四ノ⑥
十年前。小学校に上がる前のことだ。そのときすでに、祖父は足を引きずっていた。というより、脳梗塞の後遺症で左半身がうまく動かせなかった。しかし、祖父は明るく穏やかに暮らしていて、遊びに来た佳苗や彼方、孝太にいろいろな話をしてくれた。
祖父の語るお話に、佳苗はいつも惹きつけられた。もともと空想が大好きで、両親に面白そうな絵本を見つけては読んでもらうようにせがんでいた。図書館にも頻繁に通い、いつも貸出冊数ぎりぎりまで借りて読んだ。
本に描かれた世界と物語は、佳苗に豊かな空想力を養わせた。それら読んできた本は、佳苗を形づくっていく。しかし、佳苗にもっとも大きな影響を与えた物語は、祖父の物語だった。
いつしか、そんな世界がこの広い地球のどこかにあると思うようになった。世間は、それを笑った。保育所で、祖父の物語を聞かせて、本当にあると断言した佳苗を、誰もが笑った。それを真面目に信じたのは、兄と彼方くらいだ。
おそらく、父を通じて祖父の耳にも、佳苗が法螺吹きだと心ないことを言われたという話が届いたのだろう。保育所でうそつき、空想家と言われて落ち込んでいる佳苗は、父に連れられ、彼方と孝太も一緒に祖父の家へ行った。祖父は目に見えて元気のない佳苗を心配そうに見つめながらも、快く歓迎してくれた。
祖父は、孫二人とその幼馴染一人を連れて、最寄りの駅まで行った。駅に着くまでは、父の介護を要した。
そこで、空飛ぶ蒸気機関車に乗せてもらった。空飛ぶ蒸気機関車がこの世に存在して、そればかりか実際に乗ることができたのだ。歓喜のあまり、座席についても窓の外をきらきらと眺めては、祖父に呼びかけた。
興奮さめやらぬ間に、その世界に着いた。そのとき、佳苗の目に広がった世界は、当時の佳苗の知識では言葉にできないほどだったに違いない。
当時の現地調査員の介護を要しながらも朗らかに笑っている祖父の隣で、佳苗はこの感動を祖父や彼方や孝太にどう表現すればいいのかわからなかった。ただ、幼い瞳をきらきらと輝かせ、ちびっこの両手をぎゅっと握り、肩を力ませ、今にも飛び上がりそうな足を必死に地につけて、祖父の語り続けた世界を全身で味わっていた。
その世界で、祖父は多くのものを教えてくれた。人間とは違う生物。例えば、空を駆る天狗、川をのんびり泳ぐ河童、街道をあわただしく駆けていく化け動物たち、神社の鳥居から、社におわします八百万の神々様。嵐を知らないような、澄んだ青空、生い茂る緑の木々、自然と調和のとれた色彩を持つ建築物。
今は亡き祖父の描いた世界。
そう。確かに、祖父に連れられ、佳苗は一度ここに来たのだ。
「……おーい」
肩を叩かれ、佳苗ははっと我に返った。少しの間、昔のことを想起していたらしい。
「大丈夫?」
「うん。思い出したんだ、昔、ここに来たこと」
「そっか」
佳苗は老天狗と目線を合わせるためかがむ。
「思い出しました、天狗爺様、あたしを負ぶって空に連れてってくれましたよね」
老天狗は感慨深くふけった。
「うんうん。あのときはまだ若かったからなあ。佳苗も小さかったのも手伝って無理もできたよ。今はもう十分飛ぶのが限界だがね」
「天狗に連れてってもらって空を飛んだって、友達に話したら笑われたんですよ。でも、そんなことはもう気にならなくなったんです。おじいちゃんの世界が本当にあるって、自分の目で確かめられたからかな」
「百聞は一見にしかずという。まさにその通りだなあ。彼方も、今ほどひどくはないが、ひねくれは変わらんねえ」
「俺のひねくれっぷりはどこに出しても恥ずかしくありませんから」
威張るところではないが、彼方は胸を張って見せた。老天狗は豪快に笑う。
「結構! おまえはそういう子だよ。だが、少しばかり変わってもいるな。いい方向に」
「そうですか? 自分の成長なんてあまり実感がないもので。でも、変わったとするなら……心当たりがないわけでもない」
老天狗も青年も深くは聞き出さなかった。
佳苗は、一つ、ああ、と納得した。
「この世界の創造主、おじいちゃんだったんですね」
よくよく考えてみれば、それは普通のことだった。祖父があんなに地球とは別の世界に詳しかったのも、当時要介護者の異世界旅行は手続きが面倒でやたら時間がかかるのにもかかわらずあっさりと行けたのも、この世界の住人達が自分に親しげなのも、この世界を懐かしいと思うのも、全部その言葉一つで納得できる。
思っていたほどの驚きは、なかった。異世界の創造主というものがどれほど畏れ多くも素晴らしい存在か、佳苗は仕事で何度も接してきたからよくわかる。だが、祖父が創造主であるという答えにたどり着いても、その畏怖の実感がわかないのだ。むしろ、祖父ならそれくらいやってもおかしくはないくらいに思えた。祖父の昔を、父によく聞いていただろうか。
「では、今日は神社に帰りましょう。あなた方がここを離れていた間の創造主について、お話いたします」
神主は、佳苗の肩を抱いてそう告げた。
神社に戻ってお茶と菓子を楽しんでいるころには、すでに黄昏時だった。境内から、夕日の沈んでいく海を眺める。海のないところで育った佳苗は、この美しさが心に溶け込んでいくのを感じた。こんな風景が存在するくらいだ、地球以外の世界が宇宙にあったって、不思議はない。
「この世界が創造されたのは、おおよそ二十年ほど前です。創造主の息子夫婦に子ができたと知った頃ですね」
母が、孝太を身ごもった時期だろう。そのとき、あたしは影も形もないなー、と佳苗は思った。
「もともと、創造主は空想がお好きでした。世界の基礎となるノートも、お若いころから書かれていました。一冊のノートに、ありったけの世界構造を込めていた。ですが、それが創造までには至りませんでした」
一冊のノートから世界が生み出されるためには、強い心が必要となる。迷宮の世界では、アーリが地球から出て行きたくて、まだらの世界では、フーマが親友を救いだしたくて、その強い心が種となって生まれた。
「おじいちゃんの場合は、お兄ちゃんがきっかけで?」
「厳密に申し上げますと、孫が生まれるという祖父の心がきっかけでしょう。あなたの兄上である孝太様がお生まれになると同時に、この世界は小さいながらも存在し始めました。その三年後、あなたと彼方様がお生まれになった。それをきっかけに、この世界はノートに描かれた構造にだんだん近づいていくようになった。そして六年後、妹御の実優様がお生まれになり、ノートの構造と世界が完全に一致し完成した。そして、創造主の孫であるあなた方お三方と、彼方様のご成長とともに、この世界もノート以上に成長していったのです」
神主は茶をすする。
「この世界は、いわばあなた方の第二の故郷といっても差し支えないのですよ」
「……この世界に調査へ来たとき、あたしはいつも懐かしさばっかり感じてました。初めて来た気がしない、夢で見たのかなって思った程度でしたけど、そうじゃなかったんですね。ここは、おじいちゃんが創ってくれた、あたしが望んだ世界だった」
佳苗は、手にした湯呑をゆらゆらと揺らす。
「やっぱり、おじいちゃんはすごい人だったんだ」
湯呑に残った緑茶に、ふと祖父の顔が浮かんだ。
感慨にふけっていると、突如、通信機がけたたましい音を立てて存在を主張した。
「うっぎゃあ⁉」
思わず湯呑を取りこぼしそうになるのを何とか阻止した。佳苗はポケットに入れていた通信機を取る。心臓がばくばくと鼓動を打っているのは、確実にこの機械のせいだ! 神主の青年に一言断って、佳苗は通信機のボタンを押す。
「は、はい……桜井佳苗です」
『中野です』
落ち着いていてはっきりとした声は、先輩の中野だった。
『桜井さん、予定を急きょ変更します。藤宮君はそこにいますか?』
「え? いますけど……」
『では彼を連れて、急いでその世界を立ち去ってください』
常に簡潔な彼女の指示は頼もしい限りだが、今回に限ってそれは佳苗をかえって動揺させた。
「ええ⁉ 何でですか? まだ調査期間残ってますよ?」
『指示には従ってください』
「指示に従わせたかったらちゃんと説明してください!」
『まったく、ああいえばこういうのは藤宮君に似てきましたね』
「似てません!」
『ではご説明します。つい先ほど得た情報ですと、その世界は五時間後に消滅します』
一瞬、佳苗の目の前は真っ白になった。
通信機の向こう側で中野が何かをしゃべっているのはわかる。でも、何を言っているのか頭に入ってこない。
この世界が、もう半日もしないうちに、消えるってどういうことだ。いや、そうじゃない。この世界は、創造主がいない。もう死んでいる。それは佳苗がよく知っている。その創造主は、佳苗の祖父だ。祖父は、三年前に亡くなっている。創造主のいなくなった世界は生き長らえることはできない。それは記録や勉強でわかっていたことだ。
心臓の鼓動はまだ早鐘を打ち続けている。中野の報告が嘘であればいいと切に願った。だけど、中野は仕事中に意味もなく嘘をつくような人間ではない。
この世界も創造主がいない。よく考えたら、いつ消滅したっておかしくない。三年も生き延び続けたこの世界が、次の瞬間には消えたって不思議なことではないのだ。
彼方が、佳苗の手から通信機をひったくって、事情を聞いた。すべてを理解した彼方は、社務所に置いてあった荷物一式をすべて整え、戻ってくる。
「行くよ」
「ちょっと、待って!」
「待てない、こればっかりは」
彼方は佳苗の手を強引に引っ張る。それに抗おうとしても、佳苗の力ではどうにもならない。
「神主さん! どういうことですか! やっぱり、創造主がいないから消滅しちゃうんですか?」
神主は焦燥にかられた佳苗とは対照的に、落ち着いてどっしりと構えている。すく、と立ち上がる。どうやら、駅まで送るようだった。
「餞別として、いろいろとお話ししましょう。次の機関車が発車するまでの間」
駅のホームで蒸気機関車の準備を待っている。調査隊二人の表情に明朗さはみじんもうかがえない。
「……この世界は創造主がいない。いなくなって、もう三年も経っているのに、まだ存在し続けていること自体、考慮に入れておくべきでした」
ホームのベンチに力なく座り、膝の上に震えた握り拳を置いている佳苗は、そんなことをつぶやいた。
「あたし、バカでした。これは仕事なのに、おじいちゃんの世界にまた来ることができて、忘れてたんです。創造主のいない世界の寿命……もう長くはないってこと、考えないようにしてたんです」
「気にすることないよ。俺も同じこと考えてたから」
彼方はそう慰める。
「この世界も、仕事だって割り切らなきゃならないのに、全然ダメで。ずっと永遠に続いて欲しいと、身勝手思ってました……」
拳に、滴がぽたぽた落ちていく。
神主の青年は、佳苗の前にひざまずき、彼女の手を優しく包んだ。
「顔を上げてください」
すっとゆっくり上げた佳苗の顔は、見れたものではなかった。目から涙という涙をぼろぼろこぼして、頬にはその涙が流れまくった後だらけで、さっきまでの朗らかな笑顔はみじんもない。青年は、変わらず微笑んでいる。
「三年前、創造主はご自分の命がそう長くはないと、悟っておいででした。そのとき、私は生まれました。できるだけ長く、世界を生き長らえさせてほしいという、創造主のご遺志を継ぎました。どうして、創造主はそうされたのだと思います?」
佳苗は首を横に振る。
「いつかあなた方がもう一度ここへ来るためにです。成長したあなた方が、自分の力でここへ来る時のために。その時には、もう生きてはいないと分かっていながら、そう私に頼まれたのですよ」
「あたしたちが来たから、消えちゃうの……?」
「いいえ。本当は、いつ消えてもおかしくない世界だったのですよ。それを、あなた方は伸ばしてくださった。ただ少し、長生きしすぎただけです。お天道様のところへ行くと決まった日が、今日だったというだけです」
青年の手は暖かく佳苗を包み込んだ。
「この世界は、その役目も終えた。だから、創造主の元へ帰るという、ただそれだけのことなのですよ。悲しいことではありません。死別というのは、新たな出発です。創造主は、そう話しておいででした」
「新たな出発か。……思い出してみれば、俺たちが調査隊になったのは、この世界がきっかけだった。俺たちはそれを見つけた。見つけることができたから、この世界で立ち止まらないで、また新しい世界へ踏み出さなきゃいけない。そういうことなんだろうね」
神主は彼方の答えに満足そうにうなずいた。
「ですから、佳苗様。悲しむ必要などどこにもありません。人生で何度も出会う、別れと思いましょう」
「はい……。落ち込んでも、すぐに立ち直るのはあたしの長所です。いつまでも引きずってたら、おじいちゃんが悲しむもん」
佳苗はジャケットの袖でぐいっと涙をぬぐう。涙の跡は相変わらず消えなかったが、沈んだ表情は晴れていた。
機関車が点検を終えたことを告げる。調査隊の二人は列車に乗り込み、窓を開ける。そこから、神主の青年と、ぎりぎりまで話していたかった。
こちらを見上げている青年は、ずっと微笑を崩さない。
「この列車も、あなた方を無事に送り届けたら、消滅します。ああ、それから、宇宙へ着いたら、外を眺めてみてください。この世界は、消滅も美しいですから」
「うん。あたし、もっと成長します! それを、おじいちゃんと一緒に見届けていてください」
「もちろんです。彼方様、佳苗様をどうぞ、よろしく」
「それこそ言われなくとも」
列車が、発車を告げる。もうすぐ、永久のお別れだ。
神主の青年は、うんと背伸びして、佳苗の頬に手を滑らす。
「元気で、佳苗」
佳苗は、はっとした。でももう遅い。列車は動き出す。できるだけ、危なくない程度に身を乗り出して、手を伸ばす。あの人は、あの人は。
「おじいちゃん――⁉」
あの青年は、祖父の若いころの生き写しだった。微笑んで手を振るあの神主の青年は、祖父の若いころを模して創られた、いわば祖父そのものだったのだ。この世界へ調査に来て、初めて会ったあの青年から感じられた懐古の情は、気のせいなんかじゃなかった。
おそろしくもあるスピードで、青年から離れていく。宇宙空間に入ると、窓は自動的に閉じた。
佳苗は、ずっと窓に張り付いていた。青年の言った、美しい消滅をこの目に焼き付けなければならない。
消滅に、美しいなんてあるのだろうか。そういえば、消滅したというノートの世界の最期を、佳苗は全く知らなかった。消滅は死とほぼ同じ。死んだら、美しいも醜いもない。
「……あ」
間抜けた声が、漏れた。窓越しに見えた、祖父の世界の消滅は、青年の言った通り美しかった。
色とりどりの花火が、宇宙を鮮やかに彩る。列車は世界から離れていくというのに、その花火が小さくなることはない。幾百もの花火が打ち上げられ、佳苗の目に、静かに焼き付いていく。
隣に座っていた彼方も、思わず見入った。
「花火で最期を飾る、か。どこまでも、君のおじいちゃんらしい世界だったね」
「うん」
小さいころの夏祭りに、祖父と彼方と孝太、そして付き添いで来てくれた叔父といっしょに訪れた記憶が、佳苗の脳裏によみがえった。屋台を一通り楽しんで、祭りの最後を、花火が飾った。佳苗が、それを食い入るように見上げていたのを、祖父は見ていたのだろう。最後を花火で飾るという世界の構造は、きっとその時に決めたんだ。
「おじいちゃん。ずっとあたしのこと、見てくれてたんだね」
「だね」
「がんばらなきゃね」
「当然」
最後に飾った花火は、一番大きく咲き誇り、そして、潔く、散った。
四章終了! 次で最後です。たぶん。きっと。




