四ノ②
佳苗が調査隊に入ろうと思ったきっかけは、祖父の存在が何よりも大きかった。
祖父は佳苗が物心ついたころにはすでに左半身が麻痺している状態で、家族の手と車椅子か杖がなければならなかった。佳苗も幼少ながら祖父の手助けをしていた。それが苦になると思ったことはない。むしろ、祖父の支えになることが佳苗にとってはうれしいことだった。
祖父はおしゃべりな人だった。近所に住んでいて、幼馴染の彼方と、兄の孝太を交えて、よく祖父にいろいろなお話をねだった。祖父は佳苗のわがままに喜んで応え、多くのお話を与えた。
佳苗は、いつも祖父の話す物語や世界に惹かれた。その世界がまるで本当に存在しているように思えてならなかった。そんな世界が実在すると、佳苗は本気で信じていた。保育所で、祖父の話してくれた世界のことを話すと、いつも笑われた。笑わなかったのは、兄と彼方くらいだった。
実際に、地球以外の世界が存在することを小学校時代に知った時、佳苗は心底喜んだ。いつも法螺吹きだ変人だと一族からも困られていた祖父の話は、本当だったんだと嬉しく感じていた。
そして、そういった世界を調査する専門職があることを知った佳苗は、中学校を卒業したらその調査隊に入ることを決意した。中学校三年年の時、その進路希望を両親に話したが、当然のごとく反対された。そのときすでに、孝太は高校を卒業すると同時に埼玉の調査隊へ所属することが決まっていた。なぜ兄はよくて自分はダメなのか、両親にしつこく食い下がりまくった。
長きにわたる大会議の末、高等学校へ通うのを条件として調査隊入隊が許された。それからの佳苗は、猛勉強した。
公立高校の受験のための勉強と、調査隊資格取得のための勉強と、二足のわらじを履いた。勉強が苦しくなかったといえば嘘になる。が、志望校は違えど同じ進路を目指す幼馴染のことを思うと、苦痛も和らいだ。
高校に通いながらの調査隊の仕事は、学校側も調査隊側も相手側に深く考慮してくれるので、忙しさはあっても苦しさはなかった。
高校一年になると同時に、調査隊としても働くこととなる。まだ一か月ほどしか経っていないが、徐々に仕事にも学校にも慣れ、佳苗は楽しさを見出す余裕も見出せるようになった。突然の帰郷命令は佳苗にとって初めてのことだったが、こういったことは調査隊では別に珍しいことでもなかったらしい。別の調査隊が調査を引き継ぐことはよくあるらしく、その理由というのは残念ながら大人の事情に絡むことが多いという。今回はそういった事情とは違った引き継ぎだった。
悪魔の世界をもっと調査したいと思っていた佳苗にとって、帰郷命令は少し残念だったが、これから調査に向かうという新しい世界への期待も否定できなかった。
如月に家まで送ってもらった佳苗は、如月と彼方に別れを告げて家に入った。転がり込むようにして自分の部屋についた途端、ぶっつりと何らかの糸が切れたらしく、ベッドに顔からダイブした。
調査隊の入隊条件として、学力維持が課せられているためなのか、単に勉強に楽しさを覚えているからなのか、中間テストの近い日だからなのか、佳苗は調査隊の仕事と同じくらいには勉強をしていた。しかも妙に要領の悪い彼女の勉強は深夜にまで及ぶこともざらである。倒れ伏してまったく動きたくなくなるのも、無理はなかった。体力勝負の仕事と、頭をフル活用する勉強を両立させて、しかも要領の悪い性格が重なるのだから、佳苗の疲労も知らないうちに積み上がるのは当然のことともいえる。
「カナあ~」
ノックもなしに無遠慮に兄が部屋へ入ってきた。佳苗は起き上がるのもおっくうで、とりあえず首だけはドアの方に向けた。
「あー、なに、お兄ちゃん……」
「荷物ここね。着替えは洗濯に出しといたから。あと首だけ振り向くのやめなさい。怖いから」
「はーい」
「三時のおやつは俺様特製のホットケーキだからね。お昼は俺様特製のポトフ作るから、それまでに起きるんだよ?」
「うん……」
それだけ言って、孝太は静かにドアを閉める。いつの間にか開いていた部屋の窓から、少しだけ強い風が部屋に入り込む。涼しげな風がたまに吹いて佳苗の顔を滑り、いっそう佳苗の安眠をうながした。
佳苗は、体を動かすのも面倒になって、今はとりあえず眠ることにしておいた。暇さえあれば、眠ってばかりいる。次に調査する世界はどんな場所だろう、テストはそれなりに勉強しているから極端にひどい点数はとらないだろう、とまっとうなことを頭の中が勝手に考え始め、最終的には現実ではありえないようなことを浮かべ、しかもそれがおかしいと思わなくなるほどになっていった。
眠るときに見る夢も同じようなものだ。はっきりと目を覚ましていればそれが夢であるとわかるのに、眠って夢を見ている最中はそれが現実で、疑いを抱くことはない。
以前、佳苗も似たようなことがあった。
具体的に何年昔のことかは覚えていないが、佳苗は祖父の話してくれた世界に、その足で踏み込んだ覚えがおぼろげながらにある。祖父の描いた世界や物語が、いっぱいに広がって、それだけが今でも心の奥底に残っている。祖父に連れていってもらって、この目で見た感動は、ずっと本当のものだと信じていた。
だが、あれは夢だったのかもしれない。この話を信じたのは、祖父をのぞいたら孝太と彼方しかないなかった。家族でさえそれを夢の一言で片づけた。
夢なのかもしれない。でも現実だったら。
佳苗が調査隊に入隊したのは、地球以外にも多くの世界が宇宙に存在するという神秘に惹かれたのもある。が、この根底には、祖父の描いた物語の世界に、連れて行ってもらったあの場所が限りない宇宙のどこかに存在しているということを証明したかった子供心がある。
祖父の世界は、本物だと。それがただの虚構だと恐れることはなかった。なければ、見つかるまで探し続ければいいだけのことなのだから。要領が悪く、遠回りばかりして、うまくいかないことにくじけることが多くてたまに嫌になるけれど、自分のこの前向きな思考は、結構好きだった。
はっと目が覚めたとき、携帯電話の時計を確認すると、正午の少し前ほどを指していた。頭はすっかり覚醒し、体も軽い。佳苗はすっと起き上がり、手櫛で髪をちょいちょいと整え、一階へ下りていった。食卓には、すでに孝太特製のポトフが置かれており、あとはいただきますをするのみとなっていた。休日なら昼まで軽く寝過ごす佳苗が、直前とはいえ昼前に起きることができたのは、孝太の料理が目の前にぶら下げられていたのが大きいだろう。
昼は兄の料理を食べ、少し小休止したのち部屋で予習をしつつ時々読みかけの小説を読む。おやつ時になったら、兄の焼いたホットケーキと父の入れるコーヒーを楽しむ。佳苗の休日は、このパターンがほとんどで変わらない。コーヒーを飲み終えた父が、たまらず床に寝転んで昼寝をするのを眺めて、佳苗は少し笑う。
「あ、お兄ちゃん」
「どうしたい妹」
「数学教えてほしいんだけど、いいかな」
「構わんわよ。どこ?」
佳苗は中間テストの出題範囲の単元を言う。教科書には走り書きであってもはっきりと読める佳苗の字がところどころに埋まっている。ノートも計算式でびっしり埋め尽くされていて、佳苗なりに問題を解こうとしているのがうかがえる。
「……こんだけやって、なんで数学が苦手教科なのよ、妹」
半眼になりつつ、孝太は教科書と問題集を行き来して、佳苗にしっかりと教えてくれる。
「あたしに論理的思考を求めないでください」
「小論文とか分析とかはむしろ俺様が教えてもらいたいくらいなのに、なんなのこの極端。ナタ坊が教えるのあきらめる気持ちがわかる」
「そこまでひどくないよ!」
「まあ、悪くはない点数だけどどれも平均よりちょっと下なのよね。しかも応用問題が致命的っていう」
「最初の計算問題とかは平気なんだけど」
「応用ってのは基礎ができてちょっと機転を利かせりゃできるもんなのよ。ほら、ちょっとやってみ」
そうアドバイスをもらい、佳苗はノートに丁寧な字で走り書きしていく。おやつ時を終えた兄妹は勉強をし、それがひと段落するとすぐさま仕事の話に切り替わった。
佳苗は教科書と問題集とノートをとんとんと整える。
「ところで、あたしたちが次に行くとこってどんなとこ?」
「三島さんが今情報を集めてくれてるんだ。如月さんに聞いて俺様も一応調べてみるんだけど、全然ヒットしないんだわ」
「じゃあ、また事前の資料は見込めないんだね?」
「最悪、ノー資料ノー事前知識ぶっつけ本番、なんてこともありえるわよ」
「そっかー」
佳苗のこなしてきた調査はいずこも薄い資料だけを頼りにしていた。しかも質量ともに薄さがだんだん顕著になってきて、徐々に新記録を達成していくというおめでたくない記録を更新している。
それでも、未知に対する恐怖心よりも好奇心に満ちる佳苗にとっては、資料の薄さなどそれほど気に留めない。資料がないなら、自分たちで作成すればいいのだから。
「でー、俺たちはまた未開の土地にほぼ武装なしで突っ込まなきゃならないってわけ?」
「そーそー。でも大丈夫よ。緊急用のスイッチだってしっかりメンテしてあるし、何かあった場合の処置は二人とも学んでるでしょう?」
「や、あたしは別に危険だってことが怖いわけじゃないよ?」
「カナの無茶無謀にはいつもひやひやさせられるわ。画面越しに見てもあれほど心臓に悪いもんはないって」
「えー、これでも結構自制してるんだけど」
「んじゃリミッター外したらあれ以上に暴走するのか。気をつけよ」
「ひーどーいー! ……っていうかちょっと待って。なんで彼方君がここにいるの!」
すんなり会話に交じっていたから自然すぎて逆に気付かなかった。佳苗はばん、とテーブルを叩く。
「こーちゃんがホットケーキ焼いたって聞いたから。それに俺たち家は近所でしょ。昔っから桜井家にお邪魔してたじゃないか」
「だからってこんないつの間にか来てたって心臓に悪いよ!」
「まー、それはさておき、なにこれ数学。ホント、君はダメだね」
「さておかないで! そしてしっかりあたしのノートを確認しないで!」
彼方は片手で佳苗のノートをぴらぴらさせながら、彼女の数学に対する悪戦苦闘ぶりをじっくり堪能した。さらりと目を通しただけなのに、佳苗の弱点を正確に突き刺した。
「君ねえ、習った公式使うべきとこを間違ってんだよ。あと問題文で惑わされすぎ。教科書の問題なんて解けるようにできてんだから、与えられた情報整理してじっくり考えればできるよ。授業と違って今は時間あるんだから」
「うう、返す言葉がみつかりません……」
「返せる言葉自体存在しないからね」
「まったくじゃ」
「横暴! そしてお兄ちゃんもさりげなく同意するな!」
騒がしい言い合いも、一度切り替えればそれはすぐに終わる。孝太と彼方が教える立場になれば、真剣にやり方を教えるし、教わる佳苗は相槌をうちながら問題を解こうと思考をめぐらせる。
そうして、のんびりと普通の高校生としての生活を満喫しながら、佳苗は調査隊の仕事もこなす。
調査の当日、佳苗は午前中の授業に出て、午後は公欠をとって調査隊の仕事に赴くことになっていた。昼食は孝太が事務所で用意してくれているので、彼方とは違って昼休みになったらすぐ学校を出る。
調査隊の仕事のため、友達と遊びに行ったり勉強する時間が極端に少なくはあるが、それでも構わず接してくれる友達もいる。佳苗の通う公立の女子高は九十分授業と五十分授業で構成されており、午前は九十分が二コマある。その二コマをこなした佳苗はさっさと鞄にノート類をつめた。隣に座る友達、環は弁当を広げているところだった。
「じゃ、環ちゃん、午後の授業のノートお願いね」
「はいよー。がんばってきてねー」
そう言葉を交わし、佳苗は早足で教室を出る。仕事の予定の入っていない帰り道は、駅中の書店に寄り道したりスーパーで甘いものと炭酸を買ったりするが、今は少しでもはやく事務所に着くのが先決だった。まだ昼時だったため、電車内はとてもすいていた。佳苗は端のほうに座り、英語の単語帳をめくっていた。
降車する駅に着いたアナウンスを聞き、佳苗は単語帳を鞄にしまうのも忘れて急いで電車から降りた。
駅から事務所までの道のりはそれほど遠くない。十数分でたどり着く場所だが、大またで早歩きしている佳苗はものの五分で着いた。
こっちの話とは関係ないのですが、今年4月締切のラノベ新人賞の一次選考結果が出ていました。もののみごとに落ちていました。どんまい!