一ノ⑤
そうだった。この世界は、アルトがくれたきっかけから生まれたんだ。アーリは走りながらのんびりとそんな考えをめぐらしていた。慣れない運動をしたものだから、全身汗まみれで、息も絶え絶えだ。
それでも走る。あの地球から連れ出してくれた青年に会うために。もつれそうになる足を叱咤して、アーリは森を抜けようとする。
小屋から出口まで、一直線だった。はやくここから抜け出して、アルトに会わなければと焦るアーリの心が作用したのだろう。森を抜けだしてすぐ、アルトに会うことができた。あの調査隊の少女が言った通り、この世界なら、望めばなんだってできるのだ。
「あ、アルト……」
アーリに名を呼ばれた男は、アーリのほうを振り返った。呼んだアーリはというと、息を整えるために肩を上下して、膝に手をついていた。
「ちょい、アーリ。大丈夫か?」
「は、走ったから……」
「あー、無理に喋らんでいい」
アーリはアルトの気遣いを無視して、食ってかかった。
「なんで」
「うん?」
「私をここへ連れてきてくれた、人が、どうして、私をここから、追い出そうと、する、のよ」
呼吸もままならない状態で喋れば、当然まともに話すことはできない。それでも、アーリは精一杯、アルトにぶつける。
「ちょっと待った。何の話だ?」
「結婚の話よ! あなた、私のこと嫌いなの? この世界はお気に召さない?」
「いや、そういうこと言ったわけじゃなくて……」
「だったらどうして追い出そうとするの。私は、この世界にいるのが好きなの。私の故郷はこの世界なの! アルトが連れてきてくれた、この世界にいたいの! なのに、連れてきたあなたが私を追い出さないで‼」
興奮して、周囲の状態も気にしない。せっかくの美しい髪も、振り乱されて台無しだ。ほつれた髪が、汗で濡れた頬に張り付く。
「アーリ」
「私は、この世界が好きなの! それと同じ、違うそれ以上に、ずっとずっとアルトが好きなの!」
いつもつっけんどんで、毎日迷宮を超えて小屋まで来てくれるアルトに対してずっと冷たい態度をとってばかりの自分が言っても、何の説得力もない。今さら、アルトに打ち明けるのは、あまりにご都合的すぎる。アルトに酷な告白なのは、感受性豊かなアーリなら容易に想像できた。
だが、言わずにはいられなかった。アルトが自分を突き放そうとしたとき、きっと日々の態度から誤解されていたんだ。
アーリの見上げたアルトの顔は、戸惑いと驚愕だらけで隙がない。あんなに騒がしく豪快に明るくふるまう男も、こんな表情をするのだとアーリは初めて感嘆した。
「だから、結婚をいい話だなんて言わないで」
アルトは、恐る恐るアーリの肩を抱き寄せる。アーリが何の抵抗もしないのを確認して、胸にかき抱いた。
「ごめん」
「本当よ。女の心を知らないなんて、馬鹿じゃない」
「うん。ごめん」
「私をここへ連れてきた責任は、重いんだからね」
「うん。わかってる」
アーリのわがままを、アルトは全部聞いてくれる。この小さな儚げな創造主は、アルトに縋り付いて、胸に顔をうずめながら悪態をついてばかりである。やれやれ、とアルトは一呼吸した。
「俺も、アーリが好きだよ」
「なら、なんで突き放そうとするの」
「俺みたいに身寄りのない孤児より、あっちのほうが将来安泰そうで、アーリに苦労させなさそうだから」
「馬鹿じゃないの」
アルトの理由を、アーリは簡単に一蹴した。
「私の幸せは、この世界で、レーヴェとメーリ、そしてあなたが一緒にいてくれることでようやく生まれるの。だいたい、あなたは救いようもないくらい馬鹿なんだから、そんな変な気を回すのは似合わないわよ。あなたらしく、私の幸せを考えなさいよ」
「はは、手厳しー」
「苦労なんてどうでもいい。あなたと一緒に、苦労を分かち合えるなら本望よ」
「そりゃ光栄だ」
「でしょう?」
「うん」
アーリは一度、アルトから離れた。今度は、きちんとアルトを見つめて、アーリから手を差し出した。
「アルト、私と一緒にいてほしい」
アルトは、あの時と同じようにかしずいて、その差し出された手を恭しくとった。
「一緒にいよう」
「うん。ずっと一緒にいて」
「かしこまりました、姫君」
アーリはこれ以上ない喜びに、優しく笑った。
「ところで相談なんだけど、私、実家に連れ戻されそうなのよね」
鎌をかけてみた。アルトはそれにあえて乗じ、いつもの豪快な笑顔でアーリを安心させた。
「メイガスが来てるんだっけ? 今のうちに勘当でも宣言しとこうか?」
「勘当って子供からするもんじゃないでしょうに。……でも、いい考えね。今から行きましょうか」
「はいよ」
メイガスは近場の宿をとっていた。具体的にどこの宿をとっているかなんて、創造主のアーリにとってはたやすく探し当てることができた。宿長に部屋を聞き、まっすぐメイガスの元へと赴いた。
部屋でもくつろぐことなく、背筋をきちんと伸ばして、おそらく両親に持たされたであろう資料に目を通しているあちらの従者は、訪問者二人に驚くことなく、慣れた動作で立ち上がる。
「思ったより早いご決断ですね。その割には手ぶらですか」
「私が地球へ帰る前提で話をすすめるな。あなたが有能なのは認めるけど、人の意思を汲み取るのは赤点だわ」
「恐れ入ります」
こちらは皮肉ではなく、アーリの全うな評価だというのに、メイガスはそれにも動じなかった。何をしたらこの女は揺らいでくれるのか。そんな疑問が中心となって苛つきを覚えたが、それをアーリは払拭した。今は、そんなことのために来たんじゃないのだから。
「メイガス。あなたに伝えることがあって来たの」
「では、帰りましょうか」
「あなた、物忘れも激しいのね。私が帰ると思い込んだうえで話を聞かないでってさっき言ったばかりでしょう」
「申し訳ありません。恥ずかしながら、わたくしはその能力が人より劣っていまして」
アーリは落ち着きを取り戻すために一度だけため息を盛大に吐いた。息と一緒に吐き出したもやもやは、アーリから消えてなくなった。
「メイガス。私は帰らない。ずっとこの世界で生き続ける」
「……本気ですか? 旦那様方が本気を出せば、この世界は生物が住める環境ではなくすることだって可能なのですよ」
「それも伝えて頂戴。もし、この世界に対して不穏な行動を起こすことをこちらが察知したら、容赦なく私はそれを叩き潰す。そのためなら、相手に限って何の容赦もしない、ってね」
「お嬢様のお気持ちひとつで、この世界の住人達全員の生命にかかわるということなのに?」
「一人の命と引き換えに世界全員を助けるか、世界全員の命を差し出して一人を助けるか、って問題? 模範解答は知らないけど、私の答えは、一人を選んで全員を救うこと」
「飛躍した回答ですね。つまり、お嬢様もこちらの住人も犠牲にはならないということですか」
メイガスはようやくアーリの意志を汲み取った。
「そんな理想論が可能だとお思いですか」
「できるわ。だって、私は創造主なんだから」
アーリは、メイガスにそう断言して見せた。それは、簡潔で明快な、アーリの答えだ。
この世界が、アーリの故郷。地球は、もはや彼女の仮住まいに過ぎない。
「そうですか。では、そのようにお伝えします」
案外、メイガスはあっさりと引いた。やはり、彼女は従者でしかない。目上の人間に伝えろと言われたら、その通りに従う。それはそれで優秀ではあるが。
メイガスは二人に一礼して、宿を去る。突然現れた訪問者は風のように消えていなくなった。
アルトをつかんだまま小屋へ戻ると、兄と弟がいつものように出迎えてくれた。ただ意外だったのは、メーリが珍しく夕食を作っていたことだ。どういうことなのか問いただしてみたが、単なる気分転換だといわれた。味は、初めて作ったにしては上出来のレベルで、伸びしろがありそうだった。
「いいのか」
レーヴェが、一言だけ聞いた。
「いいの。二人は?」
「僕はこっちの世界が故郷なのです」
「妹の尻拭いは、兄の義務だ」
アーリは一言だけ答え、逆に聞き返す。どちらの答えも明快だった。
「お姉さん、晴れ晴れしてますね」
ずっと控えていた佳苗の表情は、うれしそうだった。こちらの都合で、客人である彼女のことは結局最後になってしまった。アーリはそれを詫びる。詫びられた方は、世界が存続すると分かっただけでもいいんですと、笑って許してくれた。
「案内ゴーストの修理をお願いします。終わったら帰りますから」
佳苗の帰るという単語は、この世界から地球へと帰る、という意味を持っている。
「送っていこうか?」
「いえ、大丈夫です。今度はふらふら寄り道しませんから」
せめて食事だけでもと提案しかけて、アーリは言葉を飲み込んだ。彼女は、調査隊。こちらの都合を彼女に押し付けてはいけない。それに、結局会うことのなかった佳苗の連れが待っているのだろう。佳苗は、その人に早く会いたいはずだ。
「分かった。五分だけ待ってて。すぐに直すわ」
アーリは自室に休ませていた佳苗のゴーストのデータを抽出する。不具合を即座に見つけ、平常のデータに書き直す。すると、ゴーストの調子はすっかりよくなり、佳苗のもとへ勝手に飛んで行った。
玄関に、少女が立っている。調査隊の少女。この世界を素敵だと形容してくれた少女。アーリを、間接的に助けてくれた少女。
「ありがとう、カナエ。今度あなたがここへ来るときは、今よりもっと素敵になってるわよ」
「はい。楽しみにしてますね、お姉さん」
では、と佳苗は案内ゴーストを連れて、小屋を出て行った。
アーリは外へ出て、視界から彼女が消えるまでずっと手を振っていた。あの子は、また来てくれるだろう。根拠はないが、なんとなくそう思っていた。
迷宮の世界の創造主は、おせっかいな男と、兄と弟と、自分の愛した魔物たちとともに、この世界で生きる。
空は晴れ渡っている。アーリは、小屋へ戻った。
一章はこれで終わりです。この章のお話がもとになって、一つの作品となりました。いわば一章は原点ともいえますね。