう意味?」
「信じられるとでも?」
彼女は笑みを深めたが、目は笑っていなかった。
「あなたってつくづくばかな男ね」
人の気持ちはすぐ変わるのよ。
「俺の気持ちは変わらない。君が振り向いてくれるまで、何度でも告白するよ」
自分の言葉は浅いと、アルド自身感じていた。長い間孤独や裏切りに耐え続けてきたであろうルイの心に、本当に響く言葉を自分は見つけられない。
ただこの気持ちに嘘偽りはないことだけは確かで、必死に彼女を見つめることでそれを伝えようとした。
ルイは空を見上げた。目を逸らしたようにも見えた。
「信じようとしてみてもいいけれど、あなたにもそれなりの努力をしてもらわなくてはならないわ」
「俺にできる努力ならいくらでもする」
「そう」
意気込んで答えるアルドに、ルイは不敵に微笑んでみせた。
「賭けましょう」
魔女の黒い髪がざわりとうごめいた。