一ノ②
空は快晴のはずなのに、木々が陽光をさえぎってあたりは薄暗い。品のよさそうなカラスが飛んでいる。ついでにコウモリも集団飛行している。陽光を隠す木々の陰にはピクシーが潜んでいる。たまにゴブリンが顔を出す。
この世界には、妖精や魔物といった人間ではない生物が生息している。むしろ人間よりも数が多い。ここに住む人間なんて、自分を含めれば数えるほどしかない。否、レーヴェとメーリ、そしてアルトと自分以外、人間の住人はいないのだ。
アーリは、人間よりも得体の知れない魔物の方に好意を抱いていた。昔昔に読んだ本に、魔物は人間をそそのかして悪の道に踏み入れさせたという。悪の道というのは、知識を持つこと、炎を扱うこと、男女の中を深くさせること、などだ。アーリはむしろ、その道を教えてくれた魔物に感謝を抱いているほどで、本来敬うべきである主には何ら尊敬など抱いていなかった。だからアーリはこういった人間が極端に少なく、魔物たちが無数に生息するこの世界が好きであった。
ときどき、自分についてきてくれた兄弟たちが、この端から見れば気味の悪い世界をどう思っているのだろうかとアーリは不安になる。レーヴェは、本当は将来が約束されていた。無口で無愛想だが誠実で、家族のために主君のために身を捧げる自己犠牲心を持った勇敢な青年だ。メーリもそう。暇さえあれば寝ている小さな子供だが、あれで本当の意味での頭のよさを持っている。嘘を嘘と見抜き、与えられた知識や情報から自分の意見を主張する。どちらも、優秀な人材として申し分ない人間だ。自分の空想やわがままに消費されるべきでないことも充分理解している。
何より、アルトのこともだった。陽気で騒がしいあの青年は、その身ひとつですべてを築き上げてきた。誰にも頼らず、全部自分ひとりでやってしまえるような豪快さは、きっと誰かの助けにもなるだろう。
そんな三人が、この自分のわがままに、何も言わずに付き合ってくれるのが何だか申し訳ない。
アーリは途方もない今後のことを考えた。あの三人は、やっぱりもといたところに戻すべきなのではないか。でも、ここに一人は嫌だった。ではほかの人間を連れてこようか。それは本能が真っ先に拒否した。
いつの間にか、森の入り口にまでたどり着いていた。深層心理が働いたのかもしれない。一度、この森を抜けて太陽の光でも浴びれば? と後押ししたのだろうか。
ふと、前方を見やると、一人の人間がきょろきょろしながら立っていた。装束がこの世界のものとは違う。黄色がかった肌は少し焼けていて、艶のある黒髪はツーサイドトップにして結ばれている。白いワイシャツの上に紺のジャケット、背中にはカバンのようなリュックを背負っている。右腕には、赤い腕章がつけられていた。近づいてそれとなく見てみると、自分とそれほど変わらない年ほどの少女だった。珍しいことだ。ここには、人間なんて自分達以外いないのに。アーリは驚かず、そっとその少女に話しかけてみた。
「どうしたの?」
少女はこちらを振り向いた。手に持っている地図のようなものから右手を離し、右耳に触れた。恐らく、翻訳機か何かのチェックだろう。
「あ、えーっと、連れとはぐれてちょっと道に迷っちゃって……」
「その地図、もう使い物にならないわよ。この辺は昨日、道を創り直したから」
「えー? そうだったんですか? 早いなー、これ買ったのおとといなのに」
「ゴーストは?」
少女はリュックからアーリの言った生物を出した。
「なんか具合悪いらしくて、うまく案内してくれないんです。やっぱここでは地図頼みにするもんじゃないですね」
たはは、と少女は間抜けに笑う。
「連絡とろうにも、ここじゃ電波が届かないみたいで」
「なら、電波の届くところまで連れて行ってあげるわ。そこでお連れの人と連絡をしたほうがいい」
「え、いいんですか⁉ ありがとうございます!」
少女は嬉しそうに笑顔を現し、アーリに深く頭を下げた。
「あ、それと案内ゴーストを預けてくれる? 私が不具合を直すわ」
「わざわざありがとうございます、お姉さん」
少女は惜しみなく感情を顔に表す。アーリは元の道を引き返す。この世界で電波の届く場所は、アーリの小屋とっこの森からずいぶん離れたところにある駅だけだ。
森を歩いている間、少女はずっと不思議そうに森中を眺めていた。魔物が躍り出ると、驚きはするが恐怖は抱かず、食べられないから安心しなさいとアーリに言われると躊躇なくその魔物の体を触れたり、小さな機械で写し取った。カラスが冷やかしに話しかけてくると、言葉を返してくる。ゴブリンが現れても、好奇心旺盛な瞳で見つめ返した。そのうち、どこかへふらふらと迷ってしまうかもしれないと考えたアーリは、その子の手を強く握っておいた。
「ここ、ゴーストがいないと確実に迷うからね」
「はい。それはよく知ってます。ここに来る前も上司にうるさく言われたくらいですから。でも……こんな素敵な場所なら、迷ってしまってもおかしくないですよ。実際に来てよく分かりました」
おかしなことを言う。ここを訪れた外の人間は、みな一様に気味悪がってまっさきに逃げ出すというのに。
「この世界をそんな風に言うのは、あなたが初めてよ」
「嘘ー。素敵じゃないですか」
「みんな怖がるのが普通じゃないの」
「そりゃ初めて来たときはびっくらこきましたけど……怖くはないですよ」
「あなた、変な子ね」
「いやあ、それだけが取り柄でして」
少女は照れた。
「……ほんとうに変な子」
アーリは苦笑した。
いつの間にか、アーリの小屋の前に二人は立っていた。おそらく、アーリの意思が働いたのだと思う。この少女の助けになりたい、そのために、早く電波の届く小屋に行かねば、と。
ドアを開けると、机に突っ伏してぐっすり眠っている弟がいる。その向かいには、黙々と愛用の剣の手入れをしている兄がいる。どちらもこちらを向きはしなかったが、アーリと客人に気づきはしていたようで、「おかえり」と声をそろえて言ってくれた。
「ねね、おみやげって、その子?」
メーリは視界が暗闇でさえぎられているというのに、別の客人に気づいていた。何だこの弟。透視能力でもあるのか。
「おみやげじゃないわ」
「じゃ、何がおみやげ?」
「ありません」
メーリはけちー、とぶーたれた。レーヴェは珍しい客人を不思議そうに見つめ、すっと立ち上がって席を進めた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございますー」
少女はちょんと椅子に座り、通信機の確認をする。圏外から通信可能になっていた。ちょっと失礼しますね、と断って、発信する。
近くで少女をそっと見守っていると、袖をくいくいとメーリに引っ張られた。
「ねね、あの子だれ? ここの子じゃないよね」
「そうね。あとで聞きましょうか」
「聞かなくてもだいたい見当ついてるんじゃない?」
メーリは眠気まなこでアーリの真意をあっさりと見抜いた。恐ろしい弟だこと。少女はこちらに常に気を使いながら通信機の向こうの相手と通話していた。会話の内容からある程度、彼女の身分や職業が分かる。
少女は通信機をリュックにしまった。彼女が一息つく前に、メーリは彼女に唐突に尋ねた。
「ねーねー、君ってどこの子?」
「あたしですか? あたしは、地球から来ました、『調査隊』の現地調査員で、桜井佳苗といいます」
椅子からすっと立ち上がって、律儀に一礼した。佳苗というらしい少女の自己紹介で、アーリはやっぱり、と確信した。
「調査隊って、あれだっけ? 宇宙にいっぱいある世界を調査してまわるっていう」
「そうです。宇宙に数多存在する世界を調査し、地球とそれらの世界をつなぎ、双方の世界の発展と平安に貢献することを目的として設立された機関が、調査隊なんです。あたしは、その調査隊の一人というわけですな」
アーリも自分の立場上、調査隊の存在は知っていた。数日前、調査隊から三日以内に日本支部の現地調査員が来るとの通達をもらっていた。なにぶん若いからよろしく頼むとさえお願いされてしまっていた。なにをどうよろしく頼まれればいいのか分からない。若いといっても、レーヴェやアルトほどの年齢には達しているだろうと見当をつけていたが、まさか自分と同じか、下手をすればメーリと同じくらいの女の子だとは思っていなかった。
「調査隊の人からあなたが来ることは事前に聞いていたけど、私は具体的に何をすればいいのかしら」
「そうですねー。この世界を案内してもらいたいです。あとは、住人とかシステムとかも教えてもらえれば嬉しいです」
「分かった。あなたがいやじゃなければ、今からでもこの世界を回りましょうか」
そういうと、佳苗はぱっと顔をほころばせた。
「いいんですか? お願いします!」
「お連れの方は?」
「あ、向こうは向こうで勝手に調査するそうです。何か向こうの案内ゴーストも調子悪いらしくて」
「そう。後で、会えるようにしてあげる。……まずは、住人からかしら」
アーリは兄弟を立たせた。
「この世界の住人のほとんどは魔物や妖精よ。人間の住人は、私以外にはこの兄弟と、もう一人しかいない。……はい二人とも、カナエに自己紹介」
レーヴェは目線を佳苗に合わせるために腰を低くした。
「俺はレーヴェ。妹……アーリの兄だ。魔物相手に武器を売ってる」
「魔物でも武器を使うんですねー。てっきり己の体が武器だと思ってました」
「アーリに連れて行って会わせてもらうといい。気のいいやつらだから」
レーヴェとアーリの間から、末っ子のメーリが割って入って来た。
「はいはいはーいー。無視するなー。僕を忘れるなー」
「忘れてたわけじゃないですよう」
「僕はメーリ。末っ子。職業は特になし。寝るのが好き。本を読むのも好き。でも何よりみんながなかよしなのが好き」
「あはは、あたしと好きなのが同じですね。弟さんおいくつですか?」
「十五。まだまだ若いよ」
「あ、あたしと同じだ」
「そっかそっかー。じゃ、愛をこめてカナちゃんと呼ぼう」
「じゃメイくんと呼ぼう」
末っ子と現地調査員は、どうやら波長が合ったらしい。手を取り合ってきゃっきゃうふふとはしゃいでいた。
これ以上賑やかにさせていたらいつまでたっても案内ができない。十五の少年少女を引き剥がしたのはアーリではなくレーヴェだった。レーヴェの大きくてたくましい手が、二人の襟首を優しくつかんだ。
「あー、こら何をするー」
「カナエはここを見て回るんだから、そろそろ放してやれ」
「お姉ちゃんとでしょ? じゃ、僕も行く行くー」
「カナエが嫌じゃなければね」
アーリは佳苗を伺ったが、問題ないというようにうなずいてくれた。
小屋の留守はレーヴェに任せ、アーリは眠りたがりの弟と異世界の住人を連れ、外へと出かけた。
またも区切ります。